このブログでは、有意味で堅い思索試論を載せるつもりできた。
ところが、自分で書いていても堅くてつまらない。
しぜんと滞ってしまった。
進まなくては意味もないし、やはり多少は柔らかい文章のほうが誰にとっても読みよい。
そこで、極めて私的に書いている別のブログの内容で、こちらに載せても不自然でないようなものを、このブログに載せることに致します。
今回の内容は、紀田順一郎氏のことから。
※
紀田順一郎氏のウェブサイトを時折眺める。
氏は文字や出版などの事情を熟知したとても著名な執筆家である。それでいて、今回のエッセイは、蔵書の処分に悩んでいるというテーマで興味深かった。
紀田順一郎のウェブサイト『書斎の四季』↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/
今回のエッセイ「当世蔵書事情」↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2015/051401/index.html
この20年ほどで古書流通の事情ががらりと変わったという。
古書店の態度からして変わった、というくだりが面白い。
私自身は変化を肌で感じたのは2005年頃だった。ブックオフに持っていく本の買取価格が、2005年の前後で急激に落ちたのだ。
さて、紀田氏はそのエッセイの中で、蔵書印に思いを込めた幕末の国学者の粋な一句を引用している。
「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」
この文を、紀田氏は「本心ではなく韜晦」と推し量っているけれど、ぼくにはこれも蔵書家の遺言をぎゅっとまとめたものとして本心だろうと思われる。
蔵書家のみならず、コレクターはみな、自身の死後のことを考えている人とそうでない人とでは、思想の奥行きが違うと私は常々思う。
自分のことだけ考えて自己満足を目指す、あるいは(執筆や商売などのために)目的的に集める。――それは前提としてあろうが、その後のことを考えるか否かは、モノの集合がシステムをまとい、どう後世で動くかという点を考慮するか否かということだ。子孫の利益を考える人と、「自分のあとのことは知りません」という人とでは、生き方に雲泥の差が出てくるのは当然のことだろう。
社会への影響つまり後世の人々への影響を、自身の所有物に関してコントロールを図るというのは、単純な自己愛を超えて社会への愛情でもあり、モノへの深い愛着でもある。
そういった思想のひとつを、粋な一句で蔵書印に押し込めるというのは、……素晴らしい。
いや、(今アメリカで流行しているという)コンマリさんの人生がときめくように片づける方法も、「人生、自分の感性を大事にする」モノの扱い方として、ひとつ大きな真理を突いてはいるのだ。自分の心に問いかけ、ときめかないものは捨てる、ときめくものをこそ取っておく。
かつてお気に入りだった洋服に感謝のキスをして別れを告げる。潔くていい。
しかし幼児的精神をもちつづけているわれわれ日本人は、モノに擬人化された愛着を感ずる。
その洋服がどうなるか? 巨大な焼却炉におちていくところを想像すると心苦しくなるだろう。
たぶん、コンマリさんの片づけ方法は、社会全体のリサイクルシステムの発展で、真に完成するのだ。
大型古書店やリサイクル屋や骨董店の多くが、セコいやり口で胡散臭く儲けていたとしても、社会への貢献度はやはり高いといわざるをえない。彼らは、モノへの愛着を掬い取ってくれる、貴重な存在なのだから。
ちなみに、さきの一句、
「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」
は、たぶん、
「我死なば 焼くな埋むな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹を肥やせよ」
から趣を得て作ったのではないかと推測する。
後者は小野小町か橘嘉智子の歌といわれる。
私が死んだら遺体も他の生命のために使ってね、みてくれは構わないの、手間はかけないで、そして私のことなど忘れてね、といわんばかりの壮絶な内容である。はや9世紀に詠まれた短歌だ。美女が詠んだとなれば、なお刮目に値する。
(あくまで私のもつイメージなのだが、)現代の年配の方々の多くは、じぶんが入る墓の心配ばかりして多大な時間と金とを費やすのではないか。日本中の森林を崩して増え続ける墓地とそれを管理しつづける子々孫々のことなど構いやしないし、ましてや動植物のことなどは完全に OUT OF 眼中であろう。
もったいない、ということの意味を何重にも考えなければ、本当にもったいない生き方をすることになる。モノへの愛情と、自分への愛情と、そして他者への愛情とは、無関係ではない。
※
ところで、ふと蔵書印について思う。
さっきのエッセイに紀田順一郎氏はご自身の蔵書印の有る無しについて書いておられなかった。
私の父も若い頃、「〇〇蔵書」と四角く朱い蔵書印をたいせつな本には捺していたようだけれど、通常、無名人の捺印はその本の市場価値を若干下げる。(まぁ、家族が眺めると多少情緒を感じないこともないが。)
だが紀田氏ほど有名になったら、蔵書印がプレミアを付加するのではないか? ちまたのサイン本よりも価値が高くなりそうだし、自著でなくても捺印できるので量産が可能であろう。
さらに、「我なんとかかんとか」と気の利いた1首を蔵書印に込めたなら、それはもしかすると後世の人々の胸に永久に刻まれ続けることになるかもしれない。
本の片隅で、思想は死なずに生き続けるのである。
畳の上で日向ぼっこでもしながら、蔵書リストをつくりつつ、パラパラめくりながら蔵書印を捺す作業をするのは楽しそうだ。いや、暇人で茶人でなければ、かえって楽しめなさそうだけれど…
私も蔵書印には憧れる。
が、たぶんそういうことは今後もしないだろう。
つまらない本に捺したところで何の意味もないし、価値の高い本に捺すならば、自分が有名になると前提しなければなるまいと、そんなことを考えてしまう。
日向ぼっこで本を開くという優雅な生活も長らくしていない。
結局のところ、つまらぬ市井の貧乏暇なし人なのだ。
いろいろともったいないことだ。
