2016年12月15日木曜日

2016年末雑感メモ

年末が差し迫り、顔を合わせたり電話で話す知人友人とも「もう今年もあと少しだね」などといいあって、焦りを共感する季節になった。早い。タイム・フライズだ。

この頃の生活スタイルのせいであろう、めっきり友人と電話をかわさなくなっていたので、先日まとめて電話をかけたら誰も出なかった。家庭あり仕事ありでみな忙しいのだ。
時間差で掛けなおして来てくれたので話したが、聞くと多くの人が2016年末は何らかのトラブルや不運に見舞われていて、慌ただしくも気の毒である。

じぶんは割と問題はないなぁ、と思っていたものの、考えてみれば色々あった。特に、乗用車のエンジンオイルの調子が悪いのは気になる。先日交換しようとカーショップに行くと、なんと空っぽだった。オイルを注いでもらって、急いで修理会社に出向いたら、もしかするとかなり高額の修理になるかもしれないという。しばらく様子見だが、これが運転中に不都合を自覚しないのだからもやもやする。

それから、数日前には1歳になった二男の長風邪をもらって、完全ダウンした。
朝から晩まで、トイレと布団の往復しかほとんどしないでずっと寝ていた。葛根湯とノンカフェインのリポビタンDとミカンが一日の主食だった。頭痛、38.2℃の発熱、めまい。無意味な長い夢を延々と見て過ごしていた。
二男も風邪なので、食べては咳き込んで吐く、ということを1日で11回も繰り返し、いつもなら後始末や洗濯などを妻と連携プレーで済ませるところを、私は他人事と放って寝ていた。その慌ただしい事態が、はるか遠くに聞こえていた。食べさせれば吐く、というアルゴリズムが判明しているのに、なぜ妻は同じ愚行を絶え間なく繰り返しているのだろうか、とまぶたの裏でぼんやり不思議に思った。妻はあまりの手間と労力に、最後には発狂するかのように1歳児を怒鳴っていたが、まぁ、それくらいはにんげんだもの、である。

今は徐々に回復し、家族の生活ペースも概ね回復した。
子らは健やかである。長男は場の空気を読めないほど元気だ。
二男は咳をしながらも元気で、妻が寝かしつけてもいつまでも眠らず、夜11時頃には何度となく私の部屋へハイハイして来てしまう。その時は私は高校時代の友人と久々に長電話をしており、あまり相手をしてやらなかった。すると、やがて泣きわめく。
ケータイ片手に、長男を寝かしつけている妻のところに二男を連れて行っても、またハイハイして私の部屋まで来てしまう。その繰り返し、繰り返し、である。可愛いが面倒だ。
家内も憔悴しているので、私もやっと電話を切った。添い寝してやると、二男もすぐに眠った。長男はマザコンであるが、二男は両親ともいないとダメなタイプなのはわかっている。

日々、ちまたでは色々なニュースが流れているけれど、やはり良いニュースは少ない。
特にこの2日間のニュースでは、沖縄でもオスプレイが落ちたり壊れたりしているのに、アメリカ軍も日本政府も度を越した横柄さを露呈しながら開き直るという態度をくりかえしている。司法までも飼いならして辺野古の埋め立てを進めたり、無茶苦茶だ。
いったいこの国はどうなっているのかと、開いた口が塞がらないというか、塞ぎ込んでしまうというか・・・それでも安倍首相の支持率はけっこう高いままなのは、私の政治理解を超えている。ペンパイナッポーアッポーペンの面白みは理解できてきても、沖縄を取り巻く日本とアメリカの対応は理解しかねる。「大衆」云々という話ではないのである。

私の一案では、まずは新聞各社が、あのドローンタイプのヒコーキの名称を「オチプレイ」と全面変更するところから始めたらいいのかもしれない。統計学的には一般の米軍飛行機より落下しないので安全というが、こんなに頻繁に落ちている。奇妙な統計、落ちるべき設計、支配者の奸計というしかない。

まぁまぁの年だった2016年ももうすぐ終わる。
一年の計は元旦にあり。来年は良い年にしよう!

