2014年9月26日金曜日

学術の根本的な虚しさについて

15年ほど前のほんのごくちょっとした記憶が、コーヒーカップについた渋のように胸に残っている。

私は元来モテないタイプの男ではあるが、大学時代、付き合ってくれていた女の子とはよく商店街のミスタードーナツで待ち合わせをしたものだ。
ある日店に入ると、まだ彼女はいなかった。かわりに高校時代の同級生2人がいるのを見た。目が合って、「おお!」などと声を掛け合い、しばらく同席した。友人の友人程度の間柄だった。

「大学は何学部?」
専攻を聞かれたので「農学部ですよ」と答えると、その2人はなぜか大いに反応した。
「農学部! 理系じゃん。農学部ってさ、どんなこと勉強するの? 全然想像がつかない」
「ぼくの専攻は、一応、田んぼなんだけど」
「田んぼ!?」
2人は目を大きくして笑った。

「田んぼって…田んぼの何を?」
もうひとりが笑って言う。「アメンボとか? カエルとか?」
「ドジョウとか?」
「まぁ、そういうことも含めてね」と私は応じた。
「そういうことも含めて?!」
実際、まんざら外れてもいなかった。私は水田のタイプごとの生態系の違いを調べるために、さまざまな田んぼを駆けて虫網を振り回しながら動植物を追ったりもしていた。

2人は声をあげて笑いながら、こう訊いた。
「ホント? それって遊びじゃないの?」
「それ研究してさ、何か意味ってあるの?」

彼らは農学部を侮辱していたわけではないと思うが、私はその時、決定的な価値観の違いを見せつけられて驚いた。
その2人は、経済学部と商学部だった。
私はその時、内心では(経済学こそ、ほとんど無意味なんじゃないのか?)と思っていたからだ。

私は当時、こういう考えを持っていた。――経済は人間社会に自然発生するシステムで、何度壊れても人間社会があるかぎり再生するものだし、長い生物史を鑑みれば、ほとんどどうでもいいことである。それを学問として追求したところで大した意味はなく、役立てようと思っても当たるも八卦当たらぬも八卦程度だろう。ましてや誰が大富豪になって誰が大損をしたとかいうそんな話ならば、ゴシップ記事と同じである。
それに対して、生物や環境を研究することは自然を知ることのひとつで、すなわち絶対不変の世界の真理に近づくことであるから、人類にとって非常に大切で有益なことなのだ、と。


これは、単純にいえば理系重視か文系重視かという価値観の問題である。
個人個人は、その人にとって、より重要だと思う分野へと進むことだろう。

だが今では私はこう思っている。人はそれぞれ、文系-理系を縦横無尽に行き交うべきである。マルチに生きたほうが豊かである。単純でない世界を曲がりなりにも捉えて生きようとするならば、様々な視座が必要になるからだ。


さて、そもそも「意味がある」とはどういうことか。
意味論、認識論の分野であろうが、私は私なりに考えてみる。

まず「意味」ということの意味は、「ほんとうの真理」とか「そうなる理由」ではなく、「脈絡による裏付け」としておく。言葉の内容を分析的に認識することは、また別の言葉の意味につながり、それは脈々と続けられうるからである。(「ほんとうの真理」や「理由」を人はふつうそこに求めている。)


アインシュタインが2つの相対性理論を確立して、なぜ褒め称えられるのか。
ゲーテの言葉は時を経ても無数に引用され、なぜ褒め称えられるのか。

世間では、アインシュタインの仕事にもゲーテの仕事にも、つまりは大いに「意味があった」として讃えられている。
「彼らの仕事の価値が、社会に広く長く続いている」とも、大体言い換えられる。

アインシュタインの仕事と、ゲーテの仕事を、どちらが価値があるか考えてみる。
理系の仕事、文系の仕事、どちらが素晴らしいのか。
おそらく大体、理系の仕事をしている人々はアインシュタインを、文系の仕事をしている人々はゲーテをより評価するだろう。
しかし私はマルチに捉えて評価を下したい。

理系は自然真理を追求する。
文系は人間真理を追求する。
人間真理は物理的存在としては自然真理に内包されるが、主体的存在としては逆に、人間真理が自然真理を内包する。
これは世界-主体の関係の問題だ。(世界が私を作り、私が世界を作る)

相対性理論はアインシュタインが発見しなくても真理であるかぎり、誰かが発見したであろう。
それだと、別にアインシュタインはいてもいなくてもよかったということになる。(奇妙な思考実験だが、人類に先んじた科学文明をもつ宇宙人が渡来して交流があれば、これまで人類が蓄えた科学的知識の発見者名はやがて無価値になるだろう。)
自然真理の発見については、万事これと同じことがいえる。つまり、自然真理の発見事項に、発見者本人の存在は人々が称賛するほどの意味はない。
アインシュタインの仕事の価値はそんな程度のものだ。

文学はどうか。
文学は、人間の心理に働きかける。人間の心理はその人それぞれの時代背景に基づく生活環境に根ざす。そこから外れれば外れるほど、伝わり方が歪んでくる。
時代を経れば、生活環境はどんどん変わるだろう。古典を読むと、取り出せるものが少なくなってくる。真理に近いことが書かれていれば評価は倍増するが、現代人が変だと思うことも目につくようになる。
人間は、どんどんこれからも変わるのである。社会も変わるし、人の体も心も変わってしまう。
ちなみに700万年前くらいに人類はチンパンジーと別れたそうだから、700万年も経てば我々は別の生物種になっていることだろう。
ということは、文学にしても絵画にしても、文系の仕事というものは後世になればいつか価値は失われるであろう。そして、新しい傑作の方に、価値は次々置き換わっていくはずだ。
ゲーテの仕事の価値というのは、そんな程度のものなのだ。


明確な答えを出そう。
どの学術分野でもその価値は虚しいものであるというのが、私の考察結果だ。
この考察結果に、パスカル『パンセ』に似た清純かつ虚しい感覚を自分では覚える。

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