2016年12月28日水曜日

さよならレイア姫

昨日(2016年12月27日)『スター・ウォーズ』のレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーが心臓の病気で亡くなったというニュースがあった。60歳とは早い。ショックである。
今年は、R2-D2の中に入って演じていたケニー・ベイカーも亡くなった。1977年最初作の『スター・ウォーズ』出演陣がどんどん亡くなるのは寂しい。

ついこの間の12月16日、元上司ら3名と一緒に『ローグ・ワン(スター・ウォーズ・ストーリー)』を観てきた。初日だが沖縄の映画館はけっこう空いているので真ん中後方の良い席で観られた。
この同じメンバーで昨年12月にも『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を公開3日目に観た。
だからこのメンバーになると、必ず『スター・ウォーズ』論評が飛び交う。一致した意見は、やはり昔のエピソード4と5とが秀逸だということ。

問題となる不一致の意見は、ヒロインの評価である。他のみんなは「スター・ウォーズのヒロインは総じて魅力がない。辛うじてアミダラ女王はゆるせる」ということだが、私は「レイア姫もいいし、レイちゃんも、ジンちゃんもよかった」と好評価をもっている。「けっきょく、誰でもいいんでしょ?」と言われるオチになるわけだが、私はアミダラ議員があまり好みでない。
まぁ、いずれにせよ好みの問題である。
案外人気のないレイア姫だが、私にとって、彼女の雰囲気が『スター・ウォーズ』の大切な要素になっている。あのデス・スター設計図のデータをかがみ腰でR2-D2に仕込む時の、謎めいた幻想的な印象。ダーズ・ベイダーを前にムキになって強気発言をするツルツルお肌の表情。ジャバ・ザ・ハットに鎖で繋がれ・・・(おっと、もうやめておこう)。

2015年の『スター・ウォーズ フォースの覚醒』には、すでに皺くちゃのお爺さんお婆さんになってしまったハンソロとレイア(ハリソン・フォードとキャリー・フィッシャー)が頻繁に登場し、観客を沸かせると同時に失望させてくれた。
が、最新作のスピンオフ映画『ローグ・ワン』には、1977年のキャスト数名が当時そのままの顔立ちで登場する。若いレイア姫もラストに出てくる。CG処理(3Dレンダリングというデジタル技術)で人の表情まで再現できるようになったことを見せつけられた。これ見よがしだったが、まんまと驚いたし楽しめた。

なお、『スター・ウォーズ フォースの覚醒』は映画館で2度観たが、自分にとっても特大のインパクトを伴った娯楽だったのに、観終わるとスーッと面白さが減少するような印象が否めなかった。尻すぼみであり、詰めが甘すぎて、星はでかくてもストーリーが小さいと思った。突っ込みどころ満載なのだった。
今度の『ローグ・ワン』は、話自体はそもそも小規模なのだが、表現が細やかでリアリティある悲劇が再来し、とてもよかった。よかったのではあったが、インパクトは小さく、見終えて数時間もすると印象にあまり残っていなかった(同監督の『GODDILA』もそうだったから不思議である)。そういえば、今年めちゃくちゃ話題になったアニメ『君の名は。』も観ているときの幸福感に比べ、鑑賞後の印象は消えていくのが早かった。

それに比べると、1977年の『スター・ウォーズ』やその次の『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』は、観てから30年近く経ってなおも胸に沁みついているのだから凄い。いや、数か月前に子供と観たら、たしかに(案外子供じみている映画なんだな)とは感じた。私も大人になったのだ。10歳の頃「金曜ロードショー」のビデオ録画でみた当時は、映画の範疇を超えるほど強烈なイメージに打たれたものだった。これぞ、幸福な映画体験というべきものであった。



この年末年始は、家内と子供たちだけ実家に帰省しているので、私は静かにじぶんのすべきことを進めたり、ひもじくも悠悠自適に暮らしている。そんな私が寂しくしていると気遣って、元上司2人(53歳と26歳)がマクドナルドで色々買い込んでうちにやってきたのは一昨日のことだった。
じつはその前の日つまりクリスマスにも、その元上司のお宅のクリスマス会に呼ばれて夜中1時過ぎまでワイワイしていたのである。「連日じゃないですか」と私も嬉しさまぎれに呆れた。

で、その日最後のTV出演となるSMAPの話題は1度も出たりせず、いろんな話をかわしたなかに凝りもせず『スター・ウォーズ』の話題がけっこうあった。われわれはSW新作にああだこうだ文句を言いつつも、それぞれの家にスター・ウォーズのグッズは着実に増えているのだから困ったものである。2つ3つといったレベルではない。

私はEP盤の『スター・ウォーズ』のレコードを掛けた。いつか骨董市で1枚300円で買ってきたものだ。曲は「スター・ウォーズのテーマ」「酒場のバンド」「ダース・ベイダーのマーチ」「ヨーダのテーマ」のみ。私は「酒場のバンド」が一番好きだ。よく口ずさむ。ルークとオビワンがモス・アイズリー宇宙港近くで入り、ハンソロとチューバッカが初登場した、ならず者ばかりが集まる酒場“カンティーナ”で演奏されていたBGMだ。愛嬌ある名曲だと思う。
音質に非常にこだわりある年上元上司は、「盤が曲がってる」「盤に水拭きした跡がある」「直に手で針を落とせないの?」「スピーカーが酷すぎだ」「モーターの動きが不均等だ」「そういう所に(盤を)置くなよ」とうるさく注意する。
年下元上司は、長男のBB-8ラジコンで遊びながら分解し、バラしたまま内部車輪の動きをチェックして面白がったりしていた。

さて、元上司2人が注目したのは、私が使っている「スター・ウォーズ」デザインコラボのCampus大学ノート。5冊組で、地味だがペン画などがかっこいい。
「いくらしたの?」
「家内から貰った物だから分かりませんけど、普通のノートの値段かと思いますけど」
「結構凝ってるから、版権高いはずだよ」
「そうでしょうか?」 私は普通に雑記・日記ノートとして使用している。

「ああ、そういえばレイア、飛行機の中で倒れたよねえ」と年上元上司。
「ヤフーニュースでみました。大丈夫ですかね」
「どうだろうなあ。しかしやっぱりハリソン・フォードと付き合ってたんだな」
「暴露本を出したって記事、読みましたよ。でも前から公表はしてたみたいですよ」
「そーなの? ハリソン・フォードもころころ相手変えるからなぁ」
ゴシップ記事をコピペしたようなこんな会話もたしかにあった。2日後にレイア姫が亡くなってしまうなんて、やはり我々は思っていなかったのである。

だって、2017年の『スター・ウォーズ(エピソード8)』は、レイアがいなければ困るではないか(→ある記事によると、どうやら次回作の撮影は完了しているとのことだった)。
ああ、3Dレンダリングでどうにでもなるのか? いやいやいや。

・・・寂しいかぎりだ。



2016年12月15日木曜日

2016年末雑感メモ

年末が差し迫り、顔を合わせたり電話で話す知人友人とも「もう今年もあと少しだね」などといいあって、焦りを共感する季節になった。早い。タイム・フライズだ。

この頃の生活スタイルのせいであろう、めっきり友人と電話をかわさなくなっていたので、先日まとめて電話をかけたら誰も出なかった。家庭あり仕事ありでみな忙しいのだ。
時間差で掛けなおして来てくれたので話したが、聞くと多くの人が2016年末は何らかのトラブルや不運に見舞われていて、慌ただしくも気の毒である。

じぶんは割と問題はないなぁ、と思っていたものの、考えてみれば色々あった。特に、乗用車のエンジンオイルの調子が悪いのは気になる。先日交換しようとカーショップに行くと、なんと空っぽだった。オイルを注いでもらって、急いで修理会社に出向いたら、もしかするとかなり高額の修理になるかもしれないという。しばらく様子見だが、これが運転中に不都合を自覚しないのだからもやもやする。

それから、数日前には1歳になった二男の長風邪をもらって、完全ダウンした。
朝から晩まで、トイレと布団の往復しかほとんどしないでずっと寝ていた。葛根湯とノンカフェインのリポビタンDとミカンが一日の主食だった。頭痛、38.2℃の発熱、めまい。無意味な長い夢を延々と見て過ごしていた。
二男も風邪なので、食べては咳き込んで吐く、ということを1日で11回も繰り返し、いつもなら後始末や洗濯などを妻と連携プレーで済ませるところを、私は他人事と放って寝ていた。その慌ただしい事態が、はるか遠くに聞こえていた。食べさせれば吐く、というアルゴリズムが判明しているのに、なぜ妻は同じ愚行を絶え間なく繰り返しているのだろうか、とまぶたの裏でぼんやり不思議に思った。妻はあまりの手間と労力に、最後には発狂するかのように1歳児を怒鳴っていたが、まぁ、それくらいはにんげんだもの、である。

今は徐々に回復し、家族の生活ペースも概ね回復した。
子らは健やかである。長男は場の空気を読めないほど元気だ。
二男は咳をしながらも元気で、妻が寝かしつけてもいつまでも眠らず、夜11時頃には何度となく私の部屋へハイハイして来てしまう。その時は私は高校時代の友人と久々に長電話をしており、あまり相手をしてやらなかった。すると、やがて泣きわめく。
ケータイ片手に、長男を寝かしつけている妻のところに二男を連れて行っても、またハイハイして私の部屋まで来てしまう。その繰り返し、繰り返し、である。可愛いが面倒だ。
家内も憔悴しているので、私もやっと電話を切った。添い寝してやると、二男もすぐに眠った。長男はマザコンであるが、二男は両親ともいないとダメなタイプなのはわかっている。

日々、ちまたでは色々なニュースが流れているけれど、やはり良いニュースは少ない。
特にこの2日間のニュースでは、沖縄でもオスプレイが落ちたり壊れたりしているのに、アメリカ軍も日本政府も度を越した横柄さを露呈しながら開き直るという態度をくりかえしている。司法までも飼いならして辺野古の埋め立てを進めたり、無茶苦茶だ。
いったいこの国はどうなっているのかと、開いた口が塞がらないというか、塞ぎ込んでしまうというか・・・それでも安倍首相の支持率はけっこう高いままなのは、私の政治理解を超えている。ペンパイナッポーアッポーペンの面白みは理解できてきても、沖縄を取り巻く日本とアメリカの対応は理解しかねる。「大衆」云々という話ではないのである。

私の一案では、まずは新聞各社が、あのドローンタイプのヒコーキの名称を「オチプレイ」と全面変更するところから始めたらいいのかもしれない。統計学的には一般の米軍飛行機より落下しないので安全というが、こんなに頻繁に落ちている。奇妙な統計、落ちるべき設計、支配者の奸計というしかない。

まぁまぁの年だった2016年ももうすぐ終わる。
一年の計は元旦にあり。来年は良い年にしよう!

みなさま、2017年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


2016年11月9日水曜日

トランプ大統領の誕生

今日は朝から鼻風邪をこじらせて、ドリンク剤を飲み、パンプキンスープとミカンを食べて休んでいた。
目覚めると布団のなかでタブレットで読書をしていたが、もうすぐ1歳になる子どもがハイハイしてタブレットを奪いに来る。好きにさせるとスワイプを真似てさすが現代っ子らしい。・・などと感心もしたが、こちらは読書の途中なので、やがて奪い返す。すると絶望的な表情で大泣きした。

妻が息子たちを連れて買い物へ出かけ、私はパソコンの席に移る。
途中から、今日のアメリカ大統領選挙の開票が気になりだし、ネット速報で地図と棒グラフが、青と赤とに塗られていく様子をチェックしていた。ヒラリー・クリントンの青い民主党VSドナルド・トランプの赤い共和党。

接戦がずっと続いた。が、トランプのバーが先に過半数に近づいてきたので、私も布団に戻って、テレビ(NHK)をつけた。


日本時間午後2:35分。――大統領選の模様を中継するニュースの途中で速報が入り、AP通信がトランプ氏の勝利を伝えた。

今日は日本のみならず世界中の金融市場が乱れている。5ヶ月前のイギリスEU離脱を巡る選挙のときと同じだ。そしてついに、世間の予測と真逆の結果になる、というところまで同じになった。

私は苦笑した。
この選挙結果には、苦笑するしかない。

西側の大半の国々は動揺しているだろうが、日本政府もわたわたしているに違いない。何せ日本という国家は、政体としては敗戦この方ブレることなくアメリカ帝国の子犬だ。

先月の国連総会での「核兵器禁止条約の交渉開始に関する決議」では、なんと日本が、数少ない核兵器保有国に混じって「反対派」にまわったことがニュースになった。
世界唯一の被爆国が、核兵器の存在に賛成票を投じたのである。
私だって呆れ返ったが、一生懸命アメリカに尾尻を振る、見事なまでにぶざまな小国ニッポンは世界の注目を浴びた。「世界の軍事バランスが・・」などという言い回しは白々しくて、聞いているだけでも恥ずかしくなる。

そしてこれまで日本政府は、せっかくアメリカの言うとおりTPPも強引に推し進めてきたのに、当のアメリカの政策が変わってしまう。
TPPにトランプは反対なのだ。
また、せっかくアメリカ軍事力の傘下にいるのに、トランプは安保のためにもっと日本に金を出せというスタンスを発表しているのだ。
安倍総理はすぐさまトランプ氏に媚を売るメッセージを送った。そんな安倍さんへの国民支持率は過半数超えで高い。

けっきょく日米とも、金回りのことを豪語しまくる人間をこそ支持するということになっている。日米とも、過半数の一般市民の内面は「乞食化」しているのだ。

かくゆう私も、名前からしておふざけ路線のドナルド・トランプ氏が大統領選に勝利したという速報を目にして、ひとり苦笑した。
オモシロイと思った。
これからどんな世界情勢が展開していくのか、見当がつかない面白さ。
優等生ではなく、アホな人間が逆転勝ちして天辺を獲った面白さ。
アメリカ政府そのものがギャグになる面白さ。

いや実際には、つまらないことになるかもしれない。
ブッシュJr.のときがそうだったが、あれも半分ブラックジョーク的だった。世界中で戦争は激化の一途を辿ったのである。

共産圏(中国・ロシア)はトランプ勝利を本心では歓迎していると記者たちがニュースで話していた。
世界情勢はこれからどうなっていくのだろう?


私は自分の手回りのことをしていこう。
読まねばならないものがたくさんあるし、研究すべきこと、書くべきことがたくさんある。まずは自分の風邪を治さねば。
小市民には小市民のやるべきことがある。あたり前のことだが政治がすべてではない。



2016年10月16日日曜日

松岡正剛『千夜千冊』の誤字脱字批判


(名編集者・松岡正剛氏のことは、これまでブログに2度とりあげた。
 →・読書メモ(20160615)『国家と「私」の行方』(松岡正剛、春秋社、2015)
 →・デカルトの重箱blog 松岡正剛『国家と「私」の行方』、そして『千夜千冊』 )

私は今、松岡正剛氏の孤高かつ怒涛のブックガイドブログ『千夜千冊』の全読破を試みているが、このペースでいくと単純計算で5年以上かかりそうだ。
つまり私は、まだまだ序の口の段階にいる。

それなのに、すでにかなりの誤字脱字が散見される。
枝葉末節のことであろうか?
・・・だが氏は、なんといっても日本一の名編集者なのである。
不特定多数の読者に読まれている公式ブログの誤謬を直そうとしないというのは、一体どういう見解なのだろう? 正剛氏のような立場であれば、いくらだって生徒や弟子や従業員にチェック・訂正の仕事を回せると思うのだが・・

出版物なら、印刷後に誤記の訂正がある場合には、小さな訂正記事の紙が挟んであることもある。作り手・著者としては、満を持して世に問うたはずの本に僅かでも間違いがあれば、1秒でも早く直したいという気持ちになるのが自然だと思う。誤謬の訂正は礼節であり、プライドであり、そして良心である。

しかし、たとえば松岡正剛氏の『国家と「私」の行方』は2015年に出版された良書だが、2巻本に4箇所の誤記をみつけた。訂正記事について言及はない。ウェブサイトをみても何もない。
・『国家と「私」の行方』 春秋社ページ

さて、今年の3月に「ISIS(編集工学研究所)担当者様」宛に、「千夜千冊の誤植などについて」と題したメールを送った。
半年以上経つが、返事もなければ訂正もなされない。連絡がつかないということは、・・何なのだろう? ほとんど読者のいないブログの書き手である私だって、誤字脱字に気がつくと恥ずかしくて、すぐにでも直したくなるのに。

この『千夜千冊』ブログは、すでに分厚い豪華本としても出版されている。もしかすると出版の際に直されているかもしれないが(それについては私はチェックしていない)、今度なんと角川文庫にも入るというのだから心配になる。
それで、ここに私が個人的にメモした「『千夜千冊』訂正箇所」を以下に挙げておくことにする。

重ねて言うが・・・こういうことは、松岡正剛氏ご本人あるいは関連会社または出版社が率先してなすべきことのはずだ。
そして出版物と違って、ウェブ上のとくにブログは、その気があれば一瞬で直せる媒体なのである。

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〈『千夜千冊』ブログ訂正箇所Memo/2016.10.16 時点=68読了/全1621夜〉
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・番外録INDEX
「東日本大震災から5日後の2012年3月16日、」→2011年3月16日

・9夜
「アリストレス」→アリストテレス 2箇所

・18夜
下線足らず「インシュタイン著」→アインシュタイン著

・17夜
下線足らず「倉百人一首のような」→小倉百人一首のような

・16夜
「つなぎあわせてていく」→つなぎあわせていく

・125夜
「”ぼく”」→“ぼく”

・168夜
「解決しょうと」→解決しようと

・888夜
「します二人は」→します。二人は

・982夜
「イギリ人」→イギリス人
「左欄」→右欄

・994夜
「ととして」→として

・995夜
「recollectin」→recollection
「することころ」→するところ
「メンデレーフ」→メンデレーエフ

・1005夜
「アウストラピテクス」→アウストラロピテクス

・1095夜
「フルートを持つ」→フルートを持つ女 3箇所

・1187夜
「ケインノほうで」→ケインのほうで

・1251夜
「イノシシにはタタリ神という凶暴な神が憑いている。」→「憑いている」のではなくイノシシ自体がタタリ神に「なった」と思われる。
「アシタカは万事が納得できずにタタラ場にとどまることを決意する。」→アシタカは「納得できずに」ではなく、「状況を受け入れて」人間と森との架け橋となった、と説明するのが彼の表情からしても妥当であろう。同様に、サンは「人間を許すことはできない」と言ったけれど、人間であるアシタカを「受け入れた」という顛末だ。

・1262夜
「9割知覚」→9割近く

・1314夜
「ブラウンジング」→ブラウジング
「トマス・アクイナス」→トマス・アクィナス
「めぐっている。。」→めぐっている。
「Aからら」→Aから
「それわ体に」→それを体に
「言葉がゆきわたらせる」→言葉をゆきわたらせる

・1336夜
「スタフグレーション」→スタグフレーション

・1361夜
「正当化をもたらすのてはないかという」→もたらすのではないかという

・1362夜
「思えてくるだろうとということ」→だろうということ
「インドではヴィトリア朝に」→ヴィクトリア朝に

・1367夜
「返済すなくとも」→返済しなくとも

・1368夜
「算出」→産出 2箇所
「通過」→通貨
「国王ヒピン」→国王ピピン

・1399夜
「アリストレス」→アリストテレス

・1409夜
原発批判を含む文脈のなかに鷲田清一氏を取り上げてあるが、残念ながら、鷲田氏は反原発の立場を取っていない。

・1422夜
「歴史をつくてきた」→歴史をつくってきた

・1447夜
「食卓の上で0・38マイクロシーベルトを」「1マイクロシーベルトをいつも超えていた」→分母に時間単位がある方が断然ベター

・1456夜
「クリーン・エルギー」→クリーン・エネルギー
「大腸菌をつかってDNA組み替えて」→大腸菌をつかったDNA組み換えで

・1601夜
「多変量解析は多くの変数からなるデータを統計的な扱って」→統計的に扱って
「しかし、結局はこんなことしかかできないのである。」→しかできないのである

・1604夜
「ポビュリズム」→ポピュリズム
「ますまず」→ますます

・1605夜
「植物ガ」→植物が
「編集工学編集工学研究所が」→編集工学研究所が

・1606夜
「デヴィッド・マー『ヴィジョン』」→『ビジョン』

・1619夜
「細胞膜(cell membrsne)」→cell membrane
「転写(trnascription)」→transcription
「RNAスプライシシング」→RNAスプライシング