みなさま、2017年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


2016年11月9日水曜日

トランプ大統領の誕生

今日は朝から鼻風邪をこじらせて、ドリンク剤を飲み、パンプキンスープとミカンを食べて休んでいた。
目覚めると布団のなかでタブレットで読書をしていたが、もうすぐ1歳になる子どもがハイハイしてタブレットを奪いに来る。好きにさせるとスワイプを真似てさすが現代っ子らしい。・・などと感心もしたが、こちらは読書の途中なので、やがて奪い返す。すると絶望的な表情で大泣きした。

妻が息子たちを連れて買い物へ出かけ、私はパソコンの席に移る。
途中から、今日のアメリカ大統領選挙の開票が気になりだし、ネット速報で地図と棒グラフが、青と赤とに塗られていく様子をチェックしていた。ヒラリー・クリントンの青い民主党VSドナルド・トランプの赤い共和党。

接戦がずっと続いた。が、トランプのバーが先に過半数に近づいてきたので、私も布団に戻って、テレビ(NHK)をつけた。


日本時間午後2:35分。――大統領選の模様を中継するニュースの途中で速報が入り、AP通信がトランプ氏の勝利を伝えた。

今日は日本のみならず世界中の金融市場が乱れている。5ヶ月前のイギリスEU離脱を巡る選挙のときと同じだ。そしてついに、世間の予測と真逆の結果になる、というところまで同じになった。

私は苦笑した。
この選挙結果には、苦笑するしかない。

西側の大半の国々は動揺しているだろうが、日本政府もわたわたしているに違いない。何せ日本という国家は、政体としては敗戦この方ブレることなくアメリカ帝国の子犬だ。

先月の国連総会での「核兵器禁止条約の交渉開始に関する決議」では、なんと日本が、数少ない核兵器保有国に混じって「反対派」にまわったことがニュースになった。
世界唯一の被爆国が、核兵器の存在に賛成票を投じたのである。
私だって呆れ返ったが、一生懸命アメリカに尾尻を振る、見事なまでにぶざまな小国ニッポンは世界の注目を浴びた。「世界の軍事バランスが・・」などという言い回しは白々しくて、聞いているだけでも恥ずかしくなる。

そしてこれまで日本政府は、せっかくアメリカの言うとおりTPPも強引に推し進めてきたのに、当のアメリカの政策が変わってしまう。
TPPにトランプは反対なのだ。
また、せっかくアメリカ軍事力の傘下にいるのに、トランプは安保のためにもっと日本に金を出せというスタンスを発表しているのだ。
安倍総理はすぐさまトランプ氏に媚を売るメッセージを送った。そんな安倍さんへの国民支持率は過半数超えで高い。

けっきょく日米とも、金回りのことを豪語しまくる人間をこそ支持するということになっている。日米とも、過半数の一般市民の内面は「乞食化」しているのだ。

かくゆう私も、名前からしておふざけ路線のドナルド・トランプ氏が大統領選に勝利したという速報を目にして、ひとり苦笑した。
オモシロイと思った。
これからどんな世界情勢が展開していくのか、見当がつかない面白さ。
優等生ではなく、アホな人間が逆転勝ちして天辺を獲った面白さ。
アメリカ政府そのものがギャグになる面白さ。

いや実際には、つまらないことになるかもしれない。
ブッシュJr.のときがそうだったが、あれも半分ブラックジョーク的だった。世界中で戦争は激化の一途を辿ったのである。

共産圏(中国・ロシア)はトランプ勝利を本心では歓迎していると記者たちがニュースで話していた。
世界情勢はこれからどうなっていくのだろう?


