2015年9月30日水曜日
沖縄のフェデラル・ショットグラス
先日、ある骨董屋さんで、面白いものを譲ってもらった。
しかしこの品物に、今夜何時間もの間、私の心はずっと煩わされてしまったのだった。
それは7つの小さなショットグラスだった。
5センチ程の高さの小さなグラスが、1個2,000円。
博識な店主さんに「これは安いよ!」と言われ、そのモノにまつわる逸話に魅了され、思い切って買ってみた。
「出どころも明確。那覇市内の商店を営む人の持ち物で、戦争の時に庭に埋めて被災を逃れた品物だよ」
沖縄にあったf戦前のガラス製品は、1944年の10・10空襲とその後の地上戦で、ほぼ失われたとされている。我々が戦前の沖縄ガラスを手にできるのは、ガマ(自然洞穴)から出てくるか、もしくはチリ捨て場から掘られたか、といったところなのだ。
それが、空襲に備えて庭に埋めた品物が出てきたとしたら、それは・・・紛れもなくレアな沖縄の遺産だ。
ショットグラスは表面に美しく細やかな揺らぎをたたえ、爪で弾くとチンと鳴った。
「この特徴は、紛れもなく、大正時代の物!」
と、そう店主は断言した。
さてこの高いのか安いのか分からない品物を持ち帰り、底面のロゴを眺めていた。
小さくてよく見えない。
目を凝らし、光にかざしてやっと見えてきたのが、盾のマークに反転した「F」の文字だった。
ネットで調べると、出てきた、出てきた!
なんと、フェデラル社(フェデラル ガラス カンパニー)のロゴではないか。
フェデラル社は1900年~1979年まで存在した、アメリカ国オハイオ州の大ガラス食器会社だ。1950~70年代頃の白いレトロなミルクガラスのマグカップやお皿で有名だ(そうしたミルクガラス食器では、ファイヤーキングなどいくつか有名なものがある)。
そこから、私はドライアイも何のその、何時間もパソコンとにらめっこすることとなった。
英語のサイトをGoogle翻訳させつつ自分でもざっと訳しつつ、フェデラル社と、ショットグラスについて調べた。
ショットグラスの発明は18世紀後半のドイツだが、本格的にアメリカで今の形となって使用され始めたのが、1933年(禁酒法廃止)前後なのだという。その頃以前のショットグラスは、もっと薄手だそうだ。
しかも、アメリカは1929年から世界を覆った大恐慌からなかなか立ち直れず、1941年まで恐慌が続いたため、「1940年代より前のショットグラスは、ほとんど見つからない」との情報だ。
となると、私が手に持っているフェデラル社のショットグラスは、戦前の沖縄にたどり着くのは難しいということとなる。
何ということか、骨董屋のオヤジにしてやられた! ・・・とも思った。
しかし、べつの詳しいサイトでは、フェデラル社は1920年代~40年代に、盛んにショットグラスも製造した、と書いてあった(ちなみにこの頃のガラス製テーブルウェアを、俗に「恐慌ガラス(Depression glass)」とも呼ぶそうだ)。
1927年には、盾にFマークも使用されはじめていたという。
ただし、フェデラル社は廃業の1979年頃までショットグラスの製造もしていた可能性があるらしい。戦後は主としてミルクガラスの耐熱食器に移行したから、クリスタルガラスは比較的少ないのだそうだが・・・それでもこれでは、年代特定ができない。
が、少なくとも骨董店店主のいう「大正時代」ではないことは分かった(大正は1926年までだ)。
ちなみに、アメリカのオークション&販売サイトでは、1つ2000円した私のショットグラスが、100円~500円の相場だった。送料を考えても、やはり失敗の買い物だったのか?
だがもしも、那覇市内のその超インテリ持ち主が戦前から手にしていて庭に埋めた物だったのなら、やはりそれだけの価値はある。
だがもしも、その人が戦後アメリカ統治時代にアメリカ人から買ったり貰ったものならば、・・・やはり500円くらいの価値しかないだろうか。あるいはフェデラル社のファンは今も多いから、1000円くらいはするだろうか・・・
どっちにしても、この謎はさらに突き詰めて解いていかねば気がすまない。
苦悶しながら、今日の所は眠るとしよう。
〈後日談: 9/30〉
翌日、ほかの用件をひっかけて、再度その骨董屋さんへ出向いた。
博識店主はいつもの笑顔で「間違いないよ」と言いながら、「念のため、持ってた人に電話してみよう」と携帯を取り出した。
御歳94の聡明なるオバァは、初めて電話ごしに話す見ず知らずの私にも、動じずにしっかりといわれを話してくれた。
「どうだったかなぁ、ちょっと忘れた」と付け加えて話しつつ、品物はたしかに古いレコードなどと一緒に、庭の地下壕に埋め、10・10空襲を逃れたのだと語った。その持ち主だった前の御主人の話や、戦前の海軍マーチングバンドの話もしてくれた。
私は、どうしても情報の裏取りをしたいために、しがみつくかのように何度も質問をした。
そして電話を切り、唸りながら、持参したショットグラスを見つめた。世にも珍しい1930年代製のショットグラス、しかも沖縄戦をくぐり抜けた逸品、ということになる。
年月と物語を含んで、ショットグラスはいっそう美しく見えた。
再度店主の携帯が鳴った。
それに出た店主は、すぐにそれを私に渡した。
オバァが言った。
「あのね、思い出したの。アメリカ製でしょ、小さなコップ。そういうのは、戦後、私が東京に出て買ったものよ。戦後すぐのこと」
それから私は、もう一度よくよくそのことを聞いて確かめ、店主に携帯を渡した。
店主は呆れながら、「前には、壕から出てきたって言ってたじゃない。・・・ああ、そうなの、ああ・・・」と言って電話を切った。
しばらく沈黙があってから、私と店主は苦笑しあい、慰めあい、謝りあい、真実が分かって本当によかったと溜め息を付きあった。店主は全品返品を受け付けると言って計算し、今度でいいと言う私に、返金分の金銭をなかば強引に前払いで手渡した。
私は、懲りずにまた情報と御品物を譲ってくれるように頼んだのだった。
・・・というわけで。
沖縄で見つかった戦前のフェデラル社製ショットグラスは、幻となった。
私はそれをすべて返品するけれど、・・・大戦前後に製造されたその7つのショットグラスは、酒をほとんど飲まない私さえもがちょっぴり惜しいと思うくらい、やはり美しく可愛らしい代物なのだ。
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