2015年8月3日月曜日

小型ノートパソコンを買った

アナログ文具もデジタル機器も、自由自在に使いこなす。しかも家の内外・世界中どこでも。
――そんな道具の使い方が、いちおう私の理想としてある。

昨日、あたらしいパソコンが届いた。
ネットで購入した11インチちょっとの小型ぎみノートPC。容量は小さいが水色のグラデーションが美しく、価格も2万8千円弱と格安だった。
Windows8.1が入っているが、4日ほど前にWindows10が公開されたから、そのうちに無料アップデートするつもりだ。
本日の午前中に、ワイヤレス・マウスも届いた。

……こうして、新しい機器にわくわくしながら、そのわくわくに任せてこの文章を書いている。
もちろん、使い勝手を試しながら。

半ば衝動買いしたパソコンだが、妻は「そんなに安いの大丈夫?」と怪訝そうだった。
これまで我々は、だいたいはDELL製のパソコンにしていて値段も安く品質も良かった。しかし最後に妻が買ったDELLノートパソコンが酷かったのだ。値段はそこそこ安かったが、デザイン・使い勝手ともまさに低級だったらしい。

今回のこのパソコンは、私にとっては初めてのヒューレット・パッカード製、初めての小型ノート、初めてのSSD(HDDでない)パソコンである。
レヴュー通り、今のところとてもよい。ネットは多少遅いけれど、文章作成や表計算ソフトを使用するために揃えたのだから別にそれはいいのだ。

このパソコン、常用するパソコンとしては3台目に位置づけている。
自室にはネットサーフ・メール送受信・ウェブづくりに使用するノートPCがあり、その横に画像加工・画像描画に使用するデスクトップPCがある。前者は座って、後者は立って使用している。動かしたりはしない。
新しい3台目を使って、ずっと夢であったノマド(放牧民)的なやり方をしたいと考えている。

じつは以前、文章を書くためにポケットサイズのワープロ専用機「ポメラ」を使っていた。
折り畳み式キーボードを開けて、小さな画面を見ながら文章を入力し、あとでパソコンにデータを移す。家でもカフェでも、どこでも簡単にポケットから取り出してテキスト文章を打てるのが便利だしカッコいい。立ち上がりもパソコンよりずっと速かった。
が、この評判のキングジム製機器が、じつのところ非常に良くなかった。

まず、入っているATOK日本語入力ソフトの変換能力が悪かった。しかも、キー入力が文節ごとにわずかに遅れ、タイムラグが生じた。これは恒常的なストレスになった。
そのうちに、外表面のラバーがベタベタしてきて、触るたびにあちこち周辺にも黒いゴムのベタベタを付着することとなった。あっという間に、加水分解してきてしまったのだ。

結局、発売開始と同時に購入した待望の「ポメラ」はすぐにしまい込み、ときどき出してはティッシュで拭き、やはりダメだと溜息をつくことを繰り返した。だいぶ後になって「やはりこの商品はおかしい! 安くなかったのに」と怒りが沸騰してメーカーに苦情を入れ、すったもんだはあったが、結局中古品の同機と交換してもらった。
そのポメラも、3か月ほどでキーボード部分の接続が擦れて、自然に壊れてしまったのだった。

私は、ポメラの性能が良ければそれが欲しかった。製品のコンセプトは素晴らしい。だが現実がこの有様で話にならない。
いろいろ考えて、小型ノートパソコンにしようと決めた。
大きめの電機屋さんを2か所回った。現物を見て買いたかったからだが、価格が高く、その割にこれぞという品がない。
対して、ネットショッピングは快適だった。こうして現物を確認もせずに、レヴューを参考にしながら買って、いい物が手に入ってしまうのだから。


私はパソコンを3台の他に、タブレットも使う。
ただし、携帯電話はスマホでなく毎月額の安いPHSだ。メール機能は使用せず、電話機としてのみ使用している。友人からメールが入ってしまっても、メールは返さずすぐに電話をかける。
普通のノートとペンもたくさん使う。私的な思索は紙のノートでなければならない。
他にも予定帳や日記などは当然紙で、長年同じジェルインクペンを使って書いている。

道具の使い方は、個人個人で決めるべきことだから、こうしたアナログ・デジタル入り混じった機器の使用に、個人的には満足している。

妻は、たとえば梅干しを作るのにまずスマホで作り方を調べ、ネットで九州梅を注文し、いちおう姑にも電話でコツを聞いたあと、昔ながらの竹ザルに懐かしい香りの梅やシソを干していた。
……このやり方は現代において何の不思議さもないはずなのに、私には、デジタルとアナログを、昔ながらの伝統と最新機器とを使いこなしているように見えて、嬉しくなる。


道具は道具であって、目的でなく手段である。デジタルもアナログも関係ない。使うのは人間であって、道具に使われてはならない。
……という意見は、道半ばな考え方であると思う。

方法も道具も、手段としての構造に組み込まれた時点で、いくつもの小目的を形成するからである。目的的行動は、必ず組織化して大小複数の別目的を生み、行動体系は複雑化する。特に大きな目的を達成する場合は、文字通り一筋縄ではいかない。
道具は行動を変え、新たな目的を次々と生み、大目的さえ変えかねないのである。たかが道具、されど道具なのだ。


私がなぜノマド的な道具使用に憧れるかというと、ひとつには自由への憧憬がある。場所を選ばず仕事ができる、好きなところで気ままに作業をこなせる。いわゆる「どこでもオフィス」には多くの人がほのかに憧れを持っている違いない。

もうひとつの理由は、部屋が狭いからなのだ。いま私は、数百の古い琉球ガラスを蒐集し、デカルト本も数多く集めている。管理の方法は色々と模索したが、結局、ツールストッカーと呼ばれる積み上げ可能な大型のプラスティックケースを用いている。それが数十個、6畳間を占拠する。ヨーロッパの古い教会の地下石棺室をイメージしていただければ、それに近いものがあるだろう。不気味で異様な光景だと我ながら思う。

研究を進めるには当然、現物を出さねばならないが、するとすぐに机周りがいっぱいになる。
先日、マントとずきんを被った姿で4歳の息子が入ってきて、ダース・ベイダーの声真似をしながら手にしていた棒をひと振りし、見事に琉球ガラスのコレクションをひとつ割った。
うちは広々とした一軒家ではない。狭々しいアパート暮らしなのである。
それでも、この条件下でなんとかかんとかやっていく他ない。

私の中に、もう一つの理想形がある。
明治期に日本を歩いた誰だったか外国人が、日本人の暮らしぶりはまるでおままごとのようだ、あるいは演劇の舞台を見ているようだと評したとどこかで聞いたことがある。ちゃぶ台を出して食器を並べ、食事がすんだら食器もちゃぶ台も方付け、そこで子供が遊び、婦人が洗濯物をたたみ、寝るときは布団を敷き、朝にはそれを畳んで仕舞う。ひとつの和室に、小ぶりで高質な調度品を出したり仕舞ったりして可愛らしく生活していた、ということだった。

この日本人の生活様式を、現代の自分の家でできたならば、とよく思う。
というよりも、必要に迫られてこの様式に近くなってきそうなのだが。

公共の世間に出て作業し、広い世界を見ながら仕事をし、家では小ぢんまりと工夫して上質な生活を営む。
ウチもソトも自分の空間となる。
……その理想的生活を体現するための、今回の小型ノートパソコン、と言ったら強引だろうか。

これから面白い生活になればと思う。



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