私は自分の手回りのことをしていこう。
読まねばならないものがたくさんあるし、研究すべきこと、書くべきことがたくさんある。まずは自分の風邪を治さねば。
小市民には小市民のやるべきことがある。あたり前のことだが政治がすべてではない。



2016年10月16日日曜日

松岡正剛『千夜千冊』の誤字脱字批判


(名編集者・松岡正剛氏のことは、これまでブログに2度とりあげた。
 →・読書メモ(20160615)『国家と「私」の行方』(松岡正剛、春秋社、2015)
 →・デカルトの重箱blog 松岡正剛『国家と「私」の行方』、そして『千夜千冊』 )

私は今、松岡正剛氏の孤高かつ怒涛のブックガイドブログ『千夜千冊』の全読破を試みているが、このペースでいくと単純計算で5年以上かかりそうだ。
つまり私は、まだまだ序の口の段階にいる。

それなのに、すでにかなりの誤字脱字が散見される。
枝葉末節のことであろうか?
・・・だが氏は、なんといっても日本一の名編集者なのである。
不特定多数の読者に読まれている公式ブログの誤謬を直そうとしないというのは、一体どういう見解なのだろう? 正剛氏のような立場であれば、いくらだって生徒や弟子や従業員にチェック・訂正の仕事を回せると思うのだが・・

出版物なら、印刷後に誤記の訂正がある場合には、小さな訂正記事の紙が挟んであることもある。作り手・著者としては、満を持して世に問うたはずの本に僅かでも間違いがあれば、1秒でも早く直したいという気持ちになるのが自然だと思う。誤謬の訂正は礼節であり、プライドであり、そして良心である。

しかし、たとえば松岡正剛氏の『国家と「私」の行方』は2015年に出版された良書だが、2巻本に4箇所の誤記をみつけた。訂正記事について言及はない。ウェブサイトをみても何もない。
・『国家と「私」の行方』 春秋社ページ

さて、今年の3月に「ISIS(編集工学研究所)担当者様」宛に、「千夜千冊の誤植などについて」と題したメールを送った。
半年以上経つが、返事もなければ訂正もなされない。連絡がつかないということは、・・何なのだろう? ほとんど読者のいないブログの書き手である私だって、誤字脱字に気がつくと恥ずかしくて、すぐにでも直したくなるのに。

この『千夜千冊』ブログは、すでに分厚い豪華本としても出版されている。もしかすると出版の際に直されているかもしれないが(それについては私はチェックしていない)、今度なんと角川文庫にも入るというのだから心配になる。
それで、ここに私が個人的にメモした「『千夜千冊』訂正箇所」を以下に挙げておくことにする。

重ねて言うが・・・こういうことは、松岡正剛氏ご本人あるいは関連会社または出版社が率先してなすべきことのはずだ。
そして出版物と違って、ウェブ上のとくにブログは、その気があれば一瞬で直せる媒体なのである。

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〈『千夜千冊』ブログ訂正箇所Memo/2016.10.16 時点=68読了/全1621夜〉
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・番外録INDEX
「東日本大震災から5日後の2012年3月16日、」→2011年3月16日

・9夜
「アリストレス」→アリストテレス 2箇所

・18夜
下線足らず「インシュタイン著」→アインシュタイン著

・17夜
下線足らず「倉百人一首のような」→小倉百人一首のような

・16夜
「つなぎあわせてていく」→つなぎあわせていく

・125夜
「”ぼく”」→“ぼく”

