2016年6月16日木曜日

読書メモ(20160615)

国家と「私」の行方』(松岡正剛、春秋社、2015)という2巻本のうち1巻めを読んだ。
副題に“18歳から考える/――セイゴオ先生が語る歴史的現在”とあって、内容をさらりといえば、知識人である著者が日本史を世界史に色濃く絡むものとしてわかりやすく組み直して語り、そこに文化的・思想的知識をからめつつ、日本人一個人のあり方を検討するというもの。素晴らしい本で大変勉強になる。

高校・大学生向けにかみくだいてあるので読みやすい文章ながら話は奥深い。もちろん所々単純化しすぎたり、感情論で書き進める部分があるのは否めないものの、少なくとも私の学生時代にこういう類の本はなかったと思う。極めてダイナミックな視点で、正直な歴史観で日本史と世界史を分かりやすく見据えてある。

2010年代は恵まれた時代で、こういった本はどんどん出てきている。
たとえば一昨日、赤嶺イオンの本屋で『最速で身につく世界史』という新書本をざっと立ち読みをした(角田陽一郎、アスコム、2015/“「24のキーワード」でまるわかり! ”の副題)。
こちらはテレビマンが書いた歴史読本で、同じように教科書・参考書では掴み取れない骨格を、よみやすく鮮やかに説明してみせてあった。


ところで、前者の松岡正剛氏は1970年代から影に日向に活躍し続けている編集者・執筆家で著書多数、日本の“発信する”タイプの知識人としてはトップの人物だ、と私は目している。他人と比較してはアレなのだが、池上彰や佐藤優や立花隆ほか日本を代表するといっても過言ではないような発信型知識人を思い描いてみても、彼らよりずっと上をいっていると私は思う。上をいっているのは何についてかというと、編集表現システムの構築、扱う分野の広範さ、読者対象の幅広さ、彼個人の人間表現としての自由度、発信メディアの活用度、自身の著作の多さ、知識人著名人との交友の多さ、成果としての社会的影響力などだ。これらは本当に物凄いことだと私は驚嘆している。

もちろんこれらの圧倒的要素には裏面もある。
編集表現システムの構築→引用過多となり、研究考察の土台部分を自身では作り得ないこと。
扱う分野の広範さ→話の筋がいつも散漫になる。
読者対象の幅広さ→話が単純化されがちになる。
彼個人の人間表現としての自由度の高さ→感情論になることもあり万人受けはしないし、ときにナルシシズム全開になる。
知識人著名人との交友の多さ→八方美人になり宣伝的になる。

結果これらは胡散臭い部分をも提示してしまっているだろう。
しかしそれでも、だ。この人の仕事は量・質・内容とも凄い。
なんといっても一読をお薦めするのは、濃厚なるブックガイド・ブログ『千夜千冊』である。もしご存じなければ、ぜひご自身の興味ある分野の項を試し読みしていただきたい。
1600回を超えた今も続くこの長大な図書案内ブログを、私は全読破にむけて挑戦しているけれど、今のテンポでは通読するだけで5年はかかりそうだ。なにせ理系文系を縦横無尽に渡り歩きながら、ひとつひとつの記事が長く重い。

松岡正剛についてちょっと不思議なのは、超有名人なのに私の友人にその名を知っている人が全然いないことだ。松岡氏は国内外の数多くの並ならぬ著名人たちと面識をもち、公的機関の企画も担当し、ベストセラーもロングセラーもいくつか執筆し、自分で作った編集学校の校長兼講師を勤めるとかで、当然ながら有名なのだ。かなりの著名人だからテレビにもたまに出る(この間はNHK「日曜美術館」のカラヴァッジョの解説にひょっこりゲストで出てきた)。それなのに、私の友人に松岡正剛の名を知っている人が全然いない。いつもこれは不思議におもう。