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※〈2016.10.17 追記〉

 なお、「千夜千冊」567夜に、『誤植読本』(高橋輝次、東京書籍、2000)が取り上げられてある。
 この稿に正剛氏は、こんなふうに書いている。
 
 ・「中国では「魯魚、焉馬、虚虎の誤り」という。魯と魚、焉と馬、虚と虎は書きまちがいやすいということだ。また中国で「善本」といえば、良書のことではなく誤植のないエディション(版)のことをいう。それほど誤植は恐れられてきた。」
 ・「ぼくも編集者のはしくれとして、つねに校正と誤植には悩まされてきた。実は校正はあまり得意ではない。」
 ・「その後ワープロやパソコンで文章を打つようになると、今度は自分で最初から打ちまちがえたままになっている。」
 ・「この「千夜千冊」もワープロ打っ放しでスタッフにまわしてしまうときは、つねに3~4字がまちがっている(ところが10字まちがうとか、1字しかまちがわないということは、めったにない)。」
 ・「それにしても、誤植の入った自分の文章に出会うと必ずサアーッと冷や汗が出る。これはまことに奇妙な感覚で、なんとも居たたまれない。羞かしいやら、無知を晒しているようやら、もう弁解も手遅れで情けないやら、奇妙な後悔に立たされる。」
 ・「しかし、あらためて冷静に考えてみると、なぜ誤植が居たたまれない感覚に満ちたものなのか、その理由ははっきりしない。むろん歴然たるミスであるのだからどこから咎められても当然ではあるけれど、その責任はいわば著者・編集者・校正者・版元に分散しているのだし、(中略)この事実に気がついたとたんに“みっともない気分”になるというのは、この犯行感覚にはなかなか見逃せない異常なものがあるということなのである。」

 ・・・このように、正剛氏もやはり誤字脱字は頗るイヤなのだと分かって、多少ほっとした。
 しかし、ではなぜ速やかに直さないのだろうかという疑問はいっそう膨らむ。

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※〈2016.12.22~ 追記〉
とにもかくにも私は『千夜千冊』全読破に向け、サイトをほぼ毎日みている。
11月18日のコメントに、「肺癌でした」とあって衝撃だった。また最近の『千夜千冊』に、肺癌で2010年に死去した作家・井上ひさしとの思い出を綴った箇所があって、次のように書いている。

「ぼくと同様のヘビースモーカーで、あちらは1日40本、ぼくは60本を維持し、誇りにしていた。(中略)互いに喫煙は肺癌とはカンケーないとえらそうに豪語していたが、そうはいかなかった。」

喫煙経験のない私は、タバコを吸う人に対し一抹の軽蔑視を禁じ得ないのだが、正剛氏のような「超」知識人がタバコ→肺癌などという愚鈍な経路をとると、(なんのための知識だ!)と憤りをも感じてくる。
『千夜千冊』は読めば読むほど物凄いブックガイドである。それを書き続ける正剛氏はやはり物凄い人間であろう。そういう人は日本のため、というか人類のために、絶対に長生きするべきなのである。

コメントには12月14日に手術を受け20日に退院した報告があり、痛みと鬱々なる心境を告白なさっていた。21日には事務所に十日ぶりに戻って郵便物をみるなどのルーチンをこなし、はや「千夜千冊に着手した」と書いてあった。私は少し感動した。
心から退院おめでとうございます、と申し述べたいが、私はただの一般人かつあかの他人なので胸に留めておくのみにする。

それにしても、読んでも読んでも果てしなく感じる『千夜千冊』に、相変わらず誤字は次々と発見される。数限りないので私もすでにメモするのはやめているが、(これは酷いな)というのを3つだけ挙げておく。
正剛氏は術後なのだ。お弟子さんたちが気を利かせて直してあげるべきだと思うのだが・・


・1600夜
『設文解字』→『説文解字』

・1603夜
「フランスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは」
→スイスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは。(フランス人移住者の家系だがスイス人。なお「シニフィアン」「シニフィエ」はフランス語。)

・0550夜
「・・・(臨済は)大愚和尚の師事を受けた。」
→に師事した。(「師事する」で「教示・教えを受けること」であり、「師事を受ける」とは言わない。)

2016年10月8日土曜日

耳鼻科の力

私の家系は鼻が弱い。
そんなことは誰も言わないが、見渡してみれば明らかにそうなのだ。
そして自分もそうである。
小学5年の頃から花粉症で耳鼻科通いだったし、大学の時には鼻中隔湾曲症で鼻がつまりやすく、そもそも常日頃から鼻腔が荒れている人生なのである。そのためか、年に何度も風邪を引き込むし、逆に、たまたまマスクを常々装着している時期には、あまり風邪をひかなかったりする。

今年の夏の初めは、風邪を何度もひいていた。
立て続けに2、3回軽めの風邪をひいた。つまり50日間くらいずーっと風邪っぴきだったのだ。
それで、その風邪が治ったら・・・
鼻声が定着してしまっていた。

周囲の人間は、もう慣れて、私の声がこういうくぐもった声だと思いこんでいる。
しかし、久しぶりに会ったり電話で話したりする友人は、「また風邪?」と訊いてくれる。

「いやぁ、これこれしかじかで、森本レオみたいな声になっちゃったよ・・・」
「・・・ぜんぜん似てないけど」
というやり取りを、何度交わしただろうか。

この2ヶ月ほどは、左耳の奥にガサゴソと異音が聞こえるようになった。
いつもではない。隔日くらいで鳴る。
中耳炎に似ている。しかし、耳が痛いとか耳垂れがあるとかいうことはない。
鼻声のほうも、喉が痛いとか頭が痛いとか鼻水が出るとか、ぜんぜんそういうことはない。
つまり、実害ゼロ。ただ不快なだけの状態がずっと続いているのだった。

  *

そうはいっても・・・不快だ。
気になる。
それで今日の午前中、町の耳鼻科へいってきた。

この耳鼻科はいつも混んでいるが、今日はさほどでなかった。
ふだんはお爺ちゃん先生が、大量の患者を、まるで時計の針のように淡々と診療して治療して、数多くの看護師さんを使ってエンドレスにさばいていく。
余計な口はきかない。時には必要最低限の説明もしない。気難しそうな静かなお爺さん先生だ。
が、患者の話を無視したりはしないし、措置が的確なので、名医だと思う。
――薬を大量に出すという性格をのぞいては。

だが面白いことに、そのすぐ下にある小さな薬局にいる若手の薬剤師が、これまたまるで名医のようなのである。
上の耳鼻科でお爺さん先生が処方した大量の薬やステロイド剤などを、下の名“薬剤師”が一通り症状を聞いて、再判断してくれる。

「この薬の量は多すぎると思うので、こちらと、こちらだけにしておきましょうね」
「ステロイド剤は、気になるでしょうから、今回はやめておいてもよいでしょう」
「この薬は弱いので、これくらいなら大丈夫です」
「ジェネリックにしておきました(勝手に)」

小難しい処方箋でも懇切丁寧に、ある種情熱的に解説してくれる。
私どもは、その若き薬剤師を非常に信頼するに至った。あるときは感動さえ覚えて、妻とこんな話をしながら帰った。

「ああいう仕事人が、世の中をよくしていくんだよ。彼はただの町の薬剤師じゃないね。患者さんだけでなく、日本社会の医療そのものを治そうとしているんだ」

  *

他方、耳鼻科にも変化が訪れていた。
待合室の椅子の配置が変わっただけではなかった。
お爺ちゃんである院長先生の、イケメンの息子さんが診療の多くを引き継いだのだ。
世代交代は、そのすぐ近所の眼科でもタイミングを同じくしている。
面白いことに、2世はだいたい目を輝かせたイケメンで、やもすればナルシシズムも匂わせているのだが、彼らは現代医療の最先端技術を現場に持ち込むと同時に、「人対人」のやりとりを約束する挨拶のメッセージなどをウェブサイトや待合室のお知らせに展示する。

私はこういうのをみると、・・・つい信頼し、期待してしまう。
そして、ちゃんと正確な診療をしてくれると、また嬉しくなる。
――世の中は、やはり進化しているのだ!
と。医者ってスゴいな、素晴らしいな、と思う。

今日の耳鼻科の2世先生は、私と同年代だった。
さくさくと診療・治療をしてくれた。

そして、驚くべき展開が待っていた。
左耳の検査を、圧をかけたりして調べたあとだった。
部屋の端に置かれた細い施術ベッドに寝かされ、左耳を細かに先生は見てから、ピンセットを差し込んだ。
「たぶん、これが原因ですね」
直後に「お土産です」と、ティッシュに包まれて渡されたのは、なんと3cmほどの自分の髪の毛だったのだ。
私は驚きを隠せなかった。
外耳道の鼓膜のそばに、髪の毛がぐるぐる巻きで詰まるなどという珍事は、38年生きてきて初めてだった。
これがガサゴソ鼓膜に当たりながら、2ヶ月間もそこにあったのである。
毎日の綿棒は、取り払うどころか押し込める作用をしていたのだ。

帰ってそのお土産を見せながら話すと、妻も驚いて悲鳴をあげながら、
「きもちわるーい!」
と言った。
「俺本人が、いちばん気持ち悪かったよ」
「それはそうでしょうね。でも、虫とかもっと変なものが出てこなくてよかったじゃない」
「あのなあ。これ以上キモキャラにしないでくれ」

診察は初診だったこともあり3千円弱かかった。
処方箋は飲み薬14日分と点鼻薬1本。ジェネリック(後発)はなかったので、2千円以上かかった。
計約5千円の出費。
病院通いはカネがかかる。健康がいちばんだ。無駄金を使った。

ほんのちょっとだけ思ったのは、・・・耳に圧をかける特殊器具で調べる前の、診察台での簡単な診察の時点で、すでに詰まった髪の毛は見えていたんじゃないかな? ということだ。
鼓膜は入口から3cmという、簡単に見える場所に位置しているらしい。
まぁ、先生は、
(髪の毛が原因だな。でも何か他の原因があると困るから、念のため調べとこう)
と思ったかのかもしれないし、
(髪の毛が原因だけど、色々検査して、お金を稼ごう)
と思ったかもしれない。素人患者にそこのところは分からない。

けれど、医療というのはいずれにしても、やはりありがたいと思う。
残りの不快感も治るならば、むしろ安いとさえ思う。
健康が一番だ。



2016年10月1日土曜日

お山の大将について

多少とも偉い立場の人がその権力を使って、上から目線で他人を封じ込めたり、思い通りにさせようとすることは、日常のなかにも大なり小なりよくあることである。家庭の中からはじまって、地域社会や学校や会社ではかなり多くなり、市町村から県・国のすることとなると大方がそんなふうだったりもする。

私は、そういうのが、心の底から大嫌いだ。

しかし、私にもよくない点がある。
――偉い人、凄い人に対して、過剰にぺこぺこしてしまうのである。

ぺこぺこというのは謙譲である。(心にもないおべっかを言ったりはしない.)
それでも、緊張して笑顔を振りまき、文字通りお辞儀も頻繁になる。多少のお世辞も言う。

これは、お会いできたという嬉しさがつい表に出てしまうせいなのだが、その嬉しさを相手様に伝えたいというのもある。それと、その人のことを尊重したいということも胸にあるし、能力や業績を褒め称えたい気持ちもある。

そして何よりも、「その人のことを尊敬したい」という願望が、自分の中にあるのだ。
じっさいに何かしら尊敬できる人に会えると、本心から嬉しくなる。尊敬の念を抱くのは幸せなことだと思う。
(その人に取り入って認められたい、そばにいて得したい、みたいな太閤的・角栄的打算はほぼゼロだ.)


で、・・・世の中には、偉い人・凄い人・有能な人が、実は案外たくさんいる。
ちょっと考えれば、それは当然とも思う。
なぜなら、人は誰でもただ若いというだけで膨大な可能性を持っているのだし、逆にまた、歳を重ねるだけでどんどん人間の味が出てくるわけだから。完全な無能かつ魅力のない人間というのは、この世には存在しない。

そんななか、膨大な数の人がそれぞれの分野でおのおの頑張って高みを目指すのである。
凄い人が多いのはあたり前だ。
比較的凄くない人も、かなりのパーセンテージいるだろう。(まったくアバウトな考察だが、・・・今回はこれでいい。)
能力が低くて、大したことはできない、主張さえしないという凡人を、卑下する気は私にはない。
しかし、せっかくお会いするなら、日々活躍する有能で偉い凄い人のほうが、嬉しいし楽しい。刺激になる。勉強にもなる。

けれど、ペコペコされると、多くの偉い人々のなかには、・・・やはり尊大な気持ちになる人も多いのである。
上から目線なのはいい。(こちらからして下から目線なのだし)
自慢するのもいい。(内容ある自慢なら、むしろありがたい。とことんウェルカムだ)
自己顕示欲があってもいい。(それがあまりない人のことは、よく知り得ない)
その自己顕示欲が、幼少期からの承認欲求に基いていたっていい。(他人に認められたい、見て!見て!褒めて!という幼少期の欲求不満の心理は、じつは多くの人が引きずっている。私自身もそうだと思う)
功名心があったって、もちろん構わない。(モチベーションの1つである)
功名心の塊でも・・・我慢しよう。(にんげんだもの)

しかし、次のような態度は勘弁願いたい。
何かの拍子にその立場的権威を示し、その権力をちょこまかと行使して他人を強制的にどうこうしようとしたり、人の話をはねよけて強引に自分の好きに進めてしまったり。人のあれこれを阻害したり。
過去からの恨みつらみと不満を持ち続けて、問題をなるべく大きくしたがったり。(どんな小さな問題だって、しようと思えばいくらでも大きく膨らますことはできる。とくにヤクザや弁護士ならお手のものだろう.)

そういうことをされると。
――私はとたんに気持ちが冷めてしまう。まぁ、心も傷つく。
数えれば、3つの点で残念になる。

1.その人の行動による具体的な結果について。
2.人徳者として尊敬していたが、じつはその人がただの「お山の大将」であったことについて。
3.自分が、人徳者だと誤判断してしまっていたことについての反省。


この2番目に挙げた、単なる「お山の大将」だったことに気がつくショックを、私は昨日ひさしぶりに経験した。
話としては、どうでもいいくらいに小さいことなのだが、内心では大いにショックだった。

私はその人のことを、地域社会に貢献する実力派の人徳者だと思っていた。
いつも親切だったし、にこやかで人当たりもよく、非常に顔が広い。
行動も発言も常に露骨で、自分のことを「正義をはっきり言うタイプ」だとよく喧伝していた。
いや、思い出せば、今までにもその人の言動にオカシイなと感じることが色々とあった。人を選んで敵味方に分類する姿は攻撃的だった。何事も仲間内で固める性格だった。表面的な軽いウソならよくあった。妙に公的な金遣いが荒いと感じていた。変に細かくてクレームが多い人だったが、私もクレームは言う方なので、素晴らしいとすら評価していた。
私のセンサーは完全に鈍っていたのだ。彼を尊敬していたからである。
具体的な言明は控えるが、・・・ 
つまりその人は、徳を備えているわけではなく、ただの「お山の大将」の凡人だったのだ。

「人の振り見て我が振り直せよ」とじぶんの肝によくよく銘じた。
いつか自分が多少とも偉くなった時、砂場を仕切るお山の大将のようになっていたら、あまりにもみっともない。目も当てられない。
世界は広大なのである。広大だし、きわめて多様で豊穣で美しく、偉人は数限りなく存在するはずなのだ。

地域社会の長よ。
中小企業の長がたよ。
大企業のトップよ。
業界の大物よ。
博識者たちよ。
国に務める方々よ。
国々の偉い方々よ。

私はきっと、またあちこちでペコペコと頭を下げながら、しかし今度は、上げた眼差しを光らせているだろう。
――あなたがたは、まさかまさか「お山の大将」ではあるまい?

あなたがたは分かっている人だろうか。
何を大事にし、何を恥ずべきなのか。
何を切り捨て、何を追い求めるのか。
ほんとうに大切なことは何か。

偉い人のなかに「お山の大将」でないひとは、もちろん大勢いらっしゃる。
私はそういう人をこそ尊敬するし、見習いたいと思う。













2016年9月26日月曜日

西原の古書店

今日は、また暑さが戻って真夏日の日曜。南の海上にある台風17号の小風が吹くこともあったが、概ね暑かった。

子どもたちを連れて公園を3つハシゴした。子どもたちは、朝から夕刻まで(昼を挟んで)フルで遊びまくる。それでも多くの子ども達が、洗濯物をたたんだり、ドリルをやってから遊ぶから優秀である。

こういう時、どこへ子どもらを連れて行くか、私自身は考えない。
『あそぼん』という雑誌があって、それを後ろ手に後部座席に渡し、子供らが全員でああだこうだと騒ぎながら決めるのを待つ。すでに車は走り出している。彼らが「ここの公園に行きたい!」と言ったその場所へ行くのみなのだ。

今日は、一区画だけ高速にのって、家から40分ほどの公園などに足を伸ばした。
西原の公園に子どもたちを置いた折、駐車場がいっぱいだったこともあり、私は久しぶりにその近くの古本屋に行った。

大きめで硬派なその古書店に行ったのは、・・・もしかすると3年はあけたかもしれない。
食い入るように棚を見つめた。100円の本を3冊、17円(!)の本を4冊、千幾らの本と雑誌を1冊ずつ。久しぶりに本を買い込んだ。

古書店にいる時に長男のキッズ携帯から電話が入って、息せき切った弾んだ声で、3才の友人の女の子がおもらしをしたとの報告があった。
私は古書店で近くのマツキヨの場所を尋ねてオムツとおしりふきを買いに行く。ついでに向かいのサンエー(スーパー)でチョコアイスモナカとピノを買い、公園に戻る。(近所には洋服が売っている店がないらしかった。)

皆でアイスを頬張ったあと、公園の身障者用トイレを開け放ったまま、(私には娘がいないので、何となく手慣れないため)6才の女の子にヘルプを頼みつつ、3才の子の足腰をおしりふきでざっと拭いてからオムツをはかせ、長男の着替え用のズボンがあったのでそれをはかせ、濡れた物を一応石鹸で洗い、ビニールに入れて持ち帰った。
(村上春樹的に細かな文面になったが、日常の臨場的質感を出す以外の意味はない。)


で、その古書店では、なかなか良い資料や図書が手に入った。
沖縄に、再版とはいえ戦前の『西哲叢書 スピノザ』があるとは驚いた。いや、Amazonでも、日本の古本屋サイトでも、手に入らないことはない本だしさほど高価でもない。ただ、なんでこんなところにあって、どんな人が持っていて読んだかな、とは思う。

それにしても、沖縄に古書店は那覇を中心に割とあるのだが、、、本が、ほんのりと湿っている気がして気になる。
そのせいで本が重い気がする。とくに外棚の本は、しなしなしている。
海風のせいであろうか。亜熱帯の空気のせいであろうか。
カビないのかな、と心配になる。カビっぽくもないのが少し不思議だ。

雑誌のなかに、琉球ガラス関連の小さな記事を見つけた(これは重要な発見だった)。
ペスタロッチ教育論の古い本は、興味はあったが小難しそうなので買わなかった。
科学の功罪にかんする古い新書本。1977年時点での原発批判が載っている。
ベトナム革命についての研究書。
古くて小さめのペン字の「くずし字解読辞典」。

辞典、事典の類には、どうも食指が動く。
一種の癖なのだろう。さほど実際には開かないのだから。
しかし、高校時代に国語教師が話したことを、私は今も記憶していて思い出すことができる。
 
――辞書に「高い」ということは、ないよ。
  辞書に、値段が高いなんてことはね、まずありえない。
  一冊の辞書を作るのに、著者がどれだけの労力と時間を費やし、あるいは一生涯を費やし、場合によっては次の世代の人生まで費やしているか。
  しかも、その辺の凡人ではない、最高の頭脳と叡智とが集結して、彼らが想像を絶するとんでもない努力をして、やっとまとめたものだ。
  そんな本が数千円、数万円、あるいは数十万円しても、高いはずがないじゃないか。
  買え。ぜんぶ読む必要はない。なんなら読まなくってもいい、と。
  買って、持っておけ。


後部座席の4人の子どもたちは、今日は長い一日だったと言い、同じ口でまだ帰りたくないと駄々をこね、もう日曜日が終わっちゃうのかと肩を落としつつも、汗だくの表情に充実した疲れと日焼けとを刻み、西日に照らされ揺られていた。
助手席の足元に無造作に放ったビニール袋の中に、今日100円で買った古い「くずし字解読辞典」などの古書が入っているのが嬉しかった。






2016年9月17日土曜日

アニメ映画『君の名は。』

アニメ映画『君の名は。』が、8月26日封切り以降、異例の大ヒットを飛ばしている。(『君の名は。』公式サイト
20日間で500万人動員とか、このままだと100億円の興行収入があるとか、つまりジブリ宮崎アニメなき後の、次世代的な実力派アニメーション映画という位置づけなのだ。