・168夜
「解決しょうと」→解決しようと

・888夜
「します二人は」→します。二人は

・982夜
「イギリ人」→イギリス人
「左欄」→右欄

・994夜
「ととして」→として

・995夜
「recollectin」→recollection
「することころ」→するところ
「メンデレーフ」→メンデレーエフ

・1005夜
「アウストラピテクス」→アウストラロピテクス

・1095夜
「フルートを持つ」→フルートを持つ女 3箇所

・1187夜
「ケインノほうで」→ケインのほうで

・1251夜
「イノシシにはタタリ神という凶暴な神が憑いている。」→「憑いている」のではなくイノシシ自体がタタリ神に「なった」と思われる。
「アシタカは万事が納得できずにタタラ場にとどまることを決意する。」→アシタカは「納得できずに」ではなく、「状況を受け入れて」人間と森との架け橋となった、と説明するのが彼の表情からしても妥当であろう。同様に、サンは「人間を許すことはできない」と言ったけれど、人間であるアシタカを「受け入れた」という顛末だ。

・1262夜
「9割知覚」→9割近く

・1314夜
「ブラウンジング」→ブラウジング
「トマス・アクイナス」→トマス・アクィナス
「めぐっている。。」→めぐっている。
「Aからら」→Aから
「それわ体に」→それを体に
「言葉がゆきわたらせる」→言葉をゆきわたらせる

・1336夜
「スタフグレーション」→スタグフレーション

・1361夜
「正当化をもたらすのてはないかという」→もたらすのではないかという

・1362夜
「思えてくるだろうとということ」→だろうということ
「インドではヴィトリア朝に」→ヴィクトリア朝に

・1367夜
「返済すなくとも」→返済しなくとも

・1368夜
「算出」→産出 2箇所
「通過」→通貨
「国王ヒピン」→国王ピピン

・1399夜
「アリストレス」→アリストテレス

・1409夜
原発批判を含む文脈のなかに鷲田清一氏を取り上げてあるが、残念ながら、鷲田氏は反原発の立場を取っていない。

・1422夜
「歴史をつくてきた」→歴史をつくってきた

・1447夜
「食卓の上で0・38マイクロシーベルトを」「1マイクロシーベルトをいつも超えていた」→分母に時間単位がある方が断然ベター

・1456夜
「クリーン・エルギー」→クリーン・エネルギー
「大腸菌をつかってDNA組み替えて」→大腸菌をつかったDNA組み換えで

・1601夜
「多変量解析は多くの変数からなるデータを統計的な扱って」→統計的に扱って
「しかし、結局はこんなことしかかできないのである。」→しかできないのである

・1604夜
「ポビュリズム」→ポピュリズム
「ますまず」→ますます

・1605夜
「植物ガ」→植物が
「編集工学編集工学研究所が」→編集工学研究所が

・1606夜
「デヴィッド・マー『ヴィジョン』」→『ビジョン』

・1619夜
「細胞膜(cell membrsne)」→cell membrane
「転写(trnascription)」→transcription
「RNAスプライシシング」→RNAスプライシング


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※〈2016.10.17 追記〉

 なお、「千夜千冊」567夜に、『誤植読本』(高橋輝次、東京書籍、2000)が取り上げられてある。
 この稿に正剛氏は、こんなふうに書いている。
 
 ・「中国では「魯魚、焉馬、虚虎の誤り」という。魯と魚、焉と馬、虚と虎は書きまちがいやすいということだ。また中国で「善本」といえば、良書のことではなく誤植のないエディション(版)のことをいう。それほど誤植は恐れられてきた。」
 ・「ぼくも編集者のはしくれとして、つねに校正と誤植には悩まされてきた。実は校正はあまり得意ではない。」
 ・「その後ワープロやパソコンで文章を打つようになると、今度は自分で最初から打ちまちがえたままになっている。」
 ・「この「千夜千冊」もワープロ打っ放しでスタッフにまわしてしまうときは、つねに3~4字がまちがっている(ところが10字まちがうとか、1字しかまちがわないということは、めったにない)。」
 ・「それにしても、誤植の入った自分の文章に出会うと必ずサアーッと冷や汗が出る。これはまことに奇妙な感覚で、なんとも居たたまれない。羞かしいやら、無知を晒しているようやら、もう弁解も手遅れで情けないやら、奇妙な後悔に立たされる。」
 ・「しかし、あらためて冷静に考えてみると、なぜ誤植が居たたまれない感覚に満ちたものなのか、その理由ははっきりしない。むろん歴然たるミスであるのだからどこから咎められても当然ではあるけれど、その責任はいわば著者・編集者・校正者・版元に分散しているのだし、(中略)この事実に気がついたとたんに“みっともない気分”になるというのは、この犯行感覚にはなかなか見逃せない異常なものがあるということなのである。」