さっきの松岡正剛著『国家と「私」の行方』』の話に戻るが、この本では歴史理解の方法として「インタースコア」という編集術の姿勢を採用している。わかりにくいカタカナ語だが、これは彼独特の編集術の要で、「歴史や事件や現象や文化を、さまざまに比較投影しながら見るという方法」(25ページ)とのこと。私のイメージでは「個別情報同士に含まれる共通項での串刺し再編集」というような感じだ。
例をあげれば単純なことだが、たとえば江戸時代の成立を理解しようとするなら、日本で徳川江戸時代が始まった頃の、西洋ではなにがあったか、中国では、と見ていく。これをただの比較列挙で終わらせない。政治も文化もミクロとマクロを往復しながら見事に脈絡づけられ、史実の相互関連性への比重を大きくし、歴史を再編集する。
読むと(どうして高校や大学の日本史では誰もこうやって教えてくれなかったんだ!)と思うくらい説得力がある。
説明が「正直で直接的」なところが、今までの歴史解説と違う。
いくつか私がはっとした部分を以下に抜書きしてみるけれど、内容は、人口に膾炙した一般的な情報が述べられており、奇異なものはない。けれど、その切り口・語り口・解釈が確かに新しい。彼のいう「編集力」が効いている。

・西洋を後追いせざるを得なくなった明治日本の奮闘をざっとみてから、同じ19世紀頃のヨーロッパではどうだったのかをざっくり比較してその歴史を検討し、
「これでわかるように、イギリスもフランスも日本が真似るにはあまりにもスケールの大きい大工事・大博打をしているのです。明治日本とはスケールが桁ちがいですし、その野望もバカでかい。作戦も緻密です。このことは、すでに幕末にイギリス公使パークスやフランス公使ロッシュが、ほとんど一人で幕府と薩長を動かしていたことを見れば、よく実感できるだろうと思います。相手は一人、日本は100人、1000人です」(225ページ)

・なぜ黒船は日本に来たのか、ということを理解するのに、まず江戸末期の日本を眺めて、つぎにイギリス、フランス、ドイツ、ロシアの政情をみて、その影響からアメリカの動きの必然性をみて、アメリカの日本開国を迫る戦略があって、
「日本はあきらかに狙われたのです。」「日本の教科書にもそろそろそう書くべきです。」(234ページ)
とくる。
つづけて列強のアジア進出(アヘン戦争を皮切りに)や、黒船が半世紀にわたって何十回も来ていた情報などが説明される。

読めば、黒船到来が単に鯨油・水の調達やら通商やらといった理由だけで来たというような理解はまずできなくなる。ジョン万次郎が(私の住んでいる)沖縄南端に辿り着いたことも、大黒屋光太夫がラックスマンに送り届けられたことも(井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」に詳しい)、ただ「来たんだな~」などとはまず思えなくなるだろう。
ぜんぶ繋がってしまい、それは半ば歴史の必然と分かる。

だからといって、松岡正剛は運命論者ではないし歴史学者でもない。明治政府の日清・日露戦争に当然の流れのように進んでいく歴史を解説しながら、必然としておさめずにクエスチョンマークを残す。その論調が彼の魅力であり、新しさであり、正直さであり、あるいは危うさなのだ。


・・・なんだか読書メモが長くなりすぎた。
『国家と「私」の行方』と別の、もう一冊、テレビ番組構成作家の角田氏『最速で身につく世界史』も、自由な視座で歴史を語るのは、「現代史で今を語りにくいのは、未来を語らねばならないから」として、未来予測をいくつかつけていたりするところだろう。面白い。
彼の解説(の私のうろ覚え)によれば、いま世界中で右傾化や暴力的傾向が強くなっているのは、再帝国主義の時代が到来しているからなのである。やがて欧・米・ロ・中・イスラムという5つの帝国のどれの下につくのか、どの内部で国家を持続するのか、という選択を世界中が迫られるが、日本は(アメリカ帝国傘下にはいるが)ぼやぼやと無所属で一国いる。(この辺はハンチントン『文明の衝突』の類の焼き直しだろうけれど)

今日挙げた2冊とも、現代のネーション・ステイト(国民国家)の危うい現状、好戦性を捉えている。
そして、日本国の主体性の中途半端さ、なんとかここまできた素晴らしさ及び残念さ、さらに国民個人の非力さと希望とを教えてくれる。
もやもやしつつ本を閉じ、腕を組んで唸った次第である。

0 件のコメント:

コメントを投稿