2016年3月11日金曜日

3・11と旅人

2日前、友人Sから電話があった。
彼は11年前、中国南部・桂林の奥地を旅していた時に知り合った友人で、いまもほんの時折、はがきや電話でやりとりする間柄である。
私はやがて旅をやめ妻子を得たが、旅の達人であるSさんは旅こそ人生であると定め、年に数か月は国内外を一人巡っている。

「いま、どちらですか?」と問うと、
「いやぁ、函館です~」とSさんは答えた。
北海道の街並みをイメージし、羨ましく思った。
後ろががやがやしているので「飲んでるんですね?」と訊くと、「飲み屋さんなんだけど、ひとりぼっちでさ」という。
しかし、Sさんがこのタイミングで電話を寄こすのは、やはり気まぐれではない。

彼は2011年の震災直後から、ちょくちょく被災地を訪れている。日本中・世界中を歩いているので、なじみの土地が多いのだろう。
震災から5年目を迎える今回も、賑やかになるであろう3月11日を避けながら、仙台や三陸などを巡って土地の友人と会い、被災地の変化する景色を見る旅をしてきたようだった。今回の旅の目的を果たし、そのまま大好きな北海道に抜け、ほっとしたところで、2011年に放射能を恐れて沖縄に移ってきた私に、報告のような電話をくれたのだ。

震災で2万人が亡くなったあの日は、私にとっても人生を大きく変えるポイントとなった。
妻の茨城県東海村の実家の壁には縦割れが生じ、道も橋も酷い状況だったという。水道ガス電気が数日間通らなかった。
妻は震災が起こるひと月前に2ヶ月の息子を連れて、実家から神奈川県中井町のアパートに戻ってきていた。

地震の時、我々小家族は大磯から鎌倉まで車を走らせていた。ラジオのニュースをずっと聞いていた。尋常でない渋滞になったので、藤沢でデニーズに入って軽い食事をとった。小さな津波が境川をさかのぼってくる様子を、車から降りてデジカメの動画に収めた。
1時間で帰れるはずの場所まで帰宅するのに9時間もかかり、夜になった。所々で信号や町全体の灯りが消えていて異様だった。家でみたテレビには、かの信じられない光景が映っていた。
3月11日からその後の数日間にあったことは、私にとっても特別な経験として記憶にある。
いろいろ書きたいけれど・・・(そのことは、またの機会にします)


Sさんは、東京・町田の人だ。
私は神奈川県央の海老名市で高校大学時代を過ごした。町田と海老名は、小田急線に乗れば15分の距離である。
Sさんと出会ったのは2005年で、中国奥地の桂林のそのまた奥地の山深い田舎の一軒宿だった。相部屋のベッドが隣同士で、数日の間、一緒に村を歩いたり、夜にはバカ話で盛り上がり、持っている本を交換して読み感想を言い合ったりした。
翌2006年、私は二度目の放浪のひとり旅からの帰途、インドのコルカタから成田に飛ぶ飛行機に乗っていた。途中タイのバンコクを経由したが、その停まっていた15分ほどの間に、機内にSさんがのらりくらりと乗り込んでくるのを見た。
私はとっさに声をかけ、感動の再会に固く握手した手をなかなか離さなかったが、Sさんは私のことをなかなか思い出さず、「誰? 誰だっけ?」としばらく不審がっていた(私は短髪から長髪に変わっていたのだ)。
Sさんはつい先程まで、連日昼夜問わず飲み暮らしてバンコクに10日間滞在していたという。ひどい二日酔いでぐったりとしており、靴も盗難にあって、飲み屋のスリッパを履いていた。
成田からも同じリムジンバスに乗車したのは奇妙な心地だった。町田でSさんはバスを降り、次の相模大野で私も降りた。それから小田急線に揺られわずか10分後に故郷の街に着いた時、インドはなんて近いのだろうと感じた。


「函館は、雪はどうですか?」
私も北海道好きだが、沖縄からなかなか外に出ることがない。
「雪ねぇ・・・もう雨で全部とけちゃった。7℃もあるんだよ」
「7℃ですか・・・雪、ないんですね。沖縄は24℃です。なんで今回は函館なんです? はるばると」
「函館、いいんですよ、ホントお薦めだよ。旧き良き町並みが、グッとくるのヨ」
旅の話は、私のほうにはネタがないので訊ねるばかりだが、Sさんは旅の話をするのに飽きている。だからこういう会話はSさんのサービスなのだ。

Sさんは被災地の友人の顔を見に、毎年、福島や宮城を訪れている。
原発事故とその影響についての意見は、私とぴたり同じわけではない。たとえば私は、放射能汚染を非常に警戒している。
彼はもう少し安全性を見極めてぎりぎり大丈夫と思うところを目指そうとする。だから、私なら絶対に口にしないしさせない三陸産の魚介類も、美味しいといってもりもり食べてしまう。
しかし「安全ではないよ」ともSさんは同じ口で言う。