 ・・・このように、正剛氏もやはり誤字脱字は頗るイヤなのだと分かって、多少ほっとした。
 しかし、ではなぜ速やかに直さないのだろうかという疑問はいっそう膨らむ。

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※〈2016.12.22~ 追記〉
とにもかくにも私は『千夜千冊』全読破に向け、サイトをほぼ毎日みている。
11月18日のコメントに、「肺癌でした」とあって衝撃だった。また最近の『千夜千冊』に、肺癌で2010年に死去した作家・井上ひさしとの思い出を綴った箇所があって、次のように書いている。

「ぼくと同様のヘビースモーカーで、あちらは1日40本、ぼくは60本を維持し、誇りにしていた。(中略)互いに喫煙は肺癌とはカンケーないとえらそうに豪語していたが、そうはいかなかった。」

喫煙経験のない私は、タバコを吸う人に対し一抹の軽蔑視を禁じ得ないのだが、正剛氏のような「超」知識人がタバコ→肺癌などという愚鈍な経路をとると、(なんのための知識だ!)と憤りをも感じてくる。
『千夜千冊』は読めば読むほど物凄いブックガイドである。それを書き続ける正剛氏はやはり物凄い人間であろう。そういう人は日本のため、というか人類のために、絶対に長生きするべきなのである。

コメントには12月14日に手術を受け20日に退院した報告があり、痛みと鬱々なる心境を告白なさっていた。21日には事務所に十日ぶりに戻って郵便物をみるなどのルーチンをこなし、はや「千夜千冊に着手した」と書いてあった。私は少し感動した。
心から退院おめでとうございます、と申し述べたいが、私はただの一般人かつあかの他人なので胸に留めておくのみにする。

それにしても、読んでも読んでも果てしなく感じる『千夜千冊』に、相変わらず誤字は次々と発見される。数限りないので私もすでにメモするのはやめているが、(これは酷いな)というのを3つだけ挙げておく。
正剛氏は術後なのだ。お弟子さんたちが気を利かせて直してあげるべきだと思うのだが・・


・1600夜
『設文解字』→『説文解字』

・1603夜
「フランスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは」
→スイスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは。(フランス人移住者の家系だがスイス人。なお「シニフィアン」「シニフィエ」はフランス語。)

・0550夜
「・・・(臨済は)大愚和尚の師事を受けた。」
→に師事した。(「師事する」で「教示・教えを受けること」であり、「師事を受ける」とは言わない。)

2016年10月8日土曜日

耳鼻科の力

私の家系は鼻が弱い。
そんなことは誰も言わないが、見渡してみれば明らかにそうなのだ。
そして自分もそうである。
小学5年の頃から花粉症で耳鼻科通いだったし、大学の時には鼻中隔湾曲症で鼻がつまりやすく、そもそも常日頃から鼻腔が荒れている人生なのである。そのためか、年に何度も風邪を引き込むし、逆に、たまたまマスクを常々装着している時期には、あまり風邪をひかなかったりする。

今年の夏の初めは、風邪を何度もひいていた。
立て続けに2、3回軽めの風邪をひいた。つまり50日間くらいずーっと風邪っぴきだったのだ。
それで、その風邪が治ったら・・・
鼻声が定着してしまっていた。