40代半ばの新海誠監督のアニメ映画作品は、今回を含めて6作ある。
私は、9年前に韓国人のアニメオタク青年に薦められ、のちに『秒速5センチメートル』をDVDで観て以来、ちょうど半分観たことになるのだけれど、フォトショップなどのグラフィックソフトで描いた絵が非常にきれいでそれは印象的だった。

しかし映像が印象的であるいっぽうで、これまでの作品は映画としての要素が弱かった。エピソードの多くがどこか別のアニメや映画で知っているような感じが多いのである。と同時に、(この人の作品は、いつか凄いものになるのだろうな)とは思った。なにしろ、ほとんど一人で話も絵も編集もこなしてしまう驚くべき若き才人ということだった。そして、ストーリー展開はいつも一種奇妙でどこか完成度の低さが目についたものの、その奥には高い志が垣間見られたからだ。
今回の作品は、そのストーリーの完成度が克服され、世間をあっといわせたのだろうな、と想像した。

妻も、「〇〇さんが『君の名は。』観て感動しまくってもう1回観たいって、フェイスブックに書いてた」と話していた。
また、私がちょくちょくスター・ウォーズの裏情報記事を拝読しているブログ「作家集団Addictoe」というところでも、多くの映画が辛口で酷評されがちなのに、『君の名は。』は98点という高得点をつけていた。そこには、こうも書かれてあった。
「内容に触れずに、一言でその素晴らしさをまとめれば、“新しい”。」
これは観に行くしかないと思った。


映画館の時間割とじぶんの都合とが合わなかったので、子供に幼稚園を休ませ、より遠方にあるライカムイオンの映画館へ出向いた。
まず、私が1人で11:00~上映の『君の名は。』を観る。(妻は5才と0才の息子とランチ。)
13:05~は『ペット』という、おふざけ冒険CGアニメ(アメリカ映画)を5歳の息子に1人で観てもらう。
そして、13:45~の『君の名は。』を今度は妻が1人で観る。(私が0才を連れてランチ。のち、5才と合流)

5歳の子供が1人で映画を観られるのか! とよく驚かれるが、息子は映画館デビューは3歳の『プレーンズ』から、そして前回『ファインディング・ドリー』からは1人鑑賞をしている。(私の迎えが遅れたためにインフォメーション・センターに届けられ、あわや店内放送というところであった・・・)親の観たい映画と子供のみたい映画が違うわけだから・・・仕方がない。

ちなみに、何歳から1人で映画館に入れるのか?
映画館の人に訊けば、「3歳から可能です」という返答だった。
妻は、「なにそれ? 3歳に映画が一人観できるわけがないじゃないの!・・・3歳から映画館に入れる、ってことでしょう?」と私に苦笑した。
ちなみに、『ペット』というこの映画にはクマちゃんマークが付いていて、つまり3歳以下でも鑑賞可とのことだ。
ということは。私は妻に提案した。0才の息子を5才の息子に預けて2人で『ペット』を観させ、その間に、夫婦で『君の名は。』を観ましょうか、と。だが5才の息子は即「やだ」と言った(むろん冗談で言ったのですぞよ)。
とにかく息子は映画が好きだ。『スター・ウォーズ』はDVDで6作品を2度ずつ観ている。エピ7は映画館で観た。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作も、『ハリー・ポッター』シリーズも大方みた。5才なので5才なりの理解しかできていないだろうが、いろいろ観てはいる。もちろんジブリアニメは好きで、なかでも『紅の豚』はたぶん20回は観ており、さすがの私も怒ったことがある。


『君の名は。』
午前11時からの劇場は空いていた。(パンフレットは2日前に完売したとのことだった。)
午後に妻が観たときは、劇場は混雑していたという。

よかった。とてもよかった。いろいろよかった。
たしかに、いろいろ新しかった。テンポの取り方も、まとまりにくいはずのストーリーのニュアンスも。
前半はわりと軽めでポップな展開で、高校生の男女入れ替わりモノだった。エンターテインメントとして楽しめた。
特に気を引いたのは、カメラアングル。かなり凝っていた。
テンポも斬新だった。本編の出だしにこの映画の映画予告がくっつけてあるようなはじまり方は面白い。
後半は後半で、1200年に一度到来するという彗星を巡って、それが大災害をもたらす云々の展開はまた唸らされた。逃げのない描写と、表現しすぎない描写のバランス感覚が長けている。素晴らしい。

ただ、・・・絶賛とまではいかなかった。
ピュア・ラブストーリーである。私は38歳のオヤジだが、この作品は10代20代の青年向けだということもあるだろう。
終わった時、私も涙をぬぐったけれど、いつまでもいつまでも印象に残るインパクトとまでは至らない。
比較しても仕方がないが、数年前の『思い出のマーニー』は強烈に胸に残った(世間評価としては意見が割れたため、平均値は高くない。ちなみに安藤雅司氏が『思い出のマーニー』も『君の名は。』も、そして私の好きな『パプリカ』でも、作画監督を務めている。それぞれ全然違うテイストなのに・・・)

絵は美しかったが、これまでの新海作品と比べると、これみよがしな風景美・美彩色にせず、わざと抑えてあるので、びっくりするほど美しくは感じなかったのが、多少惜しい。

筋書きに関していえば、ふつうにスマホやLINEなどが多出するのは現代的で、これもある種の面白みがあった。
ただこうした急発達中の現代機器が駆使される割には、重要なところで使われなかったりする。
(これほど地図アプリを駆使できるのに、なぜ、足で現場に向かう前にグーグルアースで見てみないのだ?)
とか、
(Yahoo!知恵袋で世間に尋ねたりは、・・・やっぱり、しないのか)
とか。
登場人物にわざわざ余計な労力を使わせる。物語を成立させるためには、登場人物は苦難のプロセスを踏まねばならないのは分かるが、ふと気がつけば、そこが監督による御都合主義だったりする。

そして、新海作品にはまだ、他者の作品の影響が消化されずにそのまま表出されている部分が多い。ストーリーや描写が、どこかで観た記憶を呼び起こす。そこがひとつ、不満といえば不満だ。
朝、目が覚めると泣いている云々というセリフを聞けば、『世界の中心で、愛をさけぶ』をどうしたって想う。高校生の男女の体で心が入れ替わるとなれば、1982年の角川映画『転校生』の石段ごろごろシーンを想い出す(新海監督によれば平安期の古典『とりかへばや物語』を参考にしたとのことだ)。
天体物体墜落後の奇妙な再会となると『黄泉がえり』が。若者たちが専門機械で通信系を乗っ取る計画となると『サマー・ウォーズ』が。田舎の神社の夏祭りは『思い出のマーニー』、駅での再会シーンは『海がきこえる』。
美しい雲の見事な空は宮崎アニメ、高原を延々と行くのも宮崎アニメ、女の子が不自然なほど激しく地面を転がるシーンも宮崎アニメ。
――似ているだけならいいのだが、似ていすぎていてかぶるから余計な感情が湧くのである。

しかしそれでも、森の葉のざわめきは『となりのトトロ』よりも細かい描写だった。(まったくざわめきのない1カットが気になったが、細かい事!)
登場人物の人生模様をかなり深く掘り下げ、あるいは逆に説明省略があり、一筋縄にはいかない人生が上手く表されていた。
境内での特別な行事のシーンもよかった。都会と田舎それぞれの情景と人々、すばらしかった。とくに新宿に出たあたりはうっとりした。自然風景とはまた違う、社会文化や人間の美。
私のニガテな(若者のアニメの)急に簡略顔でツッコミ表情をする表現も、ギリギリ許容範囲だった。


『君の名は。』も、このように色々と非常に素晴らしいのだ。ほとんど文句なしに。
声優陣も、文句なし。違和感なし。
音楽、主題歌、とくに文句なし。

良い所を挙げればキリがない。
人物配置など、これまでになく素晴らしい。友人がいい。みな、とても素適な人物なのである。かと思えば、悪いヤツや嫌なヤツも何人か出てくるが、その時々しか出てこない、つまり悪い人間が何らかの制裁を受けるというのが普通一般の映画の展開だろうけれど、この映画ではそうではない。悪いヤツ・嫌なヤツは、逆方面からの本音を伝える役としてあるだけなのだ。こういうところにもセンスやリアリズムが煌めいている。

彗星が走る星空、衝突の衝撃。逃げのない表現がある。と同時に、宇宙の外からみた彗星のシーンはない。抑制が効いている。
抑制と、過剰な表現。上手い。
彗星の、美と酷の対比。静と激の対比。女と男、田舎と都会、昔と今。対比、対比、対比。対比の宝庫だ。

衝突のシーンの描写は、他のあまたあるアニメーションにも負けない迫力と効果的な時間枠での表現だった。どうしたって誰がみたって、これは3.11を描いている。東日本大震災への願いであり、多くの人の妄想であり、また反省でもある(昔の災害を伝えようとする人々と、受け取ろうとする現代の人々との難しさ。・・もどかしい)


とにかく、こんな風にたくさん微妙なニュアンスが込められた独特のアニメ映画が、世間に圧倒的に受け入れられているということ自体が、私には不思議だし嬉しい。
昔のつげ義春マンガが広く評価されていることを思って、嬉しくなったのと似ていた。

帰路では妻と、長々と感想を言い合った。私も妻も夜更かし型生活なので寝不足で調子が悪かったけれども、映画の感想を言い合えるのは、気付きが多くなって幸せなことだと感じた。
息子は『ペット』の話題をいくつか話していたが、両親は観ていないのでそれほど応対できない。息子は「こんどは『君の名は。』みたい・・・」と妻に言っていた。
キスシーンもないくらい清潔なストーリーだったのに、バストや股間については執拗な表現がつづいていた。性と生とのリアリティを追求しているのだ。笑いを取るためでもあろう。
・・・やはり5才には早いかもしれない。










2016年8月31日水曜日

エアバッグの危険性は語られないのか?

先日の事故のニュース。
ある母親が運転ミスで電柱に激突し、助手席に乗せていた女の子が死亡した。
女の子はシートベルトを締めていたが、チャイルドシートは使っていなかった(後部座席にあった)。
そして死因はエアバッグによる胸部圧迫だった。

私は、このニュースをみたその日、非常に心地悪い気分になった。
というのは、死因はエアバッグのなのに、エアバッグ使用の構造上の問題を一切マスコミでは取り上げないからだ。
悪いのは、チャイルドシートに子供を乗せなかった母親だ、と決めつけていた。

で、今日のニュースは、その母親の執行猶予付きの有罪判決が下った、というものだ。
論説は、事故当時のニュースとほとんど一緒。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160901-00000069-mbsnewsv-l27

ここでも、エアバッグの危険性はまったく語られない。
なぜなのだろう?
エアバッグが膨らまなかったら、女児は死ななかったであろう。なのに、なぜか「チャイルドシート不着用」という法律違反のせいで女児は死んだとしている。
問題がすり替えられている。

マスコミも、司法も、こんな程度の論理で話をするのかと思うと、鬱々とした気持ちになる。

 *

ところで、私はこの5月に茨城県の妻の実家に帰省した際、警察につかまった。
二男(0歳)チャイルドシートの不着用のかどである。
さらに、長男(5歳)のジュニアシートも不着用であった。
こんな状況では言い逃れなどできるはずもない、という残念そうな顔つきで、妻は子供たちといっしょに後部座席の窓から、警官と私のことをぼーっと見ていた。
案の定、2人の警官は言語道断だと息巻いた。

帰省中なので、チャイルドシート・ジュニアシートを用意していなかったというのはある。
沖縄の日常生活ではちゃんと備えている。

けれど、じっさいのところ、二男には妻が後部座席でおっぱいを飲ませていたという都合もあったし、チャイルドシートで泣く場合も多いので、ケースバイケースなのであって、使わないことも多い。

のみならず、じつは私たちには、非常に強い「チャイルドシート」への不満があった。
5歳の長男がまだ生まれたての頃、「安全のために、いいやつ買おうよ」ということになって、大手アップリカ製の比較的高価なチャイルドシートを購入した。
ところが、そのチャイルドシートは最初からキツかった。はや7ヶ月頃には長男は収まらなくなった。

何ということか、信じられないことに、・・肩にかけるベルトの長さがマックスにしても足りないのである。
たしかに長男は当時、かなり太っていた。しかし人間離れするほどに太ってはいなかったはずだ。
時間をかけてあれこれ試したがダメだった。
説明書を何度も見た。使い方は正しかった。

私鉄運転士をしている親友にも見てもらった。
彼はチャイルドシートにはうるさいタチだったが、あれこれいじって、首を傾げていた。
「こりゃ・・・分からんなあ! 不思議だ。ウチのは超簡単に調節できるのに、・・やっぱりベルトが短すぎる。不良品としか思えないけど・・・でもそんなもの、世の中に出すかなあ?」

私は、リュック用の余分なベルトを付け足して細工して工夫し、長男が少し大きくなるまでを持ちこたえたのだった。
よっぽど、質問及びクレームの連絡をアップリカに入れようと思ったが、・・・なんだかんだ生活にかまけて結局連絡しないままにしてしまった。


息巻く警察官に、いまごろになって私はその件を持ちだした。
午後3時ころで、ちょうどネズミ捕りをしているその場所では、次から次へと市民が犯罪を犯してネズミ捕りに引っかかり、罰金を払ったり、切符を切られたりしていた。

が、私はまったく引かなかった。納得いかないからだ。何万円も払って買ったチャイルドシートがちゃんと使えなかった恨みはいまもある。何が安全性だ。国家がちゃんとチェックしろというのだ。

ついでにいえば、ジュニアシートだって安全かどうかは分からないと思う。
子供にはよく使わせるが、ぐらぐらする。

ベテランお巡りさんとイケメンお巡りさんは、噛みつかんばかりの口調で切符をきろうと励んでいたが、私の剣幕とやっかいな論理に圧されて、ついに私を見切った。

「けどね、お父さん。子供の命を守ろうとは思わんのですか? ジュニアシートで座高を上げてやらないと、シートベルトが首に当たるでしょう。頸動脈を切って亡くなることだってあるんですよ、実際に!」

・・・この言葉には、さすがに私も言葉を失した。
私も素直になって、「すぐにジュニアシートは買って帰ります」と言った。
警察は、今回は見逃してくれた。帰りがけにリサイクル屋でジュニアシートの良い物を格安で買って、妻の実家に帰ったのだった。

しかし・・・ジュニアシートを使ってみても、あらためて変だと感じる。
ジュニアシートをしたって、子供の首にシートベルトは当たるのである!
馬鹿馬鹿しい。
子供には、「ななめのシートベルトを背中に回せ!」と言い聞かせる。正規の使い方ではないが、頸動脈でも切られたら元も子もない。

私が総理大臣だったら(←急に空想話になってしまうが)、シートベルトの構造自体を抜本的に変更させるだろう。当然、子供の首にも当たらないように。
エアバッグは、チャイルドシートがあってもなくても、子供も大人も圧迫死させない構造に移行させるだろう。命を守るための器具なのだから、これが当然の感性だと思う。

タカタ製のエアバッグの死亡事故のように、欠陥品がインパクトあるかたちで事故を起こせば、世間も国もマスコミも動くのだ。
しかし、じわじわと中途半端な習慣が行き渡り、それがルールとなっていると、さきの女児死亡事故のエアバッグや、このジュニアシートやチャイルドシートのように、わけのわからぬ本末転倒な事態がはびこったままになる。

変な世の中だ。




「南風原文化センター」にて

二、三日前。もうすぐ長男5才の夏休みが終わるので、近所の子どもらも一緒に車にのせて、どこかへ連れて行くことにした。
といっても大したアイデアはない。
『あそぼん』という、沖縄県内の子供の遊び場が掲載された雑誌を、後部座席の子らに手渡し、どこへ行きたいか決めさせた。
彼らはわーわー言いあいながら、車で30分ほどの距離にある住宅地の中の「国場川くねくね公園」というところに行きたい、と言った。

辿り着いてみると、ただ川沿いの住宅地の隙間を縫って、遊具や運動具や芝生が配置されただけの公園だったのだが、子どもたちは、
「ほんとうに、道がくねくねしてる!」
などといって大はしゃぎだ。5歳とか10歳というのは単純でよい。


その後、日差しも強いし学習もさせたいので、「南風原文化センター」という展示施設に連れて行った。ここは2度め。小学生は150円、大人は300円、こども園の子供らは無料。

入口から第二次大戦時の壕(ガマ)の野戦病院のレプリカが作ってあり、その中を歩くのも子供には怖い。長男は、その暗暗とした木製二段ベッドに体験的に寝そべることすらできない(上段には包帯巻きの負傷兵が寝ている)。
私は、「こんなこともできないほど弱虫なら、連れて帰らないぞ。戦争の時はもっともっと怖かったんだから」などと言ってうながした。
(翌朝、長男は「昨日の南風原文化センターのが怖すぎて、思い出してよく眠れなかった」と言いながら起きてきた。・・・)

その後子供たちは、「昭和の遊具コーナー」でひとしきりケンケンパをしたり、竹トンボを飛ばしまくってよく遊んだ。
なにげなくも、よい夏休みの過ごし方だっただろう。

施設を出る前にトイレに行った。用を足していると、目の前に張り紙がしてある。
トイレはきれいに使いましょう、とか、あるいは催し物のお知らせかな、などとぼんやり思いつつ、目を向けた。


 ―――――――――――――――――――――――――――――

  人は不合理、非論理、利己的です
  気にすることなく、人を愛しなさい

  あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
  気にすることなく、善を行いなさい

  目的を達しようとするとき、邪魔立てをする人に出会うことでしょう
  気にすることなく、やり遂げなさい

  善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
  気にすることなく、し続けなさい

  あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
  気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

  助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
  気にすることなく、助け続けなさい

  あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
  蹴り返されるかもしれません
  でも気にすることなく、最良のものを与えなさい

                      マザー・テレサ

 ―――――――――――――――――――――――――――――


はからずも胸に沁み、すがすがしい気持ちでトイレを出て、帰途についた。

帰ったあと家族でラーメン屋に行った。ラーメンを待ちながら、妻に何の気もなしにそのことを話した。
「トイレに張り紙がしてあってさ。マザー・テレサの言葉で、いいことが書いてあって感動したよ」
話をそこで終わりにしたら、「ンで? なんて書いてあったのよ」と訊く。
暗記などしていないので私も言いよどんだ。二三、こんな風だったと我流で再現すると、妻は、
「いまのだけで感動しちゃった。うちのトイレにも貼ろ!」と言った。

私には、マザー・テレサと耳にすると、ついつい口してしまう話がある。
ちょうど10年前、ひとり旅でインドを訪れた時の思い出話。1週間ばかりコルカタ(カルカッタ)に滞在した折、マザー・テレサの建てた「死を待つ人々の家」のボランティアに参加したときのことだ。

毎朝、韓国人・日本人・西洋人の若者やおばさんの群に混じって安宿を出て、ぞろぞろと近所の教会に集まり、バナナ1本・牛乳1杯をいただいてから、配属された施設に向かって汚い街を歩いて行った。
歩くこともできない老人ばかりのベッドの並んだ施設。ボランティアたちは全身びしょ濡れになりながらせっせと素手で洗濯をし、急いで食事を作り、与え、あとはホースとブラシで大々的に床掃除。一連の作業はお昼頃に終わって、安宿に戻るのであった。

別の施設に配属された日は、そこがいわゆる「死を待つ人々の家」だった。
薄暗い石造りの教会のような、ちょっと雰囲気のよい荘厳な施設の中に、やはり老人ばかりのベッドが並んでいた。
そこでは老人たちに食事を食べさせたり、痩せた手脚をクリームでマッサージするのが仕事だった。ふむ、こういうふうにやるんだな、とコツを掴んできた頃、私は職員のお兄さんにおもむろに「あんた、来い!」と呼ばれた。
なんだろうと行ってみると、隣の小部屋に導かれた。腰巻き一丁のお爺さんが1人横たわっていた。
遺体安置室だった。
「彼は昨日、死んだんだ。そっち持って!」
え?え?ええっ?・・ 私はうろたえた。いきなりで、唐突すぎた。
しかも素手である。じつは何を隠そう、私は大の死体嫌いなのだ。
「はやく!」
老人の身体はすでに硬直していた。私は訳も分からず両手で老人の両脚を持ち、外の車まで一緒に運んだ。手も腕も脚も震えて仕方がなかった。放心状態に近かった。
が、とても不思議に感じたのは、老人の顔が爆笑したまま固まっていたことである。
亡くなった瞬間、すごく面白いことがあったのだろうか?
あるいは、すごく幸せだったのだろうか?
それとも逆に、・・・すごく辛くて、こういう顔をしたのだろうか。

