2015年1月6日火曜日

“抜け感”試論

昨年放送されたNHKの番組に、「ニッポン戦後サブカルチャー史」という面白いシリーズがあった。
http://www.nhk.or.jp/subculture/lect_list.html

私は録画した分を昨年の11月頃に見た。戦後の大衆文化を時系列で紹介して分析的に解説する番組で、テレビやアニメや歌や劇やゲーム、漫画や服飾や本や言葉など、一言でいえば時代時代の「流行りモノ」ばかりを集め、時事問題と併せて紹介してくれる番組だった。講師は、劇作家・演出家の宮沢章夫である。
その中で、1980年代の広告・コピーがテーマにあげられた回で、私は思わずハッとさせられたことがある。

80年代というとバブル期の末にあたり、2010年代を生きる我々が振り返ると、にぎやかで絢爛で楽しげでありながら、表層的な危うさと嘘くささの漂う、幻想的な一時代に思える。日本では物的な豊かさが過飽和状態となり、大衆によるブランド志向と大量生産・大量消費がピークに達し、それにともなって広告業界が隆盛を極め、5兆円規模にまで膨れていた。
すなわち、商品を売るためのキャッチコピーやテレビCMが、大いに話題になり流行をうみ、消費社会を牽引していた。

さて、そういったコピーやCMが評価されるものほど、あるいは効果的なものほど、宣伝的でないのだという。
宣伝性の低い宣伝ほど宣伝効果がある。…不思議だが、それはひとつの真理でもあった。
どういうことかというと、たとえば。
デパートの宣伝をする広告で、デパートとまったく関係のない事柄が、刺激的な言葉と写真で表現される。
商品を宣伝するためのCMに、商品とは関係のないギャグが放送される。商品説明はない。

こうした評判のCMやポスターを作っていた人々には、カリスマ的な才人が何人もいた。

有名広告プロデューサー・川崎徹氏は、次のようなことを話していた。
「多くの広告が、必要なこと・言いたいことだけ一方的に主張して、惨敗する」
「“抜く”ということが広告ではとても大事です。つまり、本命である宣伝説明を、あえて抜いて無価値化することで、逆に広告の効率をあげる」
そうしてできた“抜け感”のある「完全にムダな」広告こそが、成功する広告なのだという。

有名コピーライター・糸井重里氏。筑紫哲也と交わした雑誌の対談が引用されていた。
この対談は結局、宣伝広告が意味や価値のあるものたりうるのかどうか、という議論であろう。
筑紫 「根源的でダサい質問だけれど、コピーは思想を語れますか?」
糸井 「いや、逆に質問しますと、世の中に思想を含んでいないものが何かありますか? この灰皿ひとつとっても――」


これらを聴いた私は衝撃を受けた。

私が商品説明を作ると、1から100まで説明したくなる。
ポスターを作れば、必要十分に伝えるべきを描きたくなる。
お客様に細かく丁寧に説明しなければ不親切だと、そう思うからおのずとそうなる。
しかし、結果的になぜかポスターはダサく、冴えない仕上がりになってしまう。
“抜け感”という一語に、私は、いつも自分が悩んでいる自分が作るものの“ダサさ”の理由の一端をつかんだ気がした。これこそが“アカ抜ける”ための工夫のひとつなのだと思う。

以上のことを、妻に勇んで話した。すると、こんな返答だった。
「ホント、世間ではよく聞く言葉だよね。“抜け感”とか“着こなし感”とか、ファッション雑誌では他に何か言えないの?っていうくらい」
そ、そんなによく使われている言葉なのか、“抜け感”が…
私は出遅れた感をあじわった。


以来、“抜け感”についていろいろ考えた。

少し似たような考え方が、レイアウトデザインの分野にもある。「ホワイトスペース」のことだ。
なにもない空間を、あえてレイアウトに取り入れる手法である。画面に情報をぎゅうぎゅうに詰め込むと、可読性も下がるし、ダサくなる。
この「ホワイトスペース」は、ヨーロッパの人々が日本の浮世絵から学んだものだと解説されることがある。
けれど、私は本当にそうなのかな、と疑問に思っている。19世紀イギリスの水彩風景画家ターナーの絵にある広い空。18世紀オランダの画家フェルメールによる肖像画にある背景の漆黒。
(宋の時代(960~1279)の水墨画、そこから学んだ室町後期の雪舟…)