周囲の人間は、もう慣れて、私の声がこういうくぐもった声だと思いこんでいる。
しかし、久しぶりに会ったり電話で話したりする友人は、「また風邪?」と訊いてくれる。

「いやぁ、これこれしかじかで、森本レオみたいな声になっちゃったよ・・・」
「・・・ぜんぜん似てないけど」
というやり取りを、何度交わしただろうか。

この2ヶ月ほどは、左耳の奥にガサゴソと異音が聞こえるようになった。
いつもではない。隔日くらいで鳴る。
中耳炎に似ている。しかし、耳が痛いとか耳垂れがあるとかいうことはない。
鼻声のほうも、喉が痛いとか頭が痛いとか鼻水が出るとか、ぜんぜんそういうことはない。
つまり、実害ゼロ。ただ不快なだけの状態がずっと続いているのだった。

  *

そうはいっても・・・不快だ。
気になる。
それで今日の午前中、町の耳鼻科へいってきた。

この耳鼻科はいつも混んでいるが、今日はさほどでなかった。
ふだんはお爺ちゃん先生が、大量の患者を、まるで時計の針のように淡々と診療して治療して、数多くの看護師さんを使ってエンドレスにさばいていく。
余計な口はきかない。時には必要最低限の説明もしない。気難しそうな静かなお爺さん先生だ。
が、患者の話を無視したりはしないし、措置が的確なので、名医だと思う。
――薬を大量に出すという性格をのぞいては。

だが面白いことに、そのすぐ下にある小さな薬局にいる若手の薬剤師が、これまたまるで名医のようなのである。
上の耳鼻科でお爺さん先生が処方した大量の薬やステロイド剤などを、下の名“薬剤師”が一通り症状を聞いて、再判断してくれる。

「この薬の量は多すぎると思うので、こちらと、こちらだけにしておきましょうね」
「ステロイド剤は、気になるでしょうから、今回はやめておいてもよいでしょう」
「この薬は弱いので、これくらいなら大丈夫です」
「ジェネリックにしておきました(勝手に)」

小難しい処方箋でも懇切丁寧に、ある種情熱的に解説してくれる。
私どもは、その若き薬剤師を非常に信頼するに至った。あるときは感動さえ覚えて、妻とこんな話をしながら帰った。

「ああいう仕事人が、世の中をよくしていくんだよ。彼はただの町の薬剤師じゃないね。患者さんだけでなく、日本社会の医療そのものを治そうとしているんだ」

  *

他方、耳鼻科にも変化が訪れていた。
待合室の椅子の配置が変わっただけではなかった。
お爺ちゃんである院長先生の、イケメンの息子さんが診療の多くを引き継いだのだ。
世代交代は、そのすぐ近所の眼科でもタイミングを同じくしている。
面白いことに、2世はだいたい目を輝かせたイケメンで、やもすればナルシシズムも匂わせているのだが、彼らは現代医療の最先端技術を現場に持ち込むと同時に、「人対人」のやりとりを約束する挨拶のメッセージなどをウェブサイトや待合室のお知らせに展示する。

私はこういうのをみると、・・・つい信頼し、期待してしまう。
そして、ちゃんと正確な診療をしてくれると、また嬉しくなる。
――世の中は、やはり進化しているのだ!
と。医者ってスゴいな、素晴らしいな、と思う。

今日の耳鼻科の2世先生は、私と同年代だった。
さくさくと診療・治療をしてくれた。

そして、驚くべき展開が待っていた。
左耳の検査を、圧をかけたりして調べたあとだった。
部屋の端に置かれた細い施術ベッドに寝かされ、左耳を細かに先生は見てから、ピンセットを差し込んだ。
「たぶん、これが原因ですね」
直後に「お土産です」と、ティッシュに包まれて渡されたのは、なんと3cmほどの自分の髪の毛だったのだ。
私は驚きを隠せなかった。
外耳道の鼓膜のそばに、髪の毛がぐるぐる巻きで詰まるなどという珍事は、38年生きてきて初めてだった。
これがガサゴソ鼓膜に当たりながら、2ヶ月間もそこにあったのである。
毎日の綿棒は、取り払うどころか押し込める作用をしていたのだ。