その夜、いつものように安宿の屋上に出て涼みながら、旅人たちとまったりと話していた。
私は遺体運びの話をした。みな笑って聞いていたが、旅慣れた1人がこう言った。
「それは良かったですね。インドでは、遺体運びを任されるということは、とてもラッキーで、名誉なことなんですよ」

「そうなんですか!?」と私は驚いた。「へぇー」とその場の一同は新知識に感心した。
「じゃあ、よかったじゃないっすか!」と、おちゃらけた青年は言って、私の背中を叩いた。
「いいな~」「いいな~」と女の子たちは口々に、心にもなさそうな言い方で言った。

淡い談笑の印象に包まれた若い旅の日々は、遠ざかり、もうどこにもない。

  *

連れて行った子供のひとりが水筒を忘れてきたので、翌日また「南風原文化センター」へ、こんどは家族で出向いた。「昭和の遊びコーナー」でフラフープに挑戦したとき、その子は水筒をそのへんにひょいっと置いたのだ。
子供というのは面倒だ。

ついでだから、トイレでマザー・テレサの言葉をデジカメに収めてきた。
ここへまた来たのも無駄足ではなかった、と思った。

外に出ると青空が広々として美しかった。大きなちぎれ雲が動いていく。
湿った風が吹いていて、気持ちが清々する。
わが小家族は歩きながら、みな、日に照らされ、風に吹かれて心地よさそうだ。

関東で猛威を振るっているブーメラン台風10号が、遠く沖縄にも風を吹かせているのである。空が、どこまでもつながっているからだ、――などと当たり前のことを考えていた。





2016年8月26日金曜日

椅子の布の張り替え

昨日のDIY熱が冷めやらぬうちに、ほかのことも手を付けてしまおうと、今日はタッカーを使って椅子の布地の張り替えをした。赤子をあやしつつの力仕事だった。

この重厚なイスは、5年前、沖縄に越してきた時に嘉手納基地付近の大山通りの家具屋で購入したものだ。
大山は広い車通りである。両側が、だいたいアメリカ家具やアメリカグッズの店になっている。
ここは初めは中華系(台湾?)の家具・グッズの店店だったのだ。1980年代中頃には、のちに琉球ガラスの「現代の名工」に選出された稲嶺盛吉氏の工房もあった。

で、私どもは5年前、大山でアメリカ家具風の椅子2つとテーブルを購入したのだった。
椅子は1つ8,000円だった。
移動するのも重く感じる手作り家具だが、長男が大きくなってきたので、同じ椅子を買い求めにでかけたことがある。すると12,000円に値上がりしていたため、躊躇して帰ってきた。
そのくらいの価値はある椅子だった。が、わが小家族は狭々しいアパートぐらしなので、重々しい椅子がたくさんあっても不釣り合いだから、買わなくてよかったのだ。

5年が経ち、その椅子の1つの合皮の布がバリバリと割れてきてしまった。


沖縄は暑いので、われわれ家族はみな、ふだんはほとんど下着姿で過ごしている。すると、この椅子に座った時に、生の太モモが合皮の細かなヒビに挟まれて痛いのだ。
しかし、革布の張り替えには結構お金がかかると聞いていた。

そこで、DIYである。

※DIYとは・・・「DIY(ディー・アイ・ワイ)とは、専門業者ではない人が自身で何かを作ったり、修繕したりすること。英語のDo It Yourselfの略語で、「自身でやる」の意。」(Wikipediaより)

  *

 まず、合皮をハサミでカット。

中の黄色いスポンジが安っぽい。

 サンキで買ってきた布。   

ちょっぴり厚めのハギレが安売りしてあって、108cm×200cmで410円(税込)だった!
これも使う分だけカット(まだまだ余ったから、いつか別のことに使おうっと)。

 ドリルで取外した座板に巻く。

 タッカーはダイソーで300円?

タマはホームセンター(C)で。8mmの高さだったかな。
とにかく安上がりだが、タッカーそのものをホームセンターで購入すると、4倍くらい値が張るだろう。100円ショップはすごい。

DIYが得意でもない私でも、前回はじめて使った時から上手くできたので今回も自信満々。

 バチンバチンと留めまくる。 

裏側だから下手でも気にしない。

タマの食い込みが浅い場合は、カナヅチでトントンしておく。

 表面の張りを確かめながら。  




完成!












2016年8月24日水曜日

椅子も机も高くしよう

21世紀に入って16年目になるが、現代日本は本当に文明文化の国なのだろうか?・・・
などと、生活文化の不具合に感じることはままある。

たとえば、神奈川や茨城にいたときは、冬になるととんでもなく寒い室内で暮らしつつ、夏を待ちわびた。
関東の木造住宅はたいてい寒い。金持ちのおうち以外では。
囲炉裏があった昔は室内温度が適切だったという人もいるから、多分、われわれの文明は後退したのだ。

司馬遼太郎の講演CDを20年ぶりくらいにかけていたら、モンゴルのフェルトで作ったテント「パオ」が、冬でも夏でも極めて居心地がいい室温であると同時に、地球環境にまったく負荷をかけない生活文化なのだと言っていた。
(なお、司馬氏によれば、文明とは普遍的・合理的なもののことを指し、文化とは非合理なもののことを指すのだという。たとえば毎年年始に初詣に行くのは非合理なので、立派な文化なのだそうだ。)

一般的によくいわれるのは、台所のキッチン周りや脱衣所の蛇口などの高さは、現代人が使い続けると腰を痛めるということである。昔の日本人の平均身長に合わせて規格がつくられてあるままなのだ。背の高い夫婦の友人宅は、それを考慮して何もかもにグンと高さをもたせてあったが、それは個人の工夫であって一般文化ではない。
そういえば、私は毎日、シャワーの高さが足りないと感じている。身をかがめて生活することが多い。

なかでも、とりわけ私がずっと不服だった生活用具は、デスクチェアだ。
ニトリで買った常用しているデスクチェアには、ちゃんと高低を調節できるレバーが付いている。だがしかし、・・・最高の高さにしてもまだ高さが足りない。私の脚がとりわけ長いというわけでもないのだけれど、足裏が床に押し付けられ、常々、膝が折れて窮屈なのである。
約5~7センチほど高いといいのだが。

「じゃあ、座布団でも敷けば?」

と言われそうだが、この椅子を買うときに選んだ理由は、座席の心地よさと背もたれの加減だった。座布団を敷いてしまえば、いずれの価値も無に帰することになる。
しかもデスクチェアの座高を高くすると、こんどはパソコンデスクと筆記机が相対的に低くなってしまう。

日本の机周りの文明もしくは文化というものの品質や規格は、だいたい、こんな程度止まりなのである!
私は、根気強くこれらの問題を根本的に解決するべく考えた。
そして、――椅子も机も、ぜんぶ高くしてやろうと決めた。

こうしたわけで、数日前から準備を重ね、今日はひさしぶりにDIYを楽しんだ。
デスクチェア、筆記机、パソコンデスク、すべて高さをもたせる根気仕事である。暇ではないのだが・・・

  *

いちばん苦労したのは、デスクチェアの足の工夫だった。
そもそも最初は、座席の板底を嵩上げしようと考えたのだが、六角ボルトで主軸・背もたれ・肘かけと絡み合わせて組んである構造上、それが無理と分かった。あとは椅子の足元の工夫となるだろう。

同じようなことを考える人はままいるようで、ヤフー知恵袋も見たが、あまり参考にならなかった。工夫した解答をしている人もいたが、私のセンスに合わなかった。

※参考URL↓
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6784434.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12130278342

で、私はどうしたかというと、デスクチェアに付いている5つの車輪の付け根に高さをもたせることにした。
ということで、車輪の接続金具を買いに2つのホームセンターを訪れた。
が・・・そういうモノは売っていなかった。
車輪は車輪ごと売っており、その付け根の部品は非売なのである。インターネット上でも同じだった。

1週間ほど前、妻と子どもたちだけがお盆に帰省中であった。
うちの子どもが留守なのを知りながら、同じアパートに住む子供らがヒマすぎで退屈しのぎに遊びにきた。私も退屈しのぎにこの子供たちを連れ、ゴミ処理場へと足を運んだ。ときどき古いガラス工芸品を探しに出向くことがある。粗大ごみを出しにもそこへいく。

案の定、日曜日なので山のようにデスクチェアも積まれていた。
2日間で2市のみでこのゴミの量。人類は地球を滅ぼすだろうと想像できる。未来を担う子供たちには、こういう社会の裏面を見て、どうにかして対処して欲しい、などという淡い気持ちがどうしたって湧き起こる。

だが、・・・今回の私の目的はイスの足車輪であった。
ウハウハした手つきで宝の山を漁り、あっという間に5つをゲットした。連れてきた子供たちも頼んでいないのに2つほど取って渡してくれた。
私は気がつかないうちに、指に3箇所の切り傷を負っていた。
子供のひとりが、「知らないうちに怪我するのが、一番こわい」などとコメントした。

帰宅して金具のみを車輪から取り外そうとした。
外そうとしたのだが・・・これがどうしてか、どうしても外れないのだった。
引っ張れば取れるはずなのだが、外れない。断固として、外れない。

何か方法がないものかと、数日後に琉球ガラス村の加工部を訪れ、元上司たちに雑談をしに訪れたふりをして、おもむろに相談を持ちかけた。
仕事中にもかかわらず、2人の元上司が工具をもってしてトライしてくれたのだが、やはりダメだった。ノミで車輪を打破しても、バーナーであぶっても、どうあがいても取れなかった。
琉球ガラスにコールドワークを施した後、保温しておくためのオーブン(68℃)がある。とりあえずそこに放り込んでおけと元上司が言うので、そうしておいた。

また数日後に遊びに行った折、入れておいたイスの車輪をオーブンから取り出し、ニッパーでテコ入れした。
すると、「ぽんっ」と面白いほどあっけなく外れた。
「やった、やったー!」
と私が声を出して喜ぶと、元上司は、「あなたの人生は、こんなふうに上手くはいかないのにね」などと、下手なブラックジョークを言った。


で、その金具を、カットした木材に穴を開けて差し込む。
今日、ホームセンター(C)に行き、円柱形の棒材と2×4の角材とを買ってカットしてもらった。
しかし、ここの担当が、偉そうなくせに実にショボい男なのだ。
今回も、カット後に再度そこへ戻り、苦情を言って60円を返金させた。なにしろ、私が寸法・カット手順・カット回数にいたるまで丁寧に図を描いて説明したのにもかかわらず、テキトーにカットしてカット回数を増やし、頼んでいない部分まで切り落とし(!)、ボっていたのだ。最低である。
それを指摘したら、強気の文句調で言い訳をしてきた。
私は、多少怒った。
彼の言が合っていれば言い訳もいいのだが、誰がどうみても2箇所も間違っているのだから、彼自身もフテ腐れるしかなかった。性根も腐っているから、謝ることすらしない。じつは前回も同じようなことがあったので、私は今回は泣き寝入るのをやめたのだ。

ムカムカしつつ帰ろうとすると、同じ木材売り場に琉球ガラス村の偉い人がいたので、声をかけた。
この人は、道具でも機械でも何でも手作りしてしまう凄い人だ。
ニコニコしながら、「日曜大工かい?」と私のカット木材を覗き込む。
イスやテーブルを高くするのだと言うと、「新しいのを買ったほうが安上がりなんじゃないの?」と笑った。
私は笑ってごまかし、細かな説明は控えた。


切ってもらった木材は、寸法にズレはなかった。まぁ普通に、良いモノだった。
だがムシャクシャする出来事があったため、この木材を見ると切ない気分になる。

  *

木材に穴を開けるためのドリル刃は、2種類買ってあった。
はじめて電動(インパクト)ドライバーでドリルを使った。
DIYは、家内の方が得意で、ぱぱぱっと棚でも机でも作ってしまう。私は、ゆっくりゆっくり、おずおずと事を進める。


長男(5歳)が、ダイソーで買った球形の木材に、ついでに穴を開けてほしいと言った。
で、あまった木材にも穴をあけるよう頼んできた。
それに彼は、私の使い残したイス車輪の金具部品を差し込んで、・・・なんと手榴弾のオモチャをこしらえたのだった!


私は、大の武器ぎらいである。
長男が3歳の頃、家内が買ってきた幼児用のピストルの玩具をみて私は激怒し、長男も家内も大泣き、口論が昂じて離婚話まで持ち上がったことがあった。
家内にしてみれば、「いいじゃないの、おもちゃの鉄砲1つくらい」とのこと。
私からすれば、「3歳にピストル与えて、どんな大人にするつもりだ。しかもここは第二次大戦の激戦地だぞ」と言語道断の態度だった。
その数週間後に、アメリカで5歳の男の子が玩具の鉄砲(マイ・ファースト・ライフル)に実弾を込めて、2歳の妹を射殺してしまう事故があった。私は「それみろ」と言った。
後日、保育園で水鉄砲持参のプール遊びの日があった。長男はしょんぼりして帰ってきて、水鉄砲が竹筒の形だったのは自分と女の子1人だけだったと言っていた。

昨日、私は長男と、同じアパートの子供とを連れて、初めて那覇の「壺屋焼物博物館」へ行った。
博物館の展示品に、本物の陶器製の手榴弾があった。


長男はその陶製手榴弾が気になって、強く印象に残っていたらしい。で、それと同じものを作りたかったようなのだ。
どうみても手榴弾であるその手作り玩具について、私は「もしかして、手榴弾?」と訊く。
長男は首を振り、「まあるい、・・・オモチャ」と答えながら、ピンを抜いたり嵌めたりして、嬉しそうにいじっていた。

  *

ボンドで補強して完了。まぁ、DIYの得意でない私にしては、満足のいく出来栄えになった。
ただ、イス足の軸が垂直でないので、高くなったぶん揺らすとしなって、壊れそうな危うさがなくもない。
祈るような気持ちのある一方で、5つの車輪に65kgの体重だから1つに13kgの荷重・・・それくらいは耐えて欲しい気もする。

なお、写真手前の立ち作業用パソコンテーブルも、脚を長い木材に取り替えてある。
今回のニトリの常用デスクチェアの座席も、合皮が早々とハゲてしまったので、布を貼り付けてある。布は、タッカーと呼ばれる外側に向いた強力ホッチキスで打ち付けた。
おや、気づけばけっこうDIYしているじゃないか――と自分を讃えた、臭い汗かく夏日であった。





2016年8月15日月曜日

世間ではお盆

毎日、せっせせっせと片づけの日々である。
日本本土でもお盆だし、ここ沖縄では迎え盆(ウンケイ)が今日で送り盆(ウークイ)が明後日である。世間は忙しそうだ。

私の家系では、お盆の風習はとうに消えてしまった。
それでも子供の頃は、夏休みのただ中には、お盆に合わせて遠路をゆき父母の実家を順次訪れ、それぞれの田舎で従兄弟や親戚と集まって泊まるのは、それはそれは楽しいことだった。私にとっての日本の原風景の一部が、そういった思い出から育まれたのもまったく確かなことだ。

時は経ち、親戚関係にも色々とガタが来て、両祖父母とも亡くなり、私はといえば幼少期や少年期をへて、青年どころか中年へと歳を重ねた。家を離れ結婚をして子供ができ、遠い場所に引っ越した。お盆だからといって帰省する気もない。
(いちおう長男である)私は、墓さえも廃止することをもう15年も前から宣言してある。

ところで、墓がないこと自体はまったく寂しがるべきことではない。
すべての生命は地球から生まれ地球へと帰っていくのだから、墓がないのはごくごく自然なことなのだ。さらに言えば、生きている間だって物質的には固定された瞬間がないことについては、福岡伸一博士のベストセラー『生物と無生物のあいだ』を読むと一層よくわかることだろう。生物というのは砂漠の模様のように、形状がこの世にひととき残存するような類の存在であろう。このことは何という名前の生体現象だったかな・・・ど忘れしてしまったなぁ・・・・・・ああそうだ、「動的平衡(どうてきへいこう)」といったはずだ。

まさか、生活文化のすべてがナンセンスで無意味などと私はもちろん言わないし、そうは思っていない。
墓には墓の意味があり、価値があり、お盆にはお盆の重要な意味があり、それぞれの人間の人生に多大な影響がある。
しかし私が思うのは、墓がないことにも意味や価値があり、お盆がないことにもプラス・マイナスの人生への影響があろうということなのだ。

私の場合は、先祖はすべて私自身に集結していると考えている。あるいは、わが子に。
先祖とは、じいちゃんばあちゃんや田舎の墓石に刻まれた名前の人間のことのみではない。38億年分まるごと、地球の生命史の自分に繋がる樹形図のぜんぶを、自分の身体が背負っているイメージだ。これは科学的にいって、ほとんど正しい認識でもある。

儒教では先祖が偉いことになっている。先祖崇拝が儒教思想の軸としてあり、日本でも琉球でもその影響が強い。だから年寄りほど威張っている。政治家で偉そうなのもみんな年寄りだろう。若者から年金を絞りとり、原発事故で地球を汚しても、自分たちは良かった、後のことは知らん、勝手に頑張ってやってくれ、というのが大半の日本人のお年寄りのスタンスになっている。(金も文化も先代から受け継いだ以上にプラスして子供にバトンタッチしよう、なんていう親が果たしてどれくらい存在するのだろうか?)

しかし私が自分の頭で考えると、価値観が逆なのだ。子供ほど偉いし尊いはずである。
もちろん親がいなければ子は存在しないのだけれど、子がいなければそもそも親ではない。
子孫ほど偉いことは、生物学的にいっても間違いない。生命の原理として必ずそうなっている。過去よりも未来が大事で、未来の主人公は常に若者なのである。

この当然の原理を、風習文化をもって倒置してあるのには、もちろんそれ相応の理由はある。
社会的にみれば、「先取権(さきどりけん)」が効いている。
技能面からいえば、「経験値」も年寄りが優位である。
生物的にいっても「先行優位」がある。先にその場に住んでいる者の方がテリトリーを主張しやすい。

それをひっくり返すには闘争しかないのだ。
動植物をみれば、常に競争原理が働いている。また、人間の歴史を見返せば、下克上という形もあるし、国土拡大・先住民虐殺という形もあったし、革命という形もあった。

それではたまらぬとばかりに、権力をもった年寄りたちは、年功序列をルールに据える。
家庭にもピラミッドを作る。子供を親のいいなりにしようとする。さらに最下位に嫁を置いて、こき使いながら阻害する。日本の民衆文化のれっきとした暗黒面だ。
ほんとうは、子供は穏やかに年功序列を打ち破るべきである。嫁はそんな圧政の敷かれた家ならば即刻出るべきだ。
なぜなら、必ずしも年寄りが社会の安定を保証するということはいえないからである。先の戦争で二十歳そこそこの未来ある若者らを特攻にしたてたのは、大して先のない年寄りたちだった。

ではといって、年少優位も行き過ぎれば、社会は姥捨て山OKの方向へいき、人道的価値観が破綻するであろう。
だからこそ孔子だって、老いては子に従えという指針を設定した。しかし、風習や伝統や原理を大事にする人々というのは、大概、都合の悪いところは自分の都合で削ってしまうものなのだ。

・・・こういうことを、ご先祖様がふだん離れ離れの人々を再会させてくれる「お盆」の風習をもつ方々は、とくに考えてみる機会が増えるだろう。いろいろな人の人生模様をみることは、とても勉強になるから面白いはずだ。


今年の終戦記念日は、私にとっては片づけと生活家事でほぼ終わった。
この大片づけを終えて、研究と読書にいそしもうという心積もりだ。





2016年8月8日月曜日

天皇陛下の「お言葉」をきいて

昨日は子どもの友人家族とでビーチパーティーがあった。
雨ときどき曇りではあったが、有意義にすごせた。こういうレジャーや交流はわが家族は得意ではないので、重い腰を上げて提案に乗らねば、あっというまに子どもが大きくなってしまうだろう。つくづく友人とはありがたいものである。

ただ、先月その同じバーベキュー場でビーチパーティーをしていた男性が、トイレ前の広場で雷に直撃されて心肺停止になった事故ニュースがあったので、ちょいちょい気になった。雷の鳴るときもあったし、暗雲も雨もあったので、トイレに行くときは空が怖かった。


今朝、雷が2度鳴った。
ブログにも書いたとおり、先月はわがアパートにも雷が落ち、共同アンテナを壊していった。その2、3週間前には友人宅に直撃していろいろな家電を破壊した。今年はおかしい。こんな雷ばかりの年などあったろうか?