Sさんの話によると、友人の子供が通う学校では、癌ではなくても甲状腺異常や体調不良の子がクラスに大体1人はいるらしい。
「テレビとかはさ、こういうことは取り上げないでしょ」
政府などによる報告では、子どもの甲状腺がんなどの発症率に差はなく、放射能の影響は見られないとしている。
別の研究団体などの発表では、発症率は高く死亡するケースも出ており、被害は甚大だとするところもある。


毎年3月11日になると、震災以降に知り合った大切な数名の友人家族たちに、私は電話をかけてしまう。色々考えてしまうし、感慨深いからだ。声を聞きたくなる。
でも、Sさんと話した後、今年はそれをしないと決めた。

5年。
――5年が節目だと、震災直後からいわれてきた。
放射能の影響が子供たちにあれば、チェルノブイリでは4~6年で影響が顕著になりはじめたからだ。フクシマ原発事故の影響も、5年が節目であろう、と。
その5年目が来たのだ。

私は一昨年、那覇の病院で息子に甲状腺のエコー検査を受けさせた。赤嶺にあるその病院では、3・11の影響を考慮してエコー検査に訪れた人はそれまで皆無だったそうだ。
担当の若い男の先生は、「まったく異常はありません」と言ったが、その言い方には呆れ笑いが混じっていた。先生は、じぶんは震災の時仙台に住んでいたんですよ、と言った。そして「感情でなく科学的に考えれば、あの程度の放射能で、甲状腺異常なんて出るはずがないんです。私の子供たちも、全然問題ありませんよ。ましてやあなたがいたのは神奈川でしょう?」と話した。
私は、(感情的であることと科学的であることは二津背反ではあるまい)と思ったが、そこで先生を相手に討論をするつもりはなかった。それこそ、決めつけた態度で診察しないでちゃんと科学的に見てくれれば、それで十分だった。
私が移住を決めたのは、子どもが赤ん坊だったことと、近所の南足柄に基準値を上回る茶葉が確認された(ホットスポットがあった)こと。放射能が水道に入った(と後でわかった)夜シャワーを浴びていた私が急激に視覚異常を起こし夜な夜な病院に行った経験があったこと。周囲に鼻血が止まらないという人が何人かいたことなど、もろもろの出来事があったからだ。

あとで友人の医師にこのエコー検査の一件を話すと、彼は呆れてこう言った。
「同じ医者としてほんとうに恥ずかしい。あの程度の放射能で異常が出るはずがないだなんて、よくそんなとんでもないことを言えるよ」

5年というのは短くない月日だ。けれど過ぎてしまえば、長かったようには感じない。
私自身は、ほんとうに色々とやろうと思っていたことを放置してきてしまった。何も片付いていない気がしている。色々と、やるべきことをもっとしてから、友人たちに連絡をとろうと思う。

昨晩は床でタブレットを開き、松岡正剛「千夜千冊」サイトの震災・原発関連記事を、延々と読んでいた。この著名編集者の松岡正剛氏の言を、私は全信用しているわけではない。しかし、それでも日本の知識人のなかで、この人ほどオープンかつ体系的に、広範で深淵な読書案内を提供し更新している人は他にいない。ダントツだ(氏は体系を嫌っているというが、どうみても体系をつくっているし、そこにこそ氏の仕事の価値がある)。
震災・原発関連記事も、その歯に衣着せぬ書きぶりと論説が素晴らしかった。
Sさんとの電話で、私はこう話した。
「松岡正剛はかなりのナルシストだし胡散臭い所もあるけれど、ほかに参考にできるマルチな大物知識人が見当たらない。たとえば立花隆もぱっとしないし」
するとすかさずSさんは「だって立花隆は過去の人でしょ?」と、きっぱり言った。なるほど、とそのシビアな評価に私は頷いたのだった。

松岡正剛「千夜千冊」を読みさし、タブレットを閉じると、私はなんだか涙が出てしかたがなかった。
震災記事は気がめいる。


2005年の旅の途中、22万人が亡くなったスマトラ沖大地震の津波被災跡地を訪れたことがある。少しだけボランティアに参加したのだけれど、荒れ果てた被災地はどこも似ていた。船は建物の上に乗り、その写真はポストカードになるものなのだ。
私は自身の翻弄される運命に手を打てないままだし、他者の酷い不幸のことは忘却し始めている。
ただ日々、生活に流されている。
日常生活を毎日なぞる。
日常的にあることだが、昨晩にも、私は赤子を抱いて寝かしつけながら、言うことを聞かない長男を叱りとばした。妻は風邪かインフルエンザか、高熱を出し早めに休もうとしていた。
5歳の息子はひとしきり泣いてから眠ったが、眠る前に描いた絵がテーブルの上に、画板に挟んだまま置いてあった。笑顔の人が大の字で手足を伸ばしている明るい絵だった。

子どもがやっと寝たといって、妻は辛そうな顔で隣の部屋に来ると、しばらく私と話を交わした。子どもや育児について、震災について、不幸と幸福について。
子どもが描いた絵を見下ろしたまま、妻は「3・11ね」と言って涙ぐんだ。時計の針は12時を過ぎていた。