帰ってそのお土産を見せながら話すと、妻も驚いて悲鳴をあげながら、
「きもちわるーい!」
と言った。
「俺本人が、いちばん気持ち悪かったよ」
「それはそうでしょうね。でも、虫とかもっと変なものが出てこなくてよかったじゃない」
「あのなあ。これ以上キモキャラにしないでくれ」

診察は初診だったこともあり3千円弱かかった。
処方箋は飲み薬14日分と点鼻薬1本。ジェネリック(後発)はなかったので、2千円以上かかった。
計約5千円の出費。
病院通いはカネがかかる。健康がいちばんだ。無駄金を使った。

ほんのちょっとだけ思ったのは、・・・耳に圧をかける特殊器具で調べる前の、診察台での簡単な診察の時点で、すでに詰まった髪の毛は見えていたんじゃないかな? ということだ。
鼓膜は入口から3cmという、簡単に見える場所に位置しているらしい。
まぁ、先生は、
(髪の毛が原因だな。でも何か他の原因があると困るから、念のため調べとこう)
と思ったかのかもしれないし、
(髪の毛が原因だけど、色々検査して、お金を稼ごう)
と思ったかもしれない。素人患者にそこのところは分からない。

けれど、医療というのはいずれにしても、やはりありがたいと思う。
残りの不快感も治るならば、むしろ安いとさえ思う。
健康が一番だ。



2016年10月1日土曜日

お山の大将について

多少とも偉い立場の人がその権力を使って、上から目線で他人を封じ込めたり、思い通りにさせようとすることは、日常のなかにも大なり小なりよくあることである。家庭の中からはじまって、地域社会や学校や会社ではかなり多くなり、市町村から県・国のすることとなると大方がそんなふうだったりもする。

私は、そういうのが、心の底から大嫌いだ。

しかし、私にもよくない点がある。
――偉い人、凄い人に対して、過剰にぺこぺこしてしまうのである。

ぺこぺこというのは謙譲である。(心にもないおべっかを言ったりはしない.)
それでも、緊張して笑顔を振りまき、文字通りお辞儀も頻繁になる。多少のお世辞も言う。

これは、お会いできたという嬉しさがつい表に出てしまうせいなのだが、その嬉しさを相手様に伝えたいというのもある。それと、その人のことを尊重したいということも胸にあるし、能力や業績を褒め称えたい気持ちもある。

そして何よりも、「その人のことを尊敬したい」という願望が、自分の中にあるのだ。
じっさいに何かしら尊敬できる人に会えると、本心から嬉しくなる。尊敬の念を抱くのは幸せなことだと思う。
(その人に取り入って認められたい、そばにいて得したい、みたいな太閤的・角栄的打算はほぼゼロだ.)


で、・・・世の中には、偉い人・凄い人・有能な人が、実は案外たくさんいる。
ちょっと考えれば、それは当然とも思う。
なぜなら、人は誰でもただ若いというだけで膨大な可能性を持っているのだし、逆にまた、歳を重ねるだけでどんどん人間の味が出てくるわけだから。完全な無能かつ魅力のない人間というのは、この世には存在しない。

そんななか、膨大な数の人がそれぞれの分野でおのおの頑張って高みを目指すのである。
凄い人が多いのはあたり前だ。
比較的凄くない人も、かなりのパーセンテージいるだろう。(まったくアバウトな考察だが、・・・今回はこれでいい。)
能力が低くて、大したことはできない、主張さえしないという凡人を、卑下する気は私にはない。
しかし、せっかくお会いするなら、日々活躍する有能で偉い凄い人のほうが、嬉しいし楽しい。刺激になる。勉強にもなる。