で、今朝の雷はななんと、わがアパートの向かいの電信柱に落ちたらしい。
家の半分の電気がつかなくなったが、やがてわーわーと近所の人が表に出てきて、停電だ、うちも停電だと口々に言うのが聞こえた。やがてわが家もすべて電気が切れた。

沖縄電力のお兄さんたちがやってきて電信柱に登って数十分後、電気は復旧した。もしかすると私が不動産屋の時間外受付に連絡したことで沖電が来たのかもしれなかった(行動派の区長さんがあとで「誰が電話したかな?」と不思議がっていた)。

 *

昨日のビーチパーティーの疲れがまだ残っており、今日は作業や家事がぼちぼちの運びだった。

しかし、「天皇陛下の(生前退位にまつわる)お言葉」のビデオメッセージが8月8日午後3時から放送されるということが数日前から喧伝されていたので、なかば楽しみにしてスーパーの買い物から戻り、国民の一人としてひとつ聞いてやろうじゃないか、などと軽口を言いながらテレビの前に座った。


10分ほどの天皇の言葉を聞いて、しばらく唸った。
(大した天皇だな)と思った。なかなか珍しいという意味でも興味深いビデオだった。

天皇陛下が「個人としての」思いを語るという。
ここでちょっとハッとする。
憲法上、国政にかんする私見を述べることが封じられている天皇だが、だからといって1人の人間として、一個人として、何も思わないはずがない。人間は個人として生き、(個人が統合されているかどうかはまた別の問題だが)考えながら生きている。
発言するべきは、発言しなければならない。

国民・国政・皇室を熟考して、現状を変えてよりよくしようという強い意志を述べた。国政に関わる権限がないことにあえて触れて、真意がまっすぐ伝わる表現方法をとっている。
いろいろな面で論理的で、誠実で真摯だった。

こんなにまっすぐ放たれたメッセージを聞いたら、しごく真っ当なこの意見に反対する国民はほとんどいないだろう。たとえば私の胸にはどこかに皇室制度反対の意思があるのだが、そんな私でも(なるほど、そのとおりになればいいのに)と賛同の気持ちが湧いた。

普段はどんなことを考えているのかよく見えないのが皇室の方々だが、こうまで明確に発言があれば、立場・仕事・思い・願い・配慮・方策、いずれをとっても熟慮が行き届いており、非常にちゃんとした人だと感じる。
天皇の「お言葉」に、べつに私は感動はしなかった。
しかし十分に感心はした。
やはり普通の人ではない。していることも、一般人にできることではない。

とくに、このように発言するリーダーシップには驚嘆した。

私の周囲を見渡すと、親にも祖先にも親戚にも、たぶん友人知人の親戚を見回しても、これだけ周囲全体や家族の将来をおもんばかれるような人はまずいない。
一般社会ではほとんどの場合、立場ある人々さえもが十分なリーダーシップに欠けている。
周囲や残される人々に対する十分な配慮や思いやりなど、まずほぼないと言っていい。見通し、方策、何もない。当然、発言もなければ行動もない。
多少の思いやり、多少の配慮、多少の保守思想、多少の希望。それが親戚関係とか友人関係、会社関係の良い面のすべてである。

自分の死後のことについては、「なるようになるでしょう」「あとは、残った人たちが好きにやればいい」という放任主義が大多数だ。
「こうこうしてくれ」と遺言に残す積極的な人もいるが、それらはほぼ自分中心での遺言だ。墓選びも、墓の管理任せもそうだろう。死んでなお自分自分。よくて一族への私利。それが世間一般なのである。

そして愛はというと、・・・金にのみ託される。――生命保険。遺産。・・・虚しいかぎりだ。

 *

NHKではニュースキャスターや専門家たちが解説をし感想を述べ、街頭で人々へのインタビューや被災地・記念館などで決められた人にインタビューがなされていた。
それを見て、私はちょっとだけ唖然とする。
多くの年配の人が、インタビュアーの質問に適切に答えられていない。
「天皇のお言葉をきいて、どう思いましたか?」と聞かれているのに、天皇に会った時の思い出などを長々と話しはじめる。国語能力に欠けている。街頭で若者にインタビューして返ってくる言葉の方が、よっぽどまともであった。
それと比べるのは可哀想だが、やはりテレビに出ている専門家は、おのおので的確な解説をする。

安倍首相も今回は、ちゃんと対応せざるをえないといった様子で、ある程度きちんとメディアに発言していた。
憲法改正を暗に反対するタイミングだとも言われる今回の「お言葉」だが、本当のところ私にわかるはずもない。が、そうだといいな、とも多少思う。
国民に寄り添い、国民に耳を傾け、祈りつづけた象徴天皇が、憲法改正・戦争法案賛成なハズもないのだから。

 *

・・・それにしても、「お気持ち」、「お言葉」、「〇〇さま」ほか、メディア上の最敬語は、どうにかならないのだろうか? 皇室にかんするニュースで使われる敬語は、私には奇妙に聞こえていつまでも感性に馴染まない。やもすれば冗談で言っているようにも聞こえる。
新聞もテレビもネットニュースも、おべんちゃらを振りまいているようで、日本語表現自体が媚びた感じがして嫌なくすぐったさに包まれる。
最敬語は、天皇や皇族に対して直接使えばいい言葉ではないのか?
第三者にそういう語り方をするから、おべっかを強制しているようで可笑しくなるのだ。

少なくとも、天皇ご自身の語りには、そういう奇妙な感じは全くない。
今日のはとくに、かなりの名スピーチだった。(天皇制保守の志が含まれていたとしても。)


↓毎日新聞より「お言葉」について
http://mainichi.jp/articles/20160808/k00/00e/040/297000c

↓毎日新聞より「お言葉」の海外反応
http://mainichi.jp/articles/20160809/k00/00m/030/068000c

↓Yahoo!ニュース(翌日)記事:「象徴天皇としての天皇」を体現―陛下の「完璧主義」と歩み
http://news.yahoo.co.jp/feature/283





2016年8月6日土曜日

貧乏暇なし

なんやかや、なんやかやと非常に忙しい。
そのいっぽうで、子どもたちと遊んだり近所の人や友人と井戸端会議をしたりという日々を送っている。
と同時に、妙な鼻風邪をひきこんで鼻声と粘着鼻水が煩わしい。体調も気分も作業効率も下がりっぱなしである。
やるべきことはまだまだまだまだ他にもあるのだが、ほとんどを中途にしたまま過ごしてしまっている。
貧乏暇なしとはまさに自分のことだ。

今日は久しぶりに暗雲の覆う曇り日で、小風も吹いていた。
めずらしく涼しめだ。(台風5号が接近中の関東では38度とか何とかニュースで言っていた)
風は気持ちいいし散歩にももってこい、ちょうどこそへお隣の奥さんが子どもと訪ねてくれて、私も急いで身支度をして、長男を連れていっしょに近所の公園へ行き、子どもらをブランコやボールで遊ばせた。
ブランコの下に蝉の死骸があって子どもが騒ぐので、羽を持ってどかしてやると、中から小蟻が慌ただしく出てきて一列に並んで退去を始めた。その素早さと見事さに親も子も感嘆の声を挙げた。長男が「こども園のこどもたちより並ぶのがじょうずだよ」と言っていた。

突如としてサーッと斜めの白雨が降り注いだので、私たちは四阿に避難した。
風も吹くので多少霧雨が振りかかる。
なかなかやまない。
やがて3歳の女の子と5歳のうちの長男は雨の下に出て水たまりの中を歩きはじめる。頭から濡れて喜んでいた。
隣の奥さんは1歳の子を抱きながら笑顔で子どもと接したり、私と他愛のない話を交わす。長らくそうしていたあと、私は妻に電話して皆を迎えに来てもらった。帰ると同じアパートに住む子どもが駐車場で2人待っていたので合流する。隣の奥さんは1歳の子と帰宅し、妻は9ヶ月の子を連れて買い物に出かけた。残りの子どもたちを私は散らかった部屋に上げて遊ばせながら、自分はその側で夕方遅くまで古書の整理のつづきを延々とやっていた。

じつはこの数日、アパートの管理会社の人があまりに不誠実で多々不満が生じ、心がササクレ立って仕方がない。
他方では、地域近所の人々や子どもがらみの友人がほんとうに親切で、しばしば交流がある。感じの良い人ぞろいなので非常にありがたいと思う。

運の良いこと悪いこと、多忙と余裕のないまぜだ。この生活がしばらく続くことだろう。
けれどずっと続くことはない。
子どもはすぐに大きくなるし、私も妻も、そして誰もが歳を取る。環境も変わるだろう。興味も仕事も変わるだろう。
何もかもが移りゆく、そういう人生のことを、調子の悪い時には特にじっくりと考えてしまう。
そしてやがて、調子の悪い時の「良さ」はこのことにこそあるとメタ的に考えたりもする。






2016年7月29日金曜日

コーヒーの飲み過ぎとパソコンのやり過ぎは怖い

健康について書きたい。
いま私は38歳。筋肉量は足りないがほぼ健康体である。

しかし5、6年前、私はパニック障害や過換気症候群などの原因不明の体調不良で苦しんでいる時期があった。
とくに夜中に酷いのだ。キツい。とても嫌な辛さがあった。
生活にそれなりのストレスはあったが、それだけが原因ではなかった。

最初、どうしてもそうなる原因がわからなかった。
こういうことはなかなか、お医者さんもインターネットもぴたりと教えてくれることがないからだ。結局、自分のことは自分で解明しなければならないのである。
経験を積んで、疑似科学で現実に挑むのだ。

その後、自分なりに探り、いくつかの原因が徐々に浮かび上がった。
工夫を重ねるうちに、3年くらい前からは、パニック障害も過換気症もまったく起こることはなくなった。

私の場合、以下のような明らかな原因に辿りついたのだった。

1.コーヒーの飲み過ぎ
 →夜中に突然の強い動悸に襲われ、ガバッと跳ね起きる。

 コーヒーは若い時には1日10杯、多いときは15杯ほど飲んでいた。その頃はなんともなかった。
 夜中の体調に不具合が出て、もしかするとコーヒーかも、と思ったときには絶望的な気分になった。
 こんなに好きなのに。
 テレビでも雑誌でも、コーヒーは心身によいと言っているのに。
 しかし、個人的な実験を繰り返してみて明らかになった。主犯人は、どうあがいてもコーヒーだった。
 やがて飲み方を変えた。
 飲むのは日中4杯まで。午後8時半までならば問題が起きることはまずない。
 肝臓で1日あたりのカフェイン分解量のキャパシティが決まっているのだろうし、分解しないまま寝てはいけないのである。
 血中に毒としてのカフェインがあって、たぶん深夜、心臟に負担をかける(アルコールも似たようなものかもしれない)。
 コーヒーに限らない。カフェインが入っているもの全般だ。緑茶、紅茶、青汁、ドリンク剤、ココア、チョコレートも夜はNG。
 お酒を飲んだあとと同じように、コーヒーのあとにも水をよく飲むのがよいようだ。

2.ドライアイや目の疲れ
 →夜中に嚥下障害を引き起こし、まるで呼吸困難のような焦りと苦しみを感ずる。

 ついつい、仕事や趣味で2、3時間ぶっ通しでパソコンをやり過ぎたり、さらにテレビを見たりしてしまう。あるいは、5、6時間ぶっ通しで熱中してしまう。
 しかし、ナイーブな眼は過酷な労働に耐えられない。

 眼は、目を動かす筋肉であろうか、奥でノドの嚥下動作をする筋肉と何かつながっているみたいなのである。
 それに眼は、外部に突き出た脳とも言われるように、脳神経と直結しているのだから、酷使するのは精神にも悪い。 
 本当は、パソコンやテレビを付ける際には、30分ごとに目をしっかり休めるのがよい。

3.寝ぎわの考えごと
 →脳がうまく眠りにつけず、夜じゅう考え事を続けたり夢を見続けるような寝方になってしまう。途中で目も覚める。

 悩ましい考えごと、特に答えの出ない思考は、日中に行なうべきである。
 寝際のウォークマン(音楽、英単語など)も避けた方がよい。
 夜は心身を休める時間だ。寝際は、ただただリラックスするべきなのである。
 幼子が優しさに包まれて安心して瞼を閉じるように、一切の思考する煩わしさを捨てて眠るのがよい。

4.運動不足
 →身体の末端部にも、内臓にも、血流が滞ってとにかく「非常に」よくない。

 加えて気温が低かったり、食事を十分に取っていなかったり、逆にとりすぎたりすると、さらに身体はバランスを崩す。
 私は以前、パニック障害が日に日に悪くなり、過換気症候群(過呼吸)になって救急車のお世話になったこともあった。
 その頃、ほとんどパソコン漬けと読書の日々だった。

 柔軟体操とか、散歩とか、部屋の掃除とかちょっとした家事くらいは誰もがするべきである。生きているとはそういうことなのだ。無理は禁物だが、一日の終わりには十分疲れているくらいがちょうどよい。
 人間の体はそういうふうにできている。らくをして得することは何もない。体は、使わないだけ死に近づくと心得ていただきたい。
 寝際には柔軟体操が効果的で、私は「自力整体」というものに一時期はまって、それを我流に変えて今も続けている。
 
5.空腹や過食
 →身体がバランスを崩す。
 
 私の場合、夜はエネルギー摂取を少なくした方がよい(妻は逆であるから、人によって違うが)。
 糖分や炭水化物の摂取は夜を避ける。空腹過ぎたり、エネルギーを摂りすぎると、内臓の活動が中止されて、空気で膨らむような不快感が現れるからだ。


以上、大切な健康についての個人的なポイントについてメモしてみました。
誰かの参考になれば幸いでございます。

2016年7月27日水曜日

悲惨な相模原事件

今日の未明に神奈川の相模原で起きた痛ましい「相模原事件」。
津久井やまゆり園という障害者施設を青年が1人で襲撃、50人近くを刺し19人が亡くなったという。戦後最大の殺人事件になってしまったらしい。
真面目で人当たりがよく優しかった元施設職員が、大麻のせいなのか突如として過激な差別思想を持ち、園を辞め、通報により警察やら施設で保護されていたが、数カ月後に犯行に及んだとニュースで言っている。
悲惨なテロは世界中で起こっている昨今だが、比較的平和な日本でこの事件が起きたことは、海外でもニュースになっている。
しかし、この26歳の容疑者はなんと、犯行計画をことこまかに議員や警察に事前通告していたというではないか。

この事件は、・・・ひどすぎる。
むごい。言葉にならない。
犠牲になるのが社会の最弱者という、とんでもなさ。ソフトターゲットの最弱点を狙った執拗で周到な犯行。
これはこれとして十分にとんでもないのだが、しかし、この事件のとんでもなさは他にも多々あって、、おそらくマスコミでも世間でもこれからヒートアップして議論を呼ぶだろう。

つまり、ただ偶然に犯人の気まぐれで発生した大量殺人、ではないのだ。――複合的な社会問題の表出なのである。
なんというか、日本の市民の、日常社会の歪が吹き出したような。どうにかこうにか隠したりなだめたりして、何とかやってきた問題の膿が、ひょんな拍子に爆発して飛び散って出たような。
社会的弱者に対する人倫の問題、障害者施設の安全面の問題、雇用者の性格や不満への対処の問題、大麻の問題、人間関係の問題、・・・幾重にも連なる問題に継ぐ問題の束だ。

そして、神奈川県警はやはり徹底的に責められても仕方があるまい。組織として無能だ。決められた仕事はしたのだろうけれど、問題に対して有効に機能していないではないか。今回はとくに、犯人が解答を送りつけてあるのに、テストにまるで対処しなかった受験生さながらだ。仕事を上手くこなせず空回りする時の人間をみているようだ。

目を覆うばかりの悲惨な事件は、故郷神奈川ということも手伝って気になり続け、沖縄に住む私の心さえも暗くする。


2016年7月26日火曜日

ドキュメンタリー映画鑑賞メモ

たまにはノンフィクションでも観ようかと、2本ドキュメンタリー映画のDVDを借りた。


『消えたフェルメールを探して 絵画探偵ハロルド・スミス』
2008年
http://www.uplink.co.jp/kietavermeer/

これは、ガードナー美術館で盗まれた絵画のうち1点が、フェルメールの『合奏』という名画で未だに見つかっていないこの作品の行方を追う、というものである。
そんなもの、探して見つかるようなものなのかと思ったのだが、これが、見つかりそうな感じがするのである。
一時期日本のテレビで流行った徳川埋蔵金の発掘ドキュメント番組よりは、少なくとも真実に近づいている気迫があった。
怪しい情報、怪しい人物、怪しい人脈・・・

登場人物は皆リアルで、それぞれが個性的で怪しい。とにかく犯罪の匂いがする。
しかし、有用情報への賞金もかなり高額なのに、決定打につながらない。なぜかといえば、FBIも警察も、絵が戻ってくることではなく犯人逮捕に主眼を置くからなのだ。このねじれが、絵画盗難の解決をすべて邪魔してしまう。裏には、政治組織の資金集めの影さえうかがえる・・・
かなりハッキリ、犯人組織像のモンタージュは描いてあるのだった。

絵画探偵は全身皮膚癌で、それも強烈な個性である。進め方、一言一句も興味を誘う。絵画探偵のプロというのは面白い。
しかしけっきょく絵は見つからず、探偵もじきに亡くなってしまったとのことだった。


『おいしいコーヒーの真実』
2006年、英米
http://www.uplink.co.jp/oishiicoffee/

1990年代からのコーヒー豆の暴落以来、スタバやネスレの買い付ける豆の生産地・エチオピアのコーヒー農家は、基本的な生活さえできないほどのひどい状況なのだそうだ。
ニューヨーク市場が勝手な安値を付け、それが世界相場になる。消費者に渡るまでに6度ほどの取引が挟まれてコーヒー農家は買い叩かれる。コーヒーとは別の換金作物である麻薬の栽培に手を出す。子どもの飢餓が広がる。
まあ、酷いものがある。
そして映画の常用手段ではあるが、表の世界と裏の世界とのコントラストを際立たせる。・・・先進諸国の街のカフェはオシャレで清潔、人と人との繋がりを大切にする爽やかさ。コーヒー1杯は高めだが、味よし、香りよし、接客よし、雰囲気よしで言うことはない。企業は儲かりっぱなし、バリスタは腕に人生を掛けて文化は豊穣の様子・・・

そもそも数年前、WHO主催のアフリカ会議で、EUやアメリカは公正な会議を標榜しながら、とんでもなく不公平に自分たち有意にことを運ぶ会議を展開、会議は決裂したのだった。それはそうだろう。(そしてこの延長線上に現代のテロだってあるのだろうと思った。。)
コーヒー農家の飢える子どもたちをほとんどどうにもできないエチオピアの惨状、ノーコメントのコーヒーショップ欧米優良企業たち。

このドキュメンタリーでは、つまるところ「フェアトレード」を促している。世界の市場が公正に取引されていないからこうなるのだ、ちゃんと最低限のレートを確保した製品を買うべきだ、消費者と生産者は無関係ではない、と。
しかし・・・映画を(早回しで)見終えてちょっと考えると、とてもフェアトレードで解決、とはいかないと思った。

まず、何度も何度も思ったのは、この絶望に似た状況を変えようと頑張っている奇特な人は何人もいるが、1人の二宮尊徳も出ないところが日本とは違うのではないか、ということだ。
二宮尊徳は、無一文の奉公人から一気に大農家へと駆け上がったベンチャー的人間だが、何が一番大事なのか、その都度ポイントを徹底的におさえた合理主義者であった。だからこそ、藩や村の立て直しをわんさか実現し、天明の大飢饉で関東一円に餓死者を出さなかったといわれる。

エチオピアのコーヒー農家のコーヒー豆を適正レートで買うのも大事だろうが、それで解決はするまい。
農家の一番の強みは何か。それは、口に入るものを自分で確保できる点にある。

二宮尊徳は、(伝説だが)秋茄子をひとくち食べてその味で飢饉を予測し、もう育っていた綿花や菜種などの換金作物をすべて引っこ抜かせて、ヒエ・アワなど腹を満たせる作物に急遽変えさせたという。
生産がダブついているコーヒーをずっと作っていて良いわけもないと思った。

また、先進諸国に搾取され続けるのは学が足りないせいだということで、なけなしの金を学校づくりにあてるという希望が描かれていたが、これもどうだろうと思った。
インフラ整備よりも、人材・知恵というのであれば、何かしらの工夫が色々できるのではないか・・・そんな気がした。

ところで、私はコーヒー飲みだが、UCCやネスレはうまいと感じたことがない。
スタバは時々入る。接客は高質だが、価格も高い。コーヒー自体は濃すぎて、最近は味も良くないので甘いもの(キャラメルマキアート)で自分を誤魔化す。
こんな味で、よくお客が入るものだ。そしてトレード面でもフェアではないのだから困ったものだ。

