2014年12月11日木曜日

アグリッパ的な、学問の虚しさについて

前回のブログは、題名だけみたならば、中世ヨーロッパで活躍した魔術師“ネッテスハイムのアグリッパ”が書いた『学問の不確実性と虚しさ』とかぶる。
『オカルト哲学について』で有名になったアグリッパは、それで追求されることを恐れて弁解のために『学問の不確実性と虚しさ』を書いたともいわれる。(16世紀やら17世紀のヨーロッパというのは恐ろしい。すぐに何やかやで火刑に処せられるんだからね!)

今のドイツ・ケルン近郊で生まれたアグリッパは放浪の魔術師であったが、医師でもあり、思想家でもあった。
ちょっと考えただけでも面白い人物である。
中公新社の『哲学の歴史』シリーズ〈別巻〉の小口に紹介されている、アグリッパの警句を見てみよう。

 「無学な者は昇り、天上に運ばれるが、
  われわれは、われわれの学知とともに地獄に沈むだろう」

大戦を繰り返したり、原発事故などを経験したわれわれからすれば、15~16世紀に生きた魔術師のこの言葉をきくと、ぞっとするほどそれらしい気がしてくるではないか。
学知を求めつづけるわれわれは、一体、結局、何が欲しくて、何がしたいのだろうか?

それにしても、彼の著作は部分的にしか邦訳がない。
『オカルト(隠秘)哲学について』の邦訳はないし、『学問の不確実性と虚しさ』の邦訳もない。
『女性の高貴さと卓越性について』もない。
ディレッタント(好事家)の私は、研究者諸氏に向かって叫びたい。「何をやっているんだ、日本の学者たちは!」と。

まぁ、…邦訳がない有名図書などゴマンとあるので、贅沢をいっても仕方がない。
だって、ディドロ・ダランベールの『百科全書』も全部は邦訳されていないのだから。
とはいえ、日本国の翻訳図書の規模は世界でも第一級といわれ、なんでも英語圏に勝るとも劣らないと聞いたことがある。遣隋使の昔から、海外の書物に異様な憧憬を持ち続けてきた島国だからこそ、プリニウスの『博物誌』だって、アリストテレス全集だって、日本語で読めるのだ。そうした事実の裏側には、書斎にこもり黙々と翻訳作業に人生を注ぎ込んだ静かなる情熱人たちの超人的な努力と才能が隠れている。


さて、前回のブログ「学術の根本的な虚しさ」で書いた意見に、やはりちょっとだけ追記しておきたい。

学問が文系にせよ理系にせよ、虚しいにせよそうでないにせよ、要するに学問的な業績というのは、世の中への「影響の程度」がその実体である。だが、我々の持つ価値観は1つ2つではないから、「影響の程度」というものが多様化・重層化し、ややこしいことになる。

まず学問や芸術作品にとって、いちばん大事なのはその「内容」だ。
けれど、「内容」をこしらえた具体的な媒体(作品、書物、言い伝えなど)があり、それを作った人物がいて、その人物が「内容」をこしらえるに至ったエピソードがある。すると、それぞれが「内容」と不可分に成立したがために、それぞれが「内容」と関連づけて尊重され、そして付加価値を持っていく。
今度は、それぞれが単独にバラけていても付加価値を持ったままになるのだ。

単純にいえば、相対性理論さえ分かってしまえばアインシュタインの存在は必要がないし、「ファウスト」があれば作者など分からなくてもよいはずだ。が、世の中ではそうはならない。
それは、成果を利用する側の人間もまた主体的な人格を持つからというのが理由のひとつではある。功績は功績としてフェアに認められ、素晴らしければ素晴らしいほど、人々によって賞賛されたり感謝されるべきだ、そうなるはずだ、と大多数の人が思うし、そう願っているのだ。

モノについても価値が付属する。
成果を読んだり見たりするのに媒体はパソコンでもコピーでも何でもいいのだが、世の中ではやはりそうはならない。
現物としての初版本にはとんでもないプレミアがつき、成果を生んだ本人の性格や生活や静動は特別視され、エピソードがありがたく語り継がれる。
…まず、そんなことが起こる。


さてつぎに、素晴らしい成果を作ってたとしても、表現が下手だったり、周囲の人間のレベルがまだ低すぎて成果が認められないこともある。
ゴッホの絵は、生前に1枚しか売れなかった(やがて1枚約60億円の値が付けられた)し、シェイクスピアがイギリス以外で認められるようになるのは死後150年が過ぎてからだ。
メンデル牧師のエンドウ豆の遺伝研究は、再発見されるまで数十年もほったらかしにされたし、アボガドロの気体分子の法則も、生前は無視された。

この時、ゴッホやシェイクスピアなど文化系分野は作品自体が残り、それが後々影響力を発揮するのだからまだいい。
しかし、科学の分野ではいかがであろうか。
再発見によって、過去の研究成果が遡って評価を得るというルールは、実質的にはまったく世の中への影響力を持たなかった成果を崇める風習である。実質的な影響は、再発見による成果こそが発揮するはずだ。
しかし世間では、発明・発見・創作というのは、先取権が誰にあるのかが重要とみなされる。世間による評価がフェアであることを重視するがためだ。けれど、とっくに亡くなっている人を辻褄合わせに評価し直しても、本人はもういない。再発見によって実際の手柄をたてたはずの人の評価は、ぐんと下がってしまう。いいことはない。

つまり、世の中への影響力を考えた場合には、虚しいかな、いくら素晴らしい成果を上げても、状況によってはどうにもならないのである。
大体、不理解を示す人間が大多数であるはずの世間に対して、成果を示そうとしているのが研究者なのだから、何のために研究者は孤高を決め込んで誰のために頑張るのか。自己満足のためか、世間で認められたいがためか。きっとどちらも当たりであり、どちらも違うのだ。その点では、孤高の研究者も我々凡人愚人と同じである。またそうだからこそ、第一級の研究者が何万人も集まって原爆を作ったり、戦闘機を作ったりする。

そして、そうなってしまうのは、つまるところ“根本的な哲学がアマイ”からなのだ。
アグリッパの警句を、いまだに克服していないからなのである。

学問批判・文明批判はもちろんアグリッパの独占物ではない。
東洋でも、老子や神仙思想による道教ではあるがままに生きることが説かれ、余計な学問や文明は捨てよということだった。
文明を捨てて「自然に帰れ」とルソーも言っていた。
現代においても(ちょっと違うかもしれないが)、科学技術偏重の社会は、少なくとも表層的には、われわれ一般の批判の対象になっている。いや、反省反省といいながら全然反省の色が見えない気もするわけだけれども。


ああそれにしても、アグリッパをちゃんと読んで何かを述べるには、やはり自分でフランス語かラテン語をやらなくちゃいけないのか?
そんなことってあるだろうか? これだけ有名なアグリッパなのに。
何をやっているんだ、日本の学者たちは?
いやいや、日本の翻訳図書状況というのは世界でも立派なものだし…

0 件のコメント:

コメントを投稿