そもそも、われわれが生きる現実世界の構成も、そうなっている。
風景は、空というホワイトスペースを含んでいる。机の上も、乗せてあるもの以外は広い背景だ。
話の上手な人は、ときどき「間」をとる。そうして、相手にしばし考えるための余裕を与える。

けれども、雑誌や本などのレイアウトデザインで「ホワイトスペース」を作るには、やはりあえて意識しなければ難しい。
限られた紙面で、情報を必要十分に伝えねばならない。それなのに、情報皆無の空間をあっちにもこっちにも作るのは、ひとつの矛盾であろう。デザイン性を上げるために、広すぎる空白を作ることさえあるが、内心は、載せたいのに載せない感性の板ばさみに苛まれている。
何のためのムダな空白?
きっと「ホワイトスペース」は、“抜け感”をつくるためにあるのだ。


2015年、正月。
私は今年、じぶんの生き方にも“抜け感”を応用してみることにした。
“抜け感”のある生活を目指そう。

どんなことを考えているかというと、
(1) 大切なポイント(目標)は、外さない。
(2) しかしそれ以外は、あえて外す。ムダを多くして、意味や価値を削る。

この「あえて外す」ことが、“抜け感”装置だ。
普通は、「これを頑張ります。他のことも、できるだけ全部がんばります」となるだろう。
それを、「これはがんばります。ほかは頑張りません!」とする。
この工夫で、私は2015年を面白くしたい。


ところで、そもそもなぜ“抜け感”が、“かっこよさ”の要因になりうるのか?

余計な力みをなくして、自然体で表現を発動する。力を“抜く”。
それはわかる。
(職人でも経営者でも俳優でも、実力ある人間は、変な力は入れずに柔軟な動き方をする。太極拳の達人が、気の流れをスムーズに保つように。)
しかし、宣伝広告で、宣伝すべき事柄を伝えすぎてはいけない、どころか、ぜんぜん宣伝と関係のないムダこそがよい(そして実際にその方が宣伝効果がある)のは、一体全体どういう理屈でそうなるのだろう?

私は、ぼんやりと2ヶ月間、そのことを頭の隅で考えていた。
そして、はたと気がついたのだった。

CMやポスターで、本来の広告側の目的である「紹介」や「説明」を十分に展開したとする。
それはしかし、不特定多数の他者への、いわば「挨拶なしの押しつけ情報」なのである。毒のある言い方をすれば、発信者による「押し売り」なのだ。見せられているほうも気づいていないことが多いけれど。
受けとる側のわれわれは、広告主の意図とは別のことを考えながら生活を送っている。
そこに唐突な「挨拶なしの押しつけ情報」が来れば、当然、心には温度差が生じているはずだ。

そうではなく、「ただの面白いなにか」であったなら、どうか。
自然と目はそちらを向く。
我々の生活を楽しませてくれる情報。それはほんのちょっとだけ面白ければ十分で、無意味であっても構わない。
いや、むしろ無意味なほうがよい。
我々は、疲れているのだから。

アピールする場で、あえてポイントをはずして見せ、そうやって油断させておいて、ポイントを射抜く。
“抜く”とは、畢竟、そういう演出なのだ。表面を削って余計なものを付着させて、スゴさを見えにくくしながら、気を引く仕事なのだ。
意味も内容もある、充実しているその表面を、あえて惜しげもなく崩す。乱す。壊す。消す。汚す。
ある意味では、水戸黄門が地位を隠して旅するのと同じ、一種の韜晦(とうかい)趣味。
隠されたスゴいことがチラ見されたとき、かえって本来以上に奥深くかっこよく見える。

しかしそこまで話を広げると、“イキ(粋)”かヤボかの美意識論にまでいってしまい、
「角帯を背筋でしめる野暮な奴」
(浴衣を着るのに、結び目を背のどまんなかにもってきたらイキじゃないよ)
などといった川柳を切り口に、イキとは何か、何がカッコ悪いとか、そんな美学を繰り広げたりして、深いのか浅いのか、もはや何の話をしているのか、わけが分からなくなりそうだ。
少なくとも、野暮な性格の私が語れる領域ではない。

それでも“抜け感”だの“イキ”だのの話で、なんとなく行き着くイメージ。
それはたとえば、正装で決めてぐいぐい自己アピールしてくるギラギラ男よりも、おしゃれ着を着崩してリラックスした様子でぶらり浜辺を歩いている男のほうに、たぶん都会の女はぐっと興味を抱くはずだという、そんな空想の光景だ。

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