私はけっきょく、自分で淹れたものが一番好きだ。キーコーヒーである。外で飲むならタリーズやドトールが好きだ。安上がりにできている。
でも、いずれにしても、コーヒー企業のほとんどは、フェアなトレードなど気にしていないのだろうと憶測する。
結局私は何もできない。
罪の意識をちょっぴり混ぜ込みながら、ミルク入りコーヒーを嗜み続けるであろう。
ドキュメンタリー映画を観た後、よく感じるモヤモヤ感だけが、たしかにあった。




2016年7月23日土曜日

ポケモンGO

ポケモンGO、日本で本日(2016.7/22)配信開始――というニュースがあった。
ついに、アメリカに遅れること約半月・・

連日、世界中であっという間に爆発的ヒットを飛ばし始めたこのアプリゲームのニュースは、すでにいろんな騒ぎや事件や各国政府反応などをともなって、活気がある。
テロとかクーデターとか戦争とか選挙とか、世界を駆け巡るニュースにはそんなことが目白押しだが、そういったニュースは逆にありきたりとも言える(!)。いっぽうで、ポケモンGOみたいなゲームが世界中の市民生活に多大な影響を及ぼしているなどというニュースは、奇妙奇天烈で面白い。

ところで、僕の電話はPHSで、スマートフォンではない。つまりスマホアプリとは無縁だ。
もとよりゲームもしない。
ポケモンGOは気になるが、僕とは無関係なモノなのだった。

さて、夕方に昼寝から覚めた妻と長男は、公園や湧き水場に遊びに出かけた。
僕は自分のことをしながら、寝覚めたばかりの8ヶ月の二男を抱いていた。そこへ郵便屋さんがやってきて、僕がネットで購入した琉球ガラスを届けてくれた、そのタイミングで、同じアパートに住む小4の女の子と4歳の男の子の姉弟が通りかかって、「ねえ、遊ぼ! 久々に」と38歳の僕に言った。
長男と妻が出かけていったのは見たそうだ。「赤ちゃんと遊びたい」というので、踊り場でわいわい雑談をしながら二男のほっぺたを触らせたりしていた。
すると、女の子がポケットからスマホを落とした。
「君のスマホ?」
「ううん、お母さんの」
「落としたらマズいだろ」
するとその子は、誤魔化しまぎれにこう言ったのだ。
「ねえ、ポケモンGOやろう?」

画面を見せてもらうと、ニュースでよく見かける画面があり、ゼニガメというキャラクターが捕獲済みだった。
「お母さんが獲ったって」
何だかマークポイントもあるが、ここはド田舎のせいか、地図上に道がない。その子は場所の検索をかけるのだが、それもきちんと動かない。
僕は耐えかねて言った。
「よし。こうなったら、そのポイントまで今から行ってみよう!」
・・・ひとんちの子が持ってきたスマホで、僕は積極的にポケモンGOを体験しようとしていた。

まぁ、ここは田舎だし、近所の子どもたちとは大体仲良しなので、滅多なことでは誘拐になるまい。
昨日も表で長男の友達(5歳)たちと戯れていたら、わざわざ持ってきて貸してあげた自転車で思い切りぶつけられて、僕は右脚のスネに打撲と擦り傷を負った。
はっきり言って、そんなことばかりの日々である。

子どもたちを待たせて、戸締まりと身支度をして踊り場へ出て「さあ、出発だ!」と言った。
女の子が「でも、お父さんが帰ってきたら、家に帰らなくちゃいけない」と言った次の瞬間、そのお父さんが階段の下から上がってきたのだった。子どもたちはぐたっとして、下りかけた階段を無言で数段上がった。父親はいつものとおりニヤニヤしている。
「ああ、お帰りなさい。お父さん凄いですね、ポケモンGO!」と僕は言った。
「あはははは」と笑って会釈しながら、父親は間際を通り過ぎていった。

子どもたちは父親の後にだらだらとついて上がって行く。
僕が「ちょっと、今度またやらせてよね」と言うと、「あさって遊ぼ! 時間あるから」と振り向いて言って、子どもたちは帰っていった。
あさってか。・・・実をいうと7月中、僕は多忙なのだ。
が、ポケモンは1匹くらいゲットしたい気もした。

二男と買い物に出て暗くなってから帰ると、先に帰宅していた妻と長男は楽しそうな様子だった。
しかし、僕がポケモンGOをリリース日に、家族で一人だけ経験してしまったことを自慢したら、妻はブーイングで、長男は瞬時に泣きべそをかいた。
妻は言った。「でも、私はスマホだから、やろうと思えばいつでもできるもん」
僕は言った。「そりゃ、やる気があれば誰だってできるさ。・・・やる気があれば、何でもできる!」
がらにもない猪木のモノ真似アレンジに、妻はつい笑って「面白い」とだけ感想を言った。



2016年7月14日木曜日

衆議院選挙のボロボロ用紙

本土では九州でも関東でも大雨がひどいとのことだが、沖縄は晴空が猛暑を連れてきている。

最近の私の日常は人と話すことが多い日々で、刺激が多く勉強になる。
反面、フォーマルが苦手で営業向けの性格でない私には疲労が溜まるのだろう、まいにち妙に眠い。

日本や世界のニュースにはあいも変わらず嫌な内容が多い。
テロの多発はきっと歴史の流れとして必然に近いものがあるだろう。しかし国内の殺人事件や何かには、発生率に必然性はあるのだろうか?
ポケモンGOの海外大ヒットは、いろんな問題が付属するといっても、比較的面白いニュースだった。天皇の生前退位の意向についても、問題問題いう人はいるだろうが嫌なニュースではない。

参議院選挙。
当日、「やっぱり、行きましょうか」と妻に声をかけて投票ハガキがどこにあるか尋ねた。
「玄関の棚の上にあったけど」というのだが、ない。「見当たらないけど・・・」と私はいいながら、やがて思い出した。
今回の選挙、あまりにも与野党とも魅力に欠けるため、私は早々にハガキを捨ててしまったのであった。基本、選挙には行く私が、だ。
ベランダに出してある紙ゴミのダンボールを漁ると、数日前に台湾方面に逸れた台風1号の雨でぐっしょり濡れた投票券が2枚出てきた。これを持って車で市役所に行ったのだが、いざ到着してみると、「あなたの投票所は近所の小学校です」と面倒なことを告げられてしまった。
この時点で妻は、「投票、いかなきゃダメなの~?」と舌足らずな女の子のように渋った。
「行くんだよ」と野太い声で私は言った。

小学校の体育館の半分が投票所となっていた。がらんとして静かだった。
住民リストに投票券との割印を押す係員に、住民リストを覗き込んで私が「投票率低そうですね・・・」と声をかけると、係員2名は言葉を発さずに苦笑した。
8ヶ月の子を抱きかかえながら議員候補者名を書き、5歳の子どもに投函させる。
係員が次の短冊を出してくれる。そういえば、七夕は5日前だった。
8ヶ月の子を揺すりかかえながら政党名を書き、5歳の子どもに投函させる。
書き入れるとき、小声で「どこに入れる?」と妻に訊いたら、私と違う政党だった。

子どもが、飴玉を貰ったといって駆け寄ってきた。
投票所の係員の一人が区長さんで、横並びの監視席から、満面の笑顔で手を振ってくれていた。人気の少ない静かな投票所に、われわれの世間話が響いた。場の雰囲気を気にして、互いに早めに話を切り上げた。
飴玉を握りしめて投票所スペースの向こうを全速力で疾走していたわが子を私は叱って呼びつけ、われわれ小家族は投票所を出た。
帰りに話したら、妻のいう政党に私は入れたのに、妻は私が言った政党に入れたという。「結局、票が割れちゃったよ」と二人で苦笑した。じつに、しょうもない選挙であった。

夜は着々と開票が行なわれ、テレビはそれに湧いていた。投票率はすこぶる低く、安倍総理大臣高笑いの自民圧勝に落ち着いた。逆に沖縄県からは、参院とも自民党の議席はなくなった。
私はべつに政治に期待なんてしていないので、特にどういというコメントはない。
先日、久しぶりに司馬遼太郎の講演CDを聞いたら、ちょうどそんな話を挟んでいた。こんな感じの内容だった。

「われわれ日本人は、みなさんそうでしょうけれど、政治に期待なんかしてないでしょ? 政治が世の中をどうこうしてくれるなんて、ほとんどの方、思っていないでしょう? その通りなんです。日本文化の礎のほとんどは室町時代にできましたが、将軍足利義政は飢餓が酷かった時に銀閣寺なんか造ってました。一方、じつは室町時代というのは日本史上最高の農業生産率を叩き出したけれど、政治権力主導ではなくて、農民が自ら工夫して成し遂げたんです。文化も農業も、政治なんか大して役立たないんですね」

デフォルメはあるだろうが、歴史小説の文豪が語るにしては面白い政治観であった。

いや、政治はいろいろ世の中を決めてしまう面もあるのだから、無視できないし無関係でいられない。それは分かっている。
けれど、世の中をどうしてほしいと政治に期待しても、十中八九はうまくはいくまい。われわれ日本人の大半は、白けるのは得意でも、自分のリーダーさえまともに立てられない始末なのだ。
であれば、カネと武力を謳う連中が、物的生活の豊かさと自分の安定だけ考える人間の多くを惹きつけるのは、ごく自然な流れでもあろう。

つまり有意味な選挙なんてそもそも、そんなにないわけだ。
そして、「民主主義」元来の汚れがまだ落ちきっていないことも、多分その一因なのである。だから「帝国主義」へと世の中は向かうのだが、それでよいはずもないのだからどうしようもない。いちばん明るい話題はどうしたってポケモンGO、みたいなことになっちゃうのだ。




2016年6月26日日曜日

雷が落ちた

昨6月25日の晩、宵闇の南のベランダに出て、遠く海の上に黒々とそびえる積乱雲が時折きらめくのを、七ヶ月の二男と見ていた。
梅雨があけたとはいえ空気は湿って生ぬるい。

2、3週間ほど前の事、ひどい雷鳴の夜があって、深夜12時を回った頃、一発が近所に落ちた。雷光とともにバーン!という凄まじい音がした。私はとっさに南の窓を開けて外をみた。妻は北側のカーテンを開け「こっちよ。青い稲光が見えた!」と言った。僕は「こっちだよ」と譲らなかった。

翌日、会う約束をしていた5歳の長男の友達のママが、「うちに雷が落ちちゃって」と妻にメールをよこした。長男の友達の家は、うちから200mほど西にある。
詳しくいえば、その雷は平屋建て鉄筋コンクリート製のその家のアンテナを直撃、アンテナは大破し、ほかテレビ・パソコン・インターフォン・3つの電灯が壊れたという。「もう寝てたんだけど、爆弾が落ちたのかと思った。そのまま寝たんだけど」とのんきに構えて明るいのが素晴らしい。黄色いクレーン車が来てアンテナを取り替えていたが、気の毒なことに、テレビなど家にくっついていない機器については火災保険が効かないらしい。
「いいの、子どもたちがテレビばっかり見てるから、テレビなんて壊れればいいのに、ってホントに思ってたから」と奥さんはとにかく明るかった。

それにしても雷が自宅に落ちるなんて、何という低確率の経験であろうか。
不思議なのは、その真隣の3階建ての家に落ちずに、ずっと低い平屋の友人宅に雷が落ちたことだ。僕は、(テレビなんか壊れればいいのに)と奥さんが思っていたから落ちたのではないか、とつい非科学的なことを思ってしまった。

昨晩もそんなことを思い出しながら、遠くの雲の中の雷光を眺めていた。遥か遠方で音は聞こえない。巨大な電球のようで美しかった。
暗がりの中、赤子が僕の瞳を間近から見つめてきた。僕は、(まさか我々に雷が落ちるなどということはないよ)と見つめ返した。が、友人宅は低い場所でも落ちたのだからと思うと急に不安になって、室内に入った。
やがて、雨粒が落ちてきた。
雷も聞こえ始めた。
僕は妻に、「もし雷が落ちてこのテレビが壊れたら、俺は泣くよ」と言った。
長男は昨日から40度の高熱が続いていて寝ていた。
妻も風邪がうつったらしく、頭が痛いと言って早くに床に入った。
やがて赤ん坊も眠った。
なぜかとても寝苦しい夜だった。

 ※

今朝。長男が第一声で「熱が下がった!」と叫びながら元気に起きてきた。だが、子どもが楽しみにしていた「仮面ライダーゴースト」はなぜか録画できていなかった。なぜだろうと訝しみながら、代わりに、借りてきてある「ドラゴンボール」のDVDを見せた。昔のアニメは面白い。
妻が、「給湯器が動かないの」と困った顔をしていった。
僕が不動産屋に電話をかけると、今日は日曜で対応は明日になる、と休日受付の係員が応えたちょうどそのタイミングでドアベルが鳴り、不動産屋のお兄さんが来訪したのである。

「テレビ、映りませんよね?」
「そうですか? それより、給湯器が燃焼しないんです」

DVDを見ていたため気づかなかったが、たしかにテレビ番組も映らない。
不動産屋のお兄さんは、凛々しい眼差しをしてこう言った。
「どうやらこのマンションのアンテナに、昨日の夜、雷が落ちたんですね」

妻は、そういえば昨日の夜中の雷は尋常じゃなかったと言う。
僕は気がつかなかったと言うと、
「何言ってるの? その瞬間に飛び起きて、カーテン開けて見てたじゃない」
という。覚えていない。妻の話では、「雷というよりも、地球を巨大なハエ叩きでぶったたいて、映画の水爆実験みたいに余波が広がってしばらく音が残るみたいに、尋常じゃない大きな音だったよ」とのこと。
僕は覚えていないから分からないが、とにかくこのマンションを含め、昨晩糸満市で3軒の落雷があったのだそうだ。

とにかく、モノが壊れなくてよかった。
「テレビ壊れたら俺は泣いちゃう、って言ってたもんね」と妻は笑った。
給湯器が作動しないのは、マンション共同の水道加圧器のブレーカーが落ちていただけのことで、すぐに復旧した。
マンションのテレビアンテナはダメだったようだが、とくに見るべき番組もない。ニュースだって、一昨日のイギリスEU離脱を超えるほどのものはないであろう。
そうか、だから今朝「仮面ライダー」が録れていなかったんだな、と納得してすっきりした。


2016年6月16日木曜日

読書メモ(20160615)

国家と「私」の行方』(松岡正剛、春秋社、2015)という2巻本のうち1巻めを読んだ。
副題に“18歳から考える/――セイゴオ先生が語る歴史的現在”とあって、内容をさらりといえば、知識人である著者が日本史を世界史に色濃く絡むものとしてわかりやすく組み直して語り、そこに文化的・思想的知識をからめつつ、日本人一個人のあり方を検討するというもの。素晴らしい本で大変勉強になる。

高校・大学生向けにかみくだいてあるので読みやすい文章ながら話は奥深い。もちろん所々単純化しすぎたり、感情論で書き進める部分があるのは否めないものの、少なくとも私の学生時代にこういう類の本はなかったと思う。極めてダイナミックな視点で、正直な歴史観で日本史と世界史を分かりやすく見据えてある。

2010年代は恵まれた時代で、こういった本はどんどん出てきている。
たとえば一昨日、赤嶺イオンの本屋で『最速で身につく世界史』という新書本をざっと立ち読みをした(角田陽一郎、アスコム、2015/“「24のキーワード」でまるわかり! ”の副題)。
こちらはテレビマンが書いた歴史読本で、同じように教科書・参考書では掴み取れない骨格を、よみやすく鮮やかに説明してみせてあった。


ところで、前者の松岡正剛氏は1970年代から影に日向に活躍し続けている編集者・執筆家で著書多数、日本の“発信する”タイプの知識人としてはトップの人物だ、と私は目している。他人と比較してはアレなのだが、池上彰や佐藤優や立花隆ほか日本を代表するといっても過言ではないような発信型知識人を思い描いてみても、彼らよりずっと上をいっていると私は思う。上をいっているのは何についてかというと、編集表現システムの構築、扱う分野の広範さ、読者対象の幅広さ、彼個人の人間表現としての自由度、発信メディアの活用度、自身の著作の多さ、知識人著名人との交友の多さ、成果としての社会的影響力などだ。これらは本当に物凄いことだと私は驚嘆している。

もちろんこれらの圧倒的要素には裏面もある。
編集表現システムの構築→引用過多となり、研究考察の土台部分を自身では作り得ないこと。
扱う分野の広範さ→話の筋がいつも散漫になる。
読者対象の幅広さ→話が単純化されがちになる。
彼個人の人間表現としての自由度の高さ→感情論になることもあり万人受けはしないし、ときにナルシシズム全開になる。
知識人著名人との交友の多さ→八方美人になり宣伝的になる。

結果これらは胡散臭い部分をも提示してしまっているだろう。
しかしそれでも、だ。この人の仕事は量・質・内容とも凄い。
なんといっても一読をお薦めするのは、濃厚なるブックガイド・ブログ『千夜千冊』である。もしご存じなければ、ぜひご自身の興味ある分野の項を試し読みしていただきたい。
1600回を超えた今も続くこの長大な図書案内ブログを、私は全読破にむけて挑戦しているけれど、今のテンポでは通読するだけで5年はかかりそうだ。なにせ理系文系を縦横無尽に渡り歩きながら、ひとつひとつの記事が長く重い。

松岡正剛についてちょっと不思議なのは、超有名人なのに私の友人にその名を知っている人が全然いないことだ。松岡氏は国内外の数多くの並ならぬ著名人たちと面識をもち、公的機関の企画も担当し、ベストセラーもロングセラーもいくつか執筆し、自分で作った編集学校の校長兼講師を勤めるとかで、当然ながら有名なのだ。かなりの著名人だからテレビにもたまに出る(この間はNHK「日曜美術館」のカラヴァッジョの解説にひょっこりゲストで出てきた)。それなのに、私の友人に松岡正剛の名を知っている人が全然いない。いつもこれは不思議におもう。

さっきの松岡正剛著『国家と「私」の行方』』の話に戻るが、この本では歴史理解の方法として「インタースコア」という編集術の姿勢を採用している。わかりにくいカタカナ語だが、これは彼独特の編集術の要で、「歴史や事件や現象や文化を、さまざまに比較投影しながら見るという方法」(25ページ)とのこと。私のイメージでは「個別情報同士に含まれる共通項での串刺し再編集」というような感じだ。
例をあげれば単純なことだが、たとえば江戸時代の成立を理解しようとするなら、日本で徳川江戸時代が始まった頃の、西洋ではなにがあったか、中国では、と見ていく。これをただの比較列挙で終わらせない。政治も文化もミクロとマクロを往復しながら見事に脈絡づけられ、史実の相互関連性への比重を大きくし、歴史を再編集する。
読むと(どうして高校や大学の日本史では誰もこうやって教えてくれなかったんだ!)と思うくらい説得力がある。
説明が「正直で直接的」なところが、今までの歴史解説と違う。
いくつか私がはっとした部分を以下に抜書きしてみるけれど、内容は、人口に膾炙した一般的な情報が述べられており、奇異なものはない。けれど、その切り口・語り口・解釈が確かに新しい。彼のいう「編集力」が効いている。

・西洋を後追いせざるを得なくなった明治日本の奮闘をざっとみてから、同じ19世紀頃のヨーロッパではどうだったのかをざっくり比較してその歴史を検討し、
「これでわかるように、イギリスもフランスも日本が真似るにはあまりにもスケールの大きい大工事・大博打をしているのです。明治日本とはスケールが桁ちがいですし、その野望もバカでかい。作戦も緻密です。このことは、すでに幕末にイギリス公使パークスやフランス公使ロッシュが、ほとんど一人で幕府と薩長を動かしていたことを見れば、よく実感できるだろうと思います。相手は一人、日本は100人、1000人です」(225ページ)

・なぜ黒船は日本に来たのか、ということを理解するのに、まず江戸末期の日本を眺めて、つぎにイギリス、フランス、ドイツ、ロシアの政情をみて、その影響からアメリカの動きの必然性をみて、アメリカの日本開国を迫る戦略があって、
「日本はあきらかに狙われたのです。」「日本の教科書にもそろそろそう書くべきです。」(234ページ)
とくる。
つづけて列強のアジア進出(アヘン戦争を皮切りに)や、黒船が半世紀にわたって何十回も来ていた情報などが説明される。

読めば、黒船到来が単に鯨油・水の調達やら通商やらといった理由だけで来たというような理解はまずできなくなる。ジョン万次郎が(私の住んでいる)沖縄南端に辿り着いたことも、大黒屋光太夫がラックスマンに送り届けられたことも(井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」に詳しい)、ただ「来たんだな~」などとはまず思えなくなるだろう。
ぜんぶ繋がってしまい、それは半ば歴史の必然と分かる。

