2016年2月6日土曜日

映画『天空の蜂』をみた

3日前がレンタル解禁日だった、2015年9月公開の邦画『天空の蜂』を借りてきて観た。
東野圭吾原作の、原発クライシス小説を完全映画化。非常に骨太で分厚かった小説の読後感想は、こちら← に書いたので今日は映画の感想を手短かに記すのみにしたい。

「映像化不可能といわれた衝撃作」とは、陳腐な宣伝文句だと思う。けれど、じっさいに、確かにその通りだったから、私は驚いた。じっくり映像で観られて、嬉しかった。
いろいろ原作とは人物設定やストーリー展開で細かな点がちがうものの、原発の存在を意識すべきといったポイントのシーンやセリフは、かなり原作に忠実で、「逃げない姿勢」が貫かれていた。

現実の我々の生活を振り返ってみていただきたい。
3.11以降、原発問題の報道については、マスコミの自主規制(タブー)や報道規制があからさまで、ひどいものがある。
このことは、ちょっとでも意識している人々は、みんな気がついている。「表現の自由も知る権利も保証されているはずの国なのに、気持ちの悪い世の中だ」と、多くの人は思い続けているであろう。
たとえば、原発に否定的な芸能人は干される。脱原発的な報道はフィルターにかけられてかなり薄められる。事実を伝える報道についても然り、である。
しかし、しかたがないのだ。社会の情報機関はバックでどこかで強力に原発組織とつながっているのだから。・・・というのが一般論だ。

この映画『天空の蜂』は、ところがどっこい、正面から原発クライシスをドカンと描いた。
松竹120周年の心意気を感じる。

小説と同じく、原発の根本的な問題を取り扱うことなどがテーマではないから、3.11以降の我々としては物足りない部分も多いのだけれど、それでも「よくぞここまで映画にしたものだ!」と唸らされた。まちがいなく、日本映画では稀に見る、本当に度胸のある映画だった。

正直に書くと、私は堤監督作品は苦手で、『TRICK』も『20世紀少年』もセンスに合わずがっかりさせられた記憶が強い。今回の『天空の蜂』でも、センス的にはいただけない部分が多々あったはあった。
登場人物の表情やキャラクターは奇異なことが多くあり、(こんな人いないだろう)と現実的でない気がしてしまう。状況設定もおかしいことがある。いつ落ちるとも知れない超巨大ヘリの下付近に、いつまでも子供や家族がうろちょろしていたりというのは、その典型例だ。

映画表現だから仕方がないということもある。
やたらと怒鳴りあうシーンがあり、流血シーン、暴力描写、残酷映像があり、・・・それがたまにチープなホラー映画に見えるほどだから、頭のなかでチューニングする必要がある。

東野圭吾の原作は、映画と趣向が真逆だった。極めて上品で、静かで理性に満ちている。
映画では犯人に残酷性があって人が何人も死ぬ。けれど、原作では誰も死なない。犯人は一般人や主人公たちよりもうわてで理性的で、残忍でない。登場人物たちは怒鳴りあったりしないし、本当にこの世で生活しているかのように自然に描かれる。

それでも、こちらの映画にも、小説を超える表現部分が散見されて嬉しかった。
カメラワークやレンズに仕掛けがあるのだろう、不思議な映像美があった。
どうしても日本映画のCGは合成っぽさが残るが、それでも超巨大ヘリは大きく不気味に見えた。
ドキドキはちゃんとあった。


2時間17分。
突っ込みどころはあるが、度胸のすわった、納得の一作である。
俳優陣は有名な人が多く演技もうまかった。ぜひとも原発推進の社会的圧力に屈せずに、これからも俳優として活躍し続けてほしいと切に願う。

とにかく、すごい映画だとオススメしたい。
けれどやはり一方では、2011年の3.11以降なのに、1995年の原作のままのテーマ(つまり、「原発を意識せよ」)のみが映画化されている点で、・・・すごいといっても"そこ止まり"感が否めないのだった。





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