ところが、自分で書いていても堅くてつまらない。
しぜんと滞ってしまった。
進まなくては意味もないし、やはり多少は柔らかい文章のほうが誰にとっても読みよい。
そこで、極めて私的に書いている別のブログの内容で、こちらに載せても不自然でないようなものを、このブログに載せることに致します。
今回の内容は、紀田順一郎氏のことから。
※
紀田順一郎氏のウェブサイトを時折眺める。
氏は文字や出版などの事情を熟知したとても著名な執筆家である。それでいて、今回のエッセイは、蔵書の処分に悩んでいるというテーマで興味深かった。
紀田順一郎のウェブサイト『書斎の四季』↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/
今回のエッセイ「当世蔵書事情」↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2015/051401/index.html
この20年ほどで古書流通の事情ががらりと変わったという。
古書店の態度からして変わった、というくだりが面白い。
私自身は変化を肌で感じたのは2005年頃だった。ブックオフに持っていく本の買取価格が、2005年の前後で急激に落ちたのだ。
さて、紀田氏はそのエッセイの中で、蔵書印に思いを込めた幕末の国学者の粋な一句を引用している。
「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」
この文を、紀田氏は「本心ではなく韜晦」と推し量っているけれど、ぼくにはこれも蔵書家の遺言をぎゅっとまとめたものとして本心だろうと思われる。
蔵書家のみならず、コレクターはみな、自身の死後のことを考えている人とそうでない人とでは、思想の奥行きが違うと私は常々思う。
自分のことだけ考えて自己満足を目指す、あるいは(執筆や商売などのために)目的的に集める。――それは前提としてあろうが、その後のことを考えるか否かは、モノの集合がシステムをまとい、どう後世で動くかという点を考慮するか否かということだ。子孫の利益を考える人と、「自分のあとのことは知りません」という人とでは、生き方に雲泥の差が出てくるのは当然のことだろう。
社会への影響つまり後世の人々への影響を、自身の所有物に関してコントロールを図るというのは、単純な自己愛を超えて社会への愛情でもあり、モノへの深い愛着でもある。
そういった思想のひとつを、粋な一句で蔵書印に押し込めるというのは、……素晴らしい。
いや、(今アメリカで流行しているという)コンマリさんの人生がときめくように片づける方法も、「人生、自分の感性を大事にする」モノの扱い方として、ひとつ大きな真理を突いてはいるのだ。自分の心に問いかけ、ときめかないものは捨てる、ときめくものをこそ取っておく。
かつてお気に入りだった洋服に感謝のキスをして別れを告げる。潔くていい。
しかし幼児的精神をもちつづけているわれわれ日本人は、モノに擬人化された愛着を感ずる。
その洋服がどうなるか? 巨大な焼却炉におちていくところを想像すると心苦しくなるだろう。
たぶん、コンマリさんの片づけ方法は、社会全体のリサイクルシステムの発展で、真に完成するのだ。
大型古書店やリサイクル屋や骨董店の多くが、セコいやり口で胡散臭く儲けていたとしても、社会への貢献度はやはり高いといわざるをえない。彼らは、モノへの愛着を掬い取ってくれる、貴重な存在なのだから。
ちなみに、さきの一句、
「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」
は、たぶん、
「我死なば 焼くな埋むな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹を肥やせよ」
から趣を得て作ったのではないかと推測する。
後者は小野小町か橘嘉智子の歌といわれる。
私が死んだら遺体も他の生命のために使ってね、みてくれは構わないの、手間はかけないで、そして私のことなど忘れてね、といわんばかりの壮絶な内容である。はや9世紀に詠まれた短歌だ。美女が詠んだとなれば、なお刮目に値する。
(あくまで私のもつイメージなのだが、)現代の年配の方々の多くは、じぶんが入る墓の心配ばかりして多大な時間と金とを費やすのではないか。日本中の森林を崩して増え続ける墓地とそれを管理しつづける子々孫々のことなど構いやしないし、ましてや動植物のことなどは完全に OUT OF 眼中であろう。
もったいない、ということの意味を何重にも考えなければ、本当にもったいない生き方をすることになる。モノへの愛情と、自分への愛情と、そして他者への愛情とは、無関係ではない。
※
ところで、ふと蔵書印について思う。
さっきのエッセイに紀田順一郎氏はご自身の蔵書印の有る無しについて書いておられなかった。
私の父も若い頃、「〇〇蔵書」と四角く朱い蔵書印をたいせつな本には捺していたようだけれど、通常、無名人の捺印はその本の市場価値を若干下げる。(まぁ、家族が眺めると多少情緒を感じないこともないが。)
だが紀田氏ほど有名になったら、蔵書印がプレミアを付加するのではないか? ちまたのサイン本よりも価値が高くなりそうだし、自著でなくても捺印できるので量産が可能であろう。
さらに、「我なんとかかんとか」と気の利いた1首を蔵書印に込めたなら、それはもしかすると後世の人々の胸に永久に刻まれ続けることになるかもしれない。
本の片隅で、思想は死なずに生き続けるのである。
畳の上で日向ぼっこでもしながら、蔵書リストをつくりつつ、パラパラめくりながら蔵書印を捺す作業をするのは楽しそうだ。いや、暇人で茶人でなければ、かえって楽しめなさそうだけれど…
私も蔵書印には憧れる。
が、たぶんそういうことは今後もしないだろう。
つまらない本に捺したところで何の意味もないし、価値の高い本に捺すならば、自分が有名になると前提しなければなるまいと、そんなことを考えてしまう。
日向ぼっこで本を開くという優雅な生活も長らくしていない。
結局のところ、つまらぬ市井の貧乏暇なし人なのだ。
いろいろともったいないことだ。
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