だからといって、松岡正剛は運命論者ではないし歴史学者でもない。明治政府の日清・日露戦争に当然の流れのように進んでいく歴史を解説しながら、必然としておさめずにクエスチョンマークを残す。その論調が彼の魅力であり、新しさであり、正直さであり、あるいは危うさなのだ。


・・・なんだか読書メモが長くなりすぎた。
『国家と「私」の行方』と別の、もう一冊、テレビ番組構成作家の角田氏『最速で身につく世界史』も、自由な視座で歴史を語るのは、「現代史で今を語りにくいのは、未来を語らねばならないから」として、未来予測をいくつかつけていたりするところだろう。面白い。
彼の解説(の私のうろ覚え)によれば、いま世界中で右傾化や暴力的傾向が強くなっているのは、再帝国主義の時代が到来しているからなのである。やがて欧・米・ロ・中・イスラムという5つの帝国のどれの下につくのか、どの内部で国家を持続するのか、という選択を世界中が迫られるが、日本は(アメリカ帝国傘下にはいるが)ぼやぼやと無所属で一国いる。(この辺はハンチントン『文明の衝突』の類の焼き直しだろうけれど)

今日挙げた2冊とも、現代のネーション・ステイト(国民国家)の危うい現状、好戦性を捉えている。
そして、日本国の主体性の中途半端さ、なんとかここまできた素晴らしさ及び残念さ、さらに国民個人の非力さと希望とを教えてくれる。
もやもやしつつ本を閉じ、腕を組んで唸った次第である。

2016年6月11日土曜日

ブログ表現を模索しつつ

ブログの表現というのは、つくづく難しい。

話題がなければ間があくのだ。
が、一口に話題と言っても、どうでもいい日常の些事から誰かのためになりそうな情報、重々しい私的思索までいろいろある。どうでもいい話ならいくらでも書けるが、そんな文章では、書き手にも読む側にも時間と労力の無駄というものである。

ブログは、料理なら料理、科学なら科学、工作なら工作、文学なら文学というふうに、話題の分野を特定すれば本当は一番わかりよいのである。
だが、ここはそういうブログではない。テーマは私が勝手に決め、一私人としての私がいろいろ考えて書くべき場と決めてある。しかしだからといって、自己顕示が目的というわけでもないのである。
自分のことを何でもかんでも公表するのは問題だし、読む側だって退屈だろう。

結局、ツイッターなどは私には馴染まなかった。俳句・短歌が短すぎると感じるのと同じで、情報としても表現としても短すぎる。
SNSは、フェイスブックもミクシィも10年くらいは一応参加している。けれど、これも肌にぴたりとこない。SNSは便利な面はあるがあまりに直接に自己顕示的で、そして人間関係に奇妙な複雑性を与える。
ツイッターもSNSもジャンク情報だらけ、というのが素直な感想だ。けれど、載せられた情報がジャンクか否かは各々の利用者が決めることであって、SNSから国際政治が動くことだってあるし、ツイッターで大儲けする人もいっぱいいるくらいだから、ただ私に使いこなすだけの能力がないだけの話でもあるのだろう。


さっき自分のことを何でもかんでも公表するのは問題だと言ったが、情報を出す側がコントロールしなければならないことはネット時代にはごくノーマルなスタンスである。
コントロールは必然であるが、かといって情報を出し渋りすぎれば、表現は無意味なものと成り果てる。
たとえ宣伝をかねていても、いいところばかり見せようとすれば、キザになったり優等生じみたりして鼻につく。生身の人間と一緒のことである。
要するに、一にも二にもバランス感覚が大切なのである。ここもなかなか難しい。

試しに自分が最近、何をしているかを書くとする。
そうすれば、友人知人が私の近況を類推できるかもしれない。

例えば昨日(2016年6月10日)は、『90分でわかる デカルト』(ポール・ストラザーン著、1997)というライトな哲学者紹介本を12年ぶりに再読した。
夜は、2006年のアニメ映画『パプリカ』をDVDで観た。これは2007年のDVDリリース日当日、仕事をズル休みしてまで心待ちにして観た作品で、私には思い出深い。内容は、他人の夢に入り込んで不安神経症を治すセラピストが夢から抜け出られなくなるという冒険ミステリーで、描写が非常に異常で面白いし、ヒロインがとにかく可愛い。原作は筒井康隆。今敏監督がその後急逝してしまったのがつくづく残念だ。今回の9年ぶりの再鑑賞は当時と違う楽しみ方ができた。

・・・といった具合に作品鑑賞のメモを書けば、友人知人は(これは自分も読んでみよう観てみよう)、などと思うかもしれない。思わないかもしれない。
ただこれだと他者の作品を受動しただけなので、そもそも私が自分で表現する必要性が少ない。評判をユーザーが知りたいのなら、Yahoo!レビューかアマゾンのレビューをみれば済む。

ということで、私の胸の内を通した内容、例えば昨今のニュースに思ったことを書いてみる。

最近のニュースには本当にロクな物がないが、そのなかで唯一朗報に属するはずのニュースに、一番ガックリきてしまった。原子番号113番目の元素の命名権を理研が得て、「ニホニウム」と名付けて悦に入っているあのニュースだ。
素晴らしい研究をしたのはわかるけれど、それだって研究競争の僅差で勝ち取った命名権でしかない。「ニホニウム」。このネーミングセンスのなさ、工夫のなさに、私は虚しささえ覚えた。
面白みもひねりもなければ、メッセージ性もない。あるのはナショナリズムのみである。安倍首相はもろ手を挙げて喜んでいるかもしれない。
福島にエールを送るとか、原発事故で失った科学への信頼を回復する云々という理由付けをしているが、全然「ニホニウム」の理由付けになっていない。それなら「フクシミウム」にすればよいではないか。日本の若者に勇気を与えるなら「スペシウム」でもいいし、「ユメニウム」でも「ウレシウム」でも「ガンバリウム」でもいい。ルール上、科学者名や地名にこだわらなくてもいいのだから。
瞬時に消える性質なら「マボロシウム」でもよかろう。覚えやすい。
「ニホニウム」で喜ぶのは、日本人で、かつごく一部の国粋主義的な人だけだろう。ゲルマニウムもそうだが、純粋科学が愛国心表現の場になっている光景にはただ溜息が出る。有名人の名前も白々しい。アインスタイニウムなんて、何が面白いのか? 元素名なのだ。素直に「それっぽい名前」を付けてやれないのだろうか? 星の数ほどは元素は存在しないのだ。
まぁ、べつにただのネーミングだから本質にかかわる話ではないし、ましてや私にはまったく関係のないことなのではあるが。

・・・といった具合にニュースの感想を書いたところで、、これは誰の役にもたちそうにない。
友人知人が(ふーん、君はそう思うんだね)と思う程度のことであろう。


しかし、私の日常には、まだいろいろ他にも行動や出来事がある。
たとえば別の研究課題や問題についての他者との話合いがあったり、まだ誰にも公表できない面白い研究があったり、自身の仕事と生活とに独自の方法論を当てはめて進もうと四苦八苦していたり、子供らに独特の教育を試みたり、家族で他愛もないドライブにでかけたり、無駄な時間を過ごしたり・・・ 
つまり人並みに、いろいろあるのだ。

が、これらの中には書いてはいけないこともあるし、書いて意味がないこともたくさんある。
――こんな当たり前のことを書くのも、時間と労力の無駄に近いのだが、ここで申し述べておきたいのは、このブログではしばらく、内容と表現の模索が続くであろうことである。
ありきたりだが、読書メモや映画鑑賞メモやプチ旅行記などを書けば、いちばん友人知人には無害かつ有用なのかもしれない。
・・・しかしこれだと、ツイッターやSNSとほとんど同じようなものとなってしまいかねない。
模索していくしかない。


2016年6月7日火曜日

日常風景(6月)

梅雨は梅雨でも晴れ間の多い梅雨だ。
そうこう言っているうちにもうすぐハーレー祭だから、梅雨もじきにあけるだろう。

それにしても温湿度とも高いので、窓にくっつけるタイプのエアコンを2基買って付けた。
こういうものがあるのか、と今回初めて知った。なかなか重宝している。モノの雰囲気としては、思いつき的な後付け工事感が否めないし、かなり重いので窓枠から落ちてこないかが心配ではある。音も案外大きい。けれど、これでうちのベッドマットをリビング(!)からいわゆる寝室へと移動できたので、奇妙な生活から一般的な生活へ修正が進んでいる気がする。
空冷装置というのは結局電気エネルギーを熱エネルギーにしてしまうので、熱風を外に排出しなければならないから、窓際にくっつけることになる。海辺に建てる原発とちょっとだけ似ている。

大量の本の一部を箱に入れて家内の事務所に移動したら、腰を傷めてしまった。
数日前に5、6回噛んでできた口内炎も、歯に当たり続けるので全然治らない。
そう言うと、「歳なんじゃないの?」とひとから言われてしまった。


行動と計画は、人を主体とし物を対象として進められる。
だから一連の活動を円滑に進めるために、物は常々整理整頓されなければならず、それは物品のみでなく情報にも計画にも行動についても執り行われなければならない。

僕はそういうことが得意というわけではないから、慣れないことで腰を痛めつつも理路整然を目指して頑張るわけだ。けれど整頓そのものは何かを生産するわけではないから、できるだけ手短にするべきであることが分かっている。
理想は、目の前に出されたコース料理をその都度平らげるように、あるいはマッカーサー元帥が毎日デスクの上に書類を残さずに帰宅したように、手元に来たものを全部その時やりこなしてしまい、整理してしまうことである。私のような者は、なかなかそういうふうにはできず、ついついおやつをつまみ食いし、そのぶん、食卓に出されたものは残したりしてしまう。
だから本来なら、庶民は粗食で暮らすのがいいのであろう。
(グローバル資本主義経済社会のなかでいつしか生活を肥え太らせながらも、個人意志だってどこか脳のどこかには残っているはずだ・・・)

 腹回りを気にしてなでる初夏の風




2016年3月11日金曜日

3・11と旅人

2日前、友人Sから電話があった。
彼は11年前、中国南部・桂林の奥地を旅していた時に知り合った友人で、いまもほんの時折、はがきや電話でやりとりする間柄である。
私はやがて旅をやめ妻子を得たが、旅の達人であるSさんは旅こそ人生であると定め、年に数か月は国内外を一人巡っている。

「いま、どちらですか?」と問うと、
「いやぁ、函館です~」とSさんは答えた。
北海道の街並みをイメージし、羨ましく思った。
後ろががやがやしているので「飲んでるんですね?」と訊くと、「飲み屋さんなんだけど、ひとりぼっちでさ」という。
しかし、Sさんがこのタイミングで電話を寄こすのは、やはり気まぐれではない。

彼は2011年の震災直後から、ちょくちょく被災地を訪れている。日本中・世界中を歩いているので、なじみの土地が多いのだろう。
震災から5年目を迎える今回も、賑やかになるであろう3月11日を避けながら、仙台や三陸などを巡って土地の友人と会い、被災地の変化する景色を見る旅をしてきたようだった。今回の旅の目的を果たし、そのまま大好きな北海道に抜け、ほっとしたところで、2011年に放射能を恐れて沖縄に移ってきた私に、報告のような電話をくれたのだ。

震災で2万人が亡くなったあの日は、私にとっても人生を大きく変えるポイントとなった。
妻の茨城県東海村の実家の壁には縦割れが生じ、道も橋も酷い状況だったという。水道ガス電気が数日間通らなかった。
妻は震災が起こるひと月前に2ヶ月の息子を連れて、実家から神奈川県中井町のアパートに戻ってきていた。

地震の時、我々小家族は大磯から鎌倉まで車を走らせていた。ラジオのニュースをずっと聞いていた。尋常でない渋滞になったので、藤沢でデニーズに入って軽い食事をとった。小さな津波が境川をさかのぼってくる様子を、車から降りてデジカメの動画に収めた。
1時間で帰れるはずの場所まで帰宅するのに9時間もかかり、夜になった。所々で信号や町全体の灯りが消えていて異様だった。家でみたテレビには、かの信じられない光景が映っていた。
3月11日からその後の数日間にあったことは、私にとっても特別な経験として記憶にある。
いろいろ書きたいけれど・・・(そのことは、またの機会にします)


Sさんは、東京・町田の人だ。
私は神奈川県央の海老名市で高校大学時代を過ごした。町田と海老名は、小田急線に乗れば15分の距離である。
Sさんと出会ったのは2005年で、中国奥地の桂林のそのまた奥地の山深い田舎の一軒宿だった。相部屋のベッドが隣同士で、数日の間、一緒に村を歩いたり、夜にはバカ話で盛り上がり、持っている本を交換して読み感想を言い合ったりした。
翌2006年、私は二度目の放浪のひとり旅からの帰途、インドのコルカタから成田に飛ぶ飛行機に乗っていた。途中タイのバンコクを経由したが、その停まっていた15分ほどの間に、機内にSさんがのらりくらりと乗り込んでくるのを見た。
私はとっさに声をかけ、感動の再会に固く握手した手をなかなか離さなかったが、Sさんは私のことをなかなか思い出さず、「誰? 誰だっけ?」としばらく不審がっていた(私は短髪から長髪に変わっていたのだ)。
Sさんはつい先程まで、連日昼夜問わず飲み暮らしてバンコクに10日間滞在していたという。ひどい二日酔いでぐったりとしており、靴も盗難にあって、飲み屋のスリッパを履いていた。
成田からも同じリムジンバスに乗車したのは奇妙な心地だった。町田でSさんはバスを降り、次の相模大野で私も降りた。それから小田急線に揺られわずか10分後に故郷の街に着いた時、インドはなんて近いのだろうと感じた。


「函館は、雪はどうですか?」
私も北海道好きだが、沖縄からなかなか外に出ることがない。
「雪ねぇ・・・もう雨で全部とけちゃった。7℃もあるんだよ」
「7℃ですか・・・雪、ないんですね。沖縄は24℃です。なんで今回は函館なんです? はるばると」
「函館、いいんですよ、ホントお薦めだよ。旧き良き町並みが、グッとくるのヨ」
旅の話は、私のほうにはネタがないので訊ねるばかりだが、Sさんは旅の話をするのに飽きている。だからこういう会話はSさんのサービスなのだ。

Sさんは被災地の友人の顔を見に、毎年、福島や宮城を訪れている。
原発事故とその影響についての意見は、私とぴたり同じわけではない。たとえば私は、放射能汚染を非常に警戒している。
彼はもう少し安全性を見極めてぎりぎり大丈夫と思うところを目指そうとする。だから、私なら絶対に口にしないしさせない三陸産の魚介類も、美味しいといってもりもり食べてしまう。
しかし「安全ではないよ」ともSさんは同じ口で言う。

Sさんの話によると、友人の子供が通う学校では、癌ではなくても甲状腺異常や体調不良の子がクラスに大体1人はいるらしい。
「テレビとかはさ、こういうことは取り上げないでしょ」
政府などによる報告では、子どもの甲状腺がんなどの発症率に差はなく、放射能の影響は見られないとしている。
別の研究団体などの発表では、発症率は高く死亡するケースも出ており、被害は甚大だとするところもある。


毎年3月11日になると、震災以降に知り合った大切な数名の友人家族たちに、私は電話をかけてしまう。色々考えてしまうし、感慨深いからだ。声を聞きたくなる。
でも、Sさんと話した後、今年はそれをしないと決めた。

5年。
――5年が節目だと、震災直後からいわれてきた。
放射能の影響が子供たちにあれば、チェルノブイリでは4~6年で影響が顕著になりはじめたからだ。フクシマ原発事故の影響も、5年が節目であろう、と。
その5年目が来たのだ。

私は一昨年、那覇の病院で息子に甲状腺のエコー検査を受けさせた。赤嶺にあるその病院では、3・11の影響を考慮してエコー検査に訪れた人はそれまで皆無だったそうだ。
担当の若い男の先生は、「まったく異常はありません」と言ったが、その言い方には呆れ笑いが混じっていた。先生は、じぶんは震災の時仙台に住んでいたんですよ、と言った。そして「感情でなく科学的に考えれば、あの程度の放射能で、甲状腺異常なんて出るはずがないんです。私の子供たちも、全然問題ありませんよ。ましてやあなたがいたのは神奈川でしょう?」と話した。
私は、(感情的であることと科学的であることは二津背反ではあるまい)と思ったが、そこで先生を相手に討論をするつもりはなかった。それこそ、決めつけた態度で診察しないでちゃんと科学的に見てくれれば、それで十分だった。
私が移住を決めたのは、子どもが赤ん坊だったことと、近所の南足柄に基準値を上回る茶葉が確認された(ホットスポットがあった)こと。放射能が水道に入った(と後でわかった)夜シャワーを浴びていた私が急激に視覚異常を起こし夜な夜な病院に行った経験があったこと。周囲に鼻血が止まらないという人が何人かいたことなど、もろもろの出来事があったからだ。

あとで友人の医師にこのエコー検査の一件を話すと、彼は呆れてこう言った。
「同じ医者としてほんとうに恥ずかしい。あの程度の放射能で異常が出るはずがないだなんて、よくそんなとんでもないことを言えるよ」

5年というのは短くない月日だ。けれど過ぎてしまえば、長かったようには感じない。
私自身は、ほんとうに色々とやろうと思っていたことを放置してきてしまった。何も片付いていない気がしている。色々と、やるべきことをもっとしてから、友人たちに連絡をとろうと思う。

昨晩は床でタブレットを開き、松岡正剛「千夜千冊」サイトの震災・原発関連記事を、延々と読んでいた。この著名編集者の松岡正剛氏の言を、私は全信用しているわけではない。しかし、それでも日本の知識人のなかで、この人ほどオープンかつ体系的に、広範で深淵な読書案内を提供し更新している人は他にいない。ダントツだ(氏は体系を嫌っているというが、どうみても体系をつくっているし、そこにこそ氏の仕事の価値がある)。
震災・原発関連記事も、その歯に衣着せぬ書きぶりと論説が素晴らしかった。
Sさんとの電話で、私はこう話した。
「松岡正剛はかなりのナルシストだし胡散臭い所もあるけれど、ほかに参考にできるマルチな大物知識人が見当たらない。たとえば立花隆もぱっとしないし」
するとすかさずSさんは「だって立花隆は過去の人でしょ?」と、きっぱり言った。なるほど、とそのシビアな評価に私は頷いたのだった。

松岡正剛「千夜千冊」を読みさし、タブレットを閉じると、私はなんだか涙が出てしかたがなかった。
震災記事は気がめいる。


2005年の旅の途中、22万人が亡くなったスマトラ沖大地震の津波被災跡地を訪れたことがある。少しだけボランティアに参加したのだけれど、荒れ果てた被災地はどこも似ていた。船は建物の上に乗り、その写真はポストカードになるものなのだ。
私は自身の翻弄される運命に手を打てないままだし、他者の酷い不幸のことは忘却し始めている。
ただ日々、生活に流されている。
日常生活を毎日なぞる。
日常的にあることだが、昨晩にも、私は赤子を抱いて寝かしつけながら、言うことを聞かない長男を叱りとばした。妻は風邪かインフルエンザか、高熱を出し早めに休もうとしていた。
5歳の息子はひとしきり泣いてから眠ったが、眠る前に描いた絵がテーブルの上に、画板に挟んだまま置いてあった。笑顔の人が大の字で手足を伸ばしている明るい絵だった。

子どもがやっと寝たといって、妻は辛そうな顔で隣の部屋に来ると、しばらく私と話を交わした。子どもや育児について、震災について、不幸と幸福について。
子どもが描いた絵を見下ろしたまま、妻は「3・11ね」と言って涙ぐんだ。時計の針は12時を過ぎていた。

2016年2月22日月曜日

インフルエンザ・ダウン

今年に入って、ふだんのパソコン漬けの日々が祟っているのか、体調不良が続いていて仕事にならない。

まず1月は小風邪をひき、一度治りかけたのにぶり返し、それから2週間も寝込んだ。
2月に入り、38才になったとたんに鼻風邪をこじらせ、やがて鼻腔が痛くて眠れなくなり、ついに病院に行った。
と思ったら、5才の息子と同時的に高熱にうなされ始め、息子を病院に連れていくと「インフルエンザA型」と診断された。
息子の保育園ではその時点で5人、インフルエンザで休んでいる園児がいた。
私は診断を受けていないけれど、症状が似ているので同じインフルエンザだろう。

それから今日で、まる1週間休んでいたことになる。その間、熱に強い息子も、3日間も40度ほど出してさすがにぐったりしていた。熱に弱い私は1日だけの高熱ではあったが、その後全身と意識の不調を繰り返し、それが抜けてもなかなかスカッと完治しない。
私たちの狭苦しいアパートは一時期、野戦病院さながらであった。私は妻に、「君はナイチンゲールだよ」と苦しい視線を向けて言った。

