2016年6月11日土曜日

ブログ表現を模索しつつ

ブログの表現というのは、つくづく難しい。

話題がなければ間があくのだ。
が、一口に話題と言っても、どうでもいい日常の些事から誰かのためになりそうな情報、重々しい私的思索までいろいろある。どうでもいい話ならいくらでも書けるが、そんな文章では、書き手にも読む側にも時間と労力の無駄というものである。

ブログは、料理なら料理、科学なら科学、工作なら工作、文学なら文学というふうに、話題の分野を特定すれば本当は一番わかりよいのである。
だが、ここはそういうブログではない。テーマは私が勝手に決め、一私人としての私がいろいろ考えて書くべき場と決めてある。しかしだからといって、自己顕示が目的というわけでもないのである。
自分のことを何でもかんでも公表するのは問題だし、読む側だって退屈だろう。

結局、ツイッターなどは私には馴染まなかった。俳句・短歌が短すぎると感じるのと同じで、情報としても表現としても短すぎる。
SNSは、フェイスブックもミクシィも10年くらいは一応参加している。けれど、これも肌にぴたりとこない。SNSは便利な面はあるがあまりに直接に自己顕示的で、そして人間関係に奇妙な複雑性を与える。
ツイッターもSNSもジャンク情報だらけ、というのが素直な感想だ。けれど、載せられた情報がジャンクか否かは各々の利用者が決めることであって、SNSから国際政治が動くことだってあるし、ツイッターで大儲けする人もいっぱいいるくらいだから、ただ私に使いこなすだけの能力がないだけの話でもあるのだろう。


さっき自分のことを何でもかんでも公表するのは問題だと言ったが、情報を出す側がコントロールしなければならないことはネット時代にはごくノーマルなスタンスである。
コントロールは必然であるが、かといって情報を出し渋りすぎれば、表現は無意味なものと成り果てる。
たとえ宣伝をかねていても、いいところばかり見せようとすれば、キザになったり優等生じみたりして鼻につく。生身の人間と一緒のことである。
要するに、一にも二にもバランス感覚が大切なのである。ここもなかなか難しい。

試しに自分が最近、何をしているかを書くとする。
そうすれば、友人知人が私の近況を類推できるかもしれない。

例えば昨日(2016年6月10日)は、『90分でわかる デカルト』(ポール・ストラザーン著、1997)というライトな哲学者紹介本を12年ぶりに再読した。
夜は、2006年のアニメ映画『パプリカ』をDVDで観た。これは2007年のDVDリリース日当日、仕事をズル休みしてまで心待ちにして観た作品で、私には思い出深い。内容は、他人の夢に入り込んで不安神経症を治すセラピストが夢から抜け出られなくなるという冒険ミステリーで、描写が非常に異常で面白いし、ヒロインがとにかく可愛い。原作は筒井康隆。今敏監督がその後急逝してしまったのがつくづく残念だ。今回の9年ぶりの再鑑賞は当時と違う楽しみ方ができた。

・・・といった具合に作品鑑賞のメモを書けば、友人知人は(これは自分も読んでみよう観てみよう)、などと思うかもしれない。思わないかもしれない。
ただこれだと他者の作品を受動しただけなので、そもそも私が自分で表現する必要性が少ない。評判をユーザーが知りたいのなら、Yahoo!レビューかアマゾンのレビューをみれば済む。

ということで、私の胸の内を通した内容、例えば昨今のニュースに思ったことを書いてみる。

最近のニュースには本当にロクな物がないが、そのなかで唯一朗報に属するはずのニュースに、一番ガックリきてしまった。原子番号113番目の元素の命名権を理研が得て、「ニホニウム」と名付けて悦に入っているあのニュースだ。
素晴らしい研究をしたのはわかるけれど、それだって研究競争の僅差で勝ち取った命名権でしかない。「ニホニウム」。このネーミングセンスのなさ、工夫のなさに、私は虚しささえ覚えた。
面白みもひねりもなければ、メッセージ性もない。あるのはナショナリズムのみである。安倍首相はもろ手を挙げて喜んでいるかもしれない。
福島にエールを送るとか、原発事故で失った科学への信頼を回復する云々という理由付けをしているが、全然「ニホニウム」の理由付けになっていない。それなら「フクシミウム」にすればよいではないか。日本の若者に勇気を与えるなら「スペシウム」でもいいし、「ユメニウム」でも「ウレシウム」でも「ガンバリウム」でもいい。ルール上、科学者名や地名にこだわらなくてもいいのだから。
瞬時に消える性質なら「マボロシウム」でもよかろう。覚えやすい。
「ニホニウム」で喜ぶのは、日本人で、かつごく一部の国粋主義的な人だけだろう。ゲルマニウムもそうだが、純粋科学が愛国心表現の場になっている光景にはただ溜息が出る。有名人の名前も白々しい。アインスタイニウムなんて、何が面白いのか? 元素名なのだ。素直に「それっぽい名前」を付けてやれないのだろうか? 星の数ほどは元素は存在しないのだ。
まぁ、べつにただのネーミングだから本質にかかわる話ではないし、ましてや私にはまったく関係のないことなのではあるが。

・・・といった具合にニュースの感想を書いたところで、、これは誰の役にもたちそうにない。
友人知人が(ふーん、君はそう思うんだね)と思う程度のことであろう。


しかし、私の日常には、まだいろいろ他にも行動や出来事がある。
たとえば別の研究課題や問題についての他者との話合いがあったり、まだ誰にも公表できない面白い研究があったり、自身の仕事と生活とに独自の方法論を当てはめて進もうと四苦八苦していたり、子供らに独特の教育を試みたり、家族で他愛もないドライブにでかけたり、無駄な時間を過ごしたり・・・ 
つまり人並みに、いろいろあるのだ。

が、これらの中には書いてはいけないこともあるし、書いて意味がないこともたくさんある。
――こんな当たり前のことを書くのも、時間と労力の無駄に近いのだが、ここで申し述べておきたいのは、このブログではしばらく、内容と表現の模索が続くであろうことである。
ありきたりだが、読書メモや映画鑑賞メモやプチ旅行記などを書けば、いちばん友人知人には無害かつ有用なのかもしれない。
・・・しかしこれだと、ツイッターやSNSとほとんど同じようなものとなってしまいかねない。
模索していくしかない。


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