とにかく、シゴトも私生活も全面停止であった。
5歳の息子のワガママも頂点に達し、私は近所から通報されかねない怒声を息子に浴びせ、ノドを痛めた。
なにしろ息子は、0才3ヶ月の弟にうつったら困るからマスクをしろと連日朝から晩まで言っても、なかなかしないのである。
「何百回言ったら分かるんだよ!」と。むかっ腹が立った。

妻は、「スウェーデンでは1970年代からすでに法律で、子供を怒鳴ることも、叩くことも禁止されてるんだって」とテレビで仕入れた知識を披露した。
私は答える。「信じられないねぇ。『ニルスのふしぎな旅』はスウェーデンの話だけど、ニルスはお父さんに怒鳴られてたし叩かれてたよ。いっても100年も前の話だけど」
なお、私は子どもを叩いたりはしない。
妻は続けて、「スウェーデンの人たちにインタビューすると、みんな子供の頃、親に怒鳴られたりしたことがないって言ってたよ」
私は応える。「へえ、そりゃ凄いね。同じ人間なのに。でも北欧の社会福祉は実際もの凄いからな。親たちの苦労の度合いを、まず、あちらと比べてみたいものだよ」

妻も連日の疲労と不眠とが重なり、心身ボロボロになり、さすがにワガママ息子に手を焼き、いつも甘やかす一方の態度を豹変させて激怒する場面が垣間見られた。
私は、〈そうさここは北欧ではない、亜熱帯の沖縄なのだ〉と心のなかで呟いた。

そんなわけで、今日がじつは次男が生まれてちょうど100日目だから、伝統的には「お食い初め」の日であったのだが、何かそれらしいことをしようという計画はあったものの、延期になった。
全員がやつれていては、写真に残してもツラい。


このとんでもなく生産性の低い病床期間に進んだことは、ディープな読書と思索だった。
そうだ。病床の時間とは、昔から読書と思索のためにこそある。ライト兄弟のウィルバー(兄)も大怪我を治癒しているベッドの上で飛行機を作ろうと思ったではないか。
それにしても、もう少しホンキで体を鍛えないと、これは我ながらマズい。

2016年2月6日土曜日

映画『天空の蜂』をみた

3日前がレンタル解禁日だった、2015年9月公開の邦画『天空の蜂』を借りてきて観た。
東野圭吾原作の、原発クライシス小説を完全映画化。非常に骨太で分厚かった小説の読後感想は、こちら← に書いたので今日は映画の感想を手短かに記すのみにしたい。

「映像化不可能といわれた衝撃作」とは、陳腐な宣伝文句だと思う。けれど、じっさいに、確かにその通りだったから、私は驚いた。じっくり映像で観られて、嬉しかった。
いろいろ原作とは人物設定やストーリー展開で細かな点がちがうものの、原発の存在を意識すべきといったポイントのシーンやセリフは、かなり原作に忠実で、「逃げない姿勢」が貫かれていた。

現実の我々の生活を振り返ってみていただきたい。
3.11以降、原発問題の報道については、マスコミの自主規制(タブー)や報道規制があからさまで、ひどいものがある。
このことは、ちょっとでも意識している人々は、みんな気がついている。「表現の自由も知る権利も保証されているはずの国なのに、気持ちの悪い世の中だ」と、多くの人は思い続けているであろう。
たとえば、原発に否定的な芸能人は干される。脱原発的な報道はフィルターにかけられてかなり薄められる。事実を伝える報道についても然り、である。
しかし、しかたがないのだ。社会の情報機関はバックでどこかで強力に原発組織とつながっているのだから。・・・というのが一般論だ。

この映画『天空の蜂』は、ところがどっこい、正面から原発クライシスをドカンと描いた。
松竹120周年の心意気を感じる。

小説と同じく、原発の根本的な問題を取り扱うことなどがテーマではないから、3.11以降の我々としては物足りない部分も多いのだけれど、それでも「よくぞここまで映画にしたものだ!」と唸らされた。まちがいなく、日本映画では稀に見る、本当に度胸のある映画だった。

正直に書くと、私は堤監督作品は苦手で、『TRICK』も『20世紀少年』もセンスに合わずがっかりさせられた記憶が強い。今回の『天空の蜂』でも、センス的にはいただけない部分が多々あったはあった。
登場人物の表情やキャラクターは奇異なことが多くあり、(こんな人いないだろう)と現実的でない気がしてしまう。状況設定もおかしいことがある。いつ落ちるとも知れない超巨大ヘリの下付近に、いつまでも子供や家族がうろちょろしていたりというのは、その典型例だ。

映画表現だから仕方がないということもある。
やたらと怒鳴りあうシーンがあり、流血シーン、暴力描写、残酷映像があり、・・・それがたまにチープなホラー映画に見えるほどだから、頭のなかでチューニングする必要がある。

東野圭吾の原作は、映画と趣向が真逆だった。極めて上品で、静かで理性に満ちている。
映画では犯人に残酷性があって人が何人も死ぬ。けれど、原作では誰も死なない。犯人は一般人や主人公たちよりもうわてで理性的で、残忍でない。登場人物たちは怒鳴りあったりしないし、本当にこの世で生活しているかのように自然に描かれる。

それでも、こちらの映画にも、小説を超える表現部分が散見されて嬉しかった。
カメラワークやレンズに仕掛けがあるのだろう、不思議な映像美があった。
どうしても日本映画のCGは合成っぽさが残るが、それでも超巨大ヘリは大きく不気味に見えた。
ドキドキはちゃんとあった。


2時間17分。
突っ込みどころはあるが、度胸のすわった、納得の一作である。
俳優陣は有名な人が多く演技もうまかった。ぜひとも原発推進の社会的圧力に屈せずに、これからも俳優として活躍し続けてほしいと切に願う。

とにかく、すごい映画だとオススメしたい。
けれどやはり一方では、2011年の3.11以降なのに、1995年の原作のままのテーマ(つまり、「原発を意識せよ」)のみが映画化されている点で、・・・すごいといっても"そこ止まり"感が否めないのだった。





2016年1月26日火曜日

「琉球ガラスの日」を考える!

もし、「琉球ガラスの日」というものがあったなら、ということを2年ほど前から度々考えている。
2016年1月現在において、そういう日の設定は見当たらない。調べて出てこないから、多分ないのであろう。

さて、何のために「琉球ガラスの日」を設けようと思うのかというと、さほどの理由はない。
よく「月△日は、◯◯の日」というアイキャッチを見かけるが、それは、「その日に◯◯について想いを馳せよう」とか、「ちらっとでも思い出してみてください」ということが多い。
イベントも起こしやすい。
だから、琉球ガラス分野でも「琉球ガラスの日」を設定しておくのもよいのではないかと思うのだ。

たとえば。
先日は、私の住んでいる沖縄県糸満市の日があった。1月10日だった。
なぜ1月10日かというと、1(イ)月10(ト)日、ということである。
単なるダジャレなのだ。
しかも「マン」はどこかいってしまったが、不完全でも気にしない。

で、その「糸満の日」に具体的には何が催されたのかといえば、(今年は日曜にあたったので、その前日)糸満市内の学校・幼稚園・保育園が開放され、見学・応援ができるとのことだった。

せっかくなので、私は妻と子供を連れて近所の小中学校と幼稚園を見学しに行ってみた。
「お子さんが通学されてるんですか?」
と何度か尋ねられた。
べつに我々の子どもは通学していない。
我々は、「糸満の日」だから来たのである。

家内は、
「授業参観日、ってことなんじゃないの?」
と、我々一家だけ勘違いして来ている心配をしていたが、糸満市のチラシを見るとそういうわけでもなさそうなのだ。
「見学に来てください。そして、子供たちを励ましてあげてください」
というのが、市のコンセプトである。
私は、あえていうならば、反抗期の5歳の長男に「学校とはどういうところか」を見せてやりたかったという思いはあったが・・・

さて、話題を戻そう。
ダジャレでも瓢箪から駒で、上記の通り1月10日はちゃんと「糸満の日」として機能していた。
調べてみると、その調子で色々と「の日」はある。
予想どおりというべきか、7月8日は「那覇の日」だった。
7月5日は「名護の日」だ。
どちらもダジャレ路線で、「想いを馳せてもらう」のがテーマである。

では、「琉球ガラスの日」があるとすれば、何月何日になるだろう?

まずは、ダジャレでない方向で考えて「琉球ガラスができた日」というのはあるのだろうか?
そういう日は、・・・ずばり言って、ない。

1960年前後、牧港硝子工場に近所の米軍基地から洋風ガラス製品のオーダーがあり、琉球ガラスのスタイルの原形がやがて確立する。しかし、年月日などもちろん不明であり、そんなものがあったら逆におかしい。

その牧港硝子は、戦前のガラス工業をひきつぐ奥原硝子製造所から職人や技術が分派して設立された。その奥原硝子は、沖縄ガラス工業所というところが経営形態を変えてできた会社だ。
沖縄ガラス工業所は、十・十空襲で焼けた前田硝子工場の再開した工場である。
その前田硝子は、戦前沖縄にできたり消えたりしたと考えられる4つのガラス工場の1つである。

つまり、このように琉球ガラスやそれ以前の沖縄のガラス産業を担ってきた工場には、それぞれに設立年月日や操業開始の年月日があるであろう。
が、それらの日付さえも、なかなかはっきりしない。

沖縄で最初のガラス工場は、1909年(明治42年)の沖縄硝子製造所であるが、10月の設立というところまで分かるが日付は不明である。その親会社は2月の設立だ。
そしてそもそもの話、明治末期のスタイルはいわゆる「琉球ガラス」ではない。日本本土と同じ実用のガラス製品を作っていたし、経営者も職人も内地の人間だった。


ということは、「琉球ガラスの日」を考えるには、やはりダジャレ路線で行くべきか。

琉球ガラス・・・
リュウキュウガラス・・・
リュウ9ガラス・・・

・・・難しい。ダジャレが、あてにくい。

しかし、私は思い至った。

Ryukyu(リューキュウ)・Glass。
ジューキュウ・グラス。
ジューキュウ・クガツ。
19・9月。

「9月19日は、琉球ガラスの日」

で、・・・・・・よいのではなかろうか!?

(みなさまはどう思われますか? ご意見賜りたく存じます・・・)

ちなみにの話、2016年の9月19日は9月第3月曜日にあたるため、たまたま「敬老の日」と重なります。
オジィとオバァに感謝を込めて、琉球ガラスを贈ってはいかがでしょうか?
という感じでいかがでしょうか。


 (Website Memoページより転載)

2016年1月22日金曜日

『思い出のマーニー』 2015年にみたベスト映画

一週間前、アニメ映画『思い出のマーニー』が小さなニュースになった。アメリカで次々と映画賞にノミネートされ始めたからである。
2014年の公開作品が今頃ニュースになっているのは、海外での公開は2015年だったからだ。

→『思い出のマーニー』、「アニー賞」に続き「アカデミー賞」でもノミネート

この作品、日本での興行成績は35億円。普通に考えたら成功だが、ジブリ作品としては当たりとはいえない。ヤフーレビューは3.8点でぱっとせず、評判も大してよくもない。
私の周囲でもほとんど観た人がほとんどおらず、あまり話題に上らなかった。私もあまり興味を持っていなかった。

ところが。
何となくレンタル屋から借りてきたDVDを夜中に観て・・・私は唖然とした。
図らずも、いくども涙してしまったのである。
私にとって、久しぶりの名作だった。完全に意表をつかれたかたちだ。なんという傑作アニメーションだろうか、と呆然とした。

あの『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』もさることながら、『ゼロ・グラビティ』『GODDILA』『ジュラシック・ワールド』などの傑作・大作・話題作を昨2015年にはみたけれど、『思い出のマーニー』は、それらを差し置いて、私の心にもっとも強烈な好印象を残してくれた作品だった。
ついつい、DVDまで購入した。ふだんDVDなど買わないのに、わざわざアメリカから逆輸入してまで手に入れたのは、英語・フランス語バージョンも観てみたかったためである。

→「思い出のマーニー」劇場予告編


私はスタジオジブリのファンではない。が、『紅の豚』以降大方のジブリ作品を公開初日に観てきた。公開が近づくとソワソワ感に苛まれるのが、私にとってのジブリ作品だ(ただし、2013年『風立ちぬ』だけは最悪最低の印象が残っている)。

この『思い出のマーニー』は、巨匠・宮崎駿監督ではなく、若手の米林宏昌監督の手によって作られた。原作は1960年代にイギリスでヒットした青少年文学作品「When Marnie Was There」とのこと。アニメーションでは舞台を北海道道東に置き換えてある。
美しい湿地帯の風景、悲しくも愛らしい二人の少女、心の痛み、情感ある建物、海、雲、森、陽の光、風・・・・・・
話の構成はわりとシンプルなのに、テンポもいいし、非常に絵が美しい。物語の謎と不気味さが美しい景色とあいまって、わくわくさせてくれる。
(いや、観ていない方は、こうした雑多な前情報を入れずに、ただただまず観てもらいたい。純粋な映画は、観るほうも純粋な状態でのぞんだほうがよい。)

だが本作、日本国内では、日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞ひとつしか、受賞しなかったらしい。
やはり「いい作品」ながら、広く一般受けする作品ではなかったということだろう。
しかしそもそも芸術作品というのは、万人や群衆のためにあるのではない。
結局のところどんな作品も、必ずや個々人の心や頭脳に働きかけるもの。そういった意味で、あらゆる作品には、絶対的な価値も評価もない。

とはいえ、作品にはレベルのよしあしがある。レベルの高いものは、ある感性には熱烈に受け入れられる。

そこで興味本位でおもむろにネットで色々調べてみると、やはり多くの人が評価している。他方、全然共感せずに酷評しているレビューも一定量ある。
では、海外での評判はどうなのか。Youtubeには、コアな映画ファンが何分間も感想を話す動画がアップされていた。アメリカ人の動画の中でも、比較的はやい時期に、熱烈かつ的を射たレビューが出た。こちらの2つをリンクしておきたい。

→「When Marnie Was There」 レビュー/ Chris Stuckmann氏

→「When Marnie Was There」 レビュー/Jay Vaters氏

「ずーっとこのまま観てたい、って思ったよ」という感想は、私もまさに見ながら感じたし、私の妻も同じ言葉を口にした。だから、外国人も同じことを思うのだなぁと嬉しかったけれど、逆に、日本人でそう感じない人が多いのだから、やはり作品は、個々人が評価するものなのだ・・・

次の動画は、アメリカの映画人のタマゴ2人が感想を述べあっている。低評価と高評価との対立が平行線を辿る。

→「When Marnie Was There」 レビュー/ Le氏 & Dixon氏

『思い出のマーニー』の評価の分かれ方が、日本人とまるっきり同じである点が面白い。やはり国籍や文化の違いではないのである。



ところで、私は「評論」とか「批評」というジャンルの文章をあまり信用していない。

まず、日本における「批評」分野を造ったといわれる小林秀雄が、好きになれない。
小林秀雄は、かつて日本を代表する知識人であり、デカルトについても詳しいから、デカルト好きの私なら小林秀雄が好きでもおかしくはないのだが、私が読むと、小林の文章は「それっぽい」のに「胡散臭い」のである。

そして、小林秀雄のつくったその流れの延長線上にある日本の批評ジャンルは、やはりイイカゲンな文章に満ちている。
プロの評論家の文章でも、もやもやすることが実に多い。

たとえば。
ジブリの月間小冊子『熱風』に、以前、『思い出のマーニー』特集が組まれた。
『熱風』は歯に衣着せぬ読み物なので、宣伝的な特集にも関わらず、賛否両論の批評が寄せられていた。正直な文章で、しかも批評家や映画人といったプロたちが書いたものなら、当然おもしろいはずだ。が、――これがまったく面白くなかったのだ。

批評家の何人かは、ディズニーの『アナと雪の女王』と同様「ガール・ミーツ・ガール」の話である云々と論じ、悦に入っていた。ばかばかしい。女の子が2人出てくるというだけじゃないか。
あの岩井俊二監督でさえも、枝葉末節についての鈍い感想しか書けていなかった。
唯一、『思い出のマーニー』で音楽を担当した村松崇継氏が、面白く読める文章を書いていたが、・・・
特集でこれだけの内容しか出てこないことに、私はがっかりというよりも、驚いた。素人の私のほうが、深い内容を書けそうだとさえ思った。

それと比べると、Youtube上の『思い出のマーニー』の評論には、まっとうなものがあって聴けた。

→宇多丸「思い出のマーニー」レビュー

感じる人にだけ届く、それがこの作品なのだから、もちろんそれで十分。
なのだけれど・・・米国でアニー賞やアカデミー賞の受賞なるかどうか、気になってしまう。やはり日本人は自国の類稀な優秀作品を十分に自己評価する能力に欠けることが今回もあかるみに出てしまうのか否か。結果をみたい。

ついでにいえば、ジブリの『思い出のマーニー』の宣伝はいつになく、よくなかった。
キャッチコピー「あなたのことが大すき。」・・・う~む、、どういう映画なのか、ピンとこない。第2弾のキャッチコピー「ジブリの涙。」・・・これは酷い。涙は観客の主観に委ねるべきもので、制作側から断言されるべきものではない。付属のコピー「あの入江で、わたしはあなたを待っている。永久に――」もインパクトが弱い。
ポスターの絵は2種類。1枚目はマーニーが後ろ手にこちらをみているラフスケッチだが、これが美しくなかった。マイナス効果だろう。
2枚目は2人の主人公が浅瀬に立ち背中を寄せ合っていて、これは魅力的なポスターだった。ただし、本編にこういうシーンはないし、北海道の海というよりも沖縄の海辺に見えたわけだが・・・


まあどうあれ、『思い出のマーニー』は、ひとことで評論家風にいうならば、「許容」が主テーマの物語である。受け入れるべきものを受け入れていないことが私(私たち)の生活には、たしかに多すぎる。

素人の私が、批判ばかりでは能がないので、意味もないことだがキャッチコピーを考えてみた。
「あなたのすべてを受け入れたい。 秘密も、謎も。 永久に――」




2016年1月4日月曜日

今日はルイ・ブライユの誕生日!

本日1月4日は、かのルイ・ブライユの誕生日。
現代日本の小学生の多くが知っていて、ほとんどの大人が知らないといわれる偉人です。
1809年の1月4日、つまり207年前の今日、彼はフランスに生まれました。

ルイ・ブライユは、――点字の発明者なのです。

20日ほど前のことですが、昨年12月中旬に、ポプラ社から彼の伝記マンガ本が発刊されました。

 →コミック版 世界の伝記 『ルイ・ブライユ』 (迎夏生・漫画、金子昭・監修)

パリの東にある村に生まれたブライユは、3歳の時のケガが原因で5歳で両目を失明してしまいます。
やがて盲学校に入った彼は、バルビエという軍人が持ち込んだ12点点字を独自に改良し、アルファベット6点点字を作り上げました。わずか15歳の時のことです。
研究を重ね、のちにに楽譜用の点字や数点字を開発したりしますが、ブライユの作った点字は世界中の国々で使用されるようになりました。ちなみに英語で点字のことをブレイルというのは、彼の名前の英語読みからきています。

ところで、なぜ大人も知らないブライユのことを小学生の多くが知っているのかというと、今の国語の教科書に載っているのだそうです。
それゆえ、なんと「小学生がネットで検索する人名」の堂々第1位!(織田信長をついに抜いて)・・・ と、そんな記事もありましたのでリンクしておきます。
 →【話題】大人は知らない「ルイ・ブライユ」、生い立ちや年表に検索が集まる理由とは
 →東大生も知らない小学生検索ワード1位の「ルイ・ブライユ」って知ってる?


今回のコミック版 世界の伝記 『ルイ・ブライユ』は、おそらく史上初の、ブライユの本格的な伝記マンガと思われます(短いものはありました)
本当によく描かれていて、大人にも感動をくれます。
私は以前から点字やルイ・ブライユに興味がありましたので、読んでいて何度か涙があふれました。(これは新しい名作伝記マンガの誕生だ・・)と思いました。
のみならず、じわじわと日本の点字文化全体を変えていく力を持っている本だと、お世辞抜きにそう思います。
ぜひ多くの方々にお手にとってご覧いただきたいです。




(じつは、この伝記漫画の巻末資料に、私が2010年に撮影してきたブライユの生家の写真をいくつか使っていただきました。私がしたことはそれだけですが、このような素晴らしい本に少しでも関わることができて、・・・心から嬉しく誇らしく感じております!)