けれど、ペコペコされると、多くの偉い人々のなかには、・・・やはり尊大な気持ちになる人も多いのである。
上から目線なのはいい。(こちらからして下から目線なのだし)
自慢するのもいい。(内容ある自慢なら、むしろありがたい。とことんウェルカムだ)
自己顕示欲があってもいい。(それがあまりない人のことは、よく知り得ない)
その自己顕示欲が、幼少期からの承認欲求に基いていたっていい。(他人に認められたい、見て!見て!褒めて!という幼少期の欲求不満の心理は、じつは多くの人が引きずっている。私自身もそうだと思う)
功名心があったって、もちろん構わない。(モチベーションの1つである)
功名心の塊でも・・・我慢しよう。(にんげんだもの)

しかし、次のような態度は勘弁願いたい。
何かの拍子にその立場的権威を示し、その権力をちょこまかと行使して他人を強制的にどうこうしようとしたり、人の話をはねよけて強引に自分の好きに進めてしまったり。人のあれこれを阻害したり。
過去からの恨みつらみと不満を持ち続けて、問題をなるべく大きくしたがったり。(どんな小さな問題だって、しようと思えばいくらでも大きく膨らますことはできる。とくにヤクザや弁護士ならお手のものだろう.)

そういうことをされると。
――私はとたんに気持ちが冷めてしまう。まぁ、心も傷つく。
数えれば、3つの点で残念になる。

1.その人の行動による具体的な結果について。
2.人徳者として尊敬していたが、じつはその人がただの「お山の大将」であったことについて。
3.自分が、人徳者だと誤判断してしまっていたことについての反省。


この2番目に挙げた、単なる「お山の大将」だったことに気がつくショックを、私は昨日ひさしぶりに経験した。
話としては、どうでもいいくらいに小さいことなのだが、内心では大いにショックだった。

私はその人のことを、地域社会に貢献する実力派の人徳者だと思っていた。
いつも親切だったし、にこやかで人当たりもよく、非常に顔が広い。
行動も発言も常に露骨で、自分のことを「正義をはっきり言うタイプ」だとよく喧伝していた。
いや、思い出せば、今までにもその人の言動にオカシイなと感じることが色々とあった。人を選んで敵味方に分類する姿は攻撃的だった。何事も仲間内で固める性格だった。表面的な軽いウソならよくあった。妙に公的な金遣いが荒いと感じていた。変に細かくてクレームが多い人だったが、私もクレームは言う方なので、素晴らしいとすら評価していた。
私のセンサーは完全に鈍っていたのだ。彼を尊敬していたからである。
具体的な言明は控えるが、・・・ 
つまりその人は、徳を備えているわけではなく、ただの「お山の大将」の凡人だったのだ。

「人の振り見て我が振り直せよ」とじぶんの肝によくよく銘じた。
いつか自分が多少とも偉くなった時、砂場を仕切るお山の大将のようになっていたら、あまりにもみっともない。目も当てられない。
世界は広大なのである。広大だし、きわめて多様で豊穣で美しく、偉人は数限りなく存在するはずなのだ。

地域社会の長よ。
中小企業の長がたよ。
大企業のトップよ。
業界の大物よ。
博識者たちよ。
国に務める方々よ。
国々の偉い方々よ。

私はきっと、またあちこちでペコペコと頭を下げながら、しかし今度は、上げた眼差しを光らせているだろう。
――あなたがたは、まさかまさか「お山の大将」ではあるまい?

あなたがたは分かっている人だろうか。
何を大事にし、何を恥ずべきなのか。
何を切り捨て、何を追い求めるのか。
ほんとうに大切なことは何か。

偉い人のなかに「お山の大将」でないひとは、もちろん大勢いらっしゃる。
私はそういう人をこそ尊敬するし、見習いたいと思う。













2016年9月26日月曜日

西原の古書店

今日は、また暑さが戻って真夏日の日曜。南の海上にある台風17号の小風が吹くこともあったが、概ね暑かった。

子どもたちを連れて公園を3つハシゴした。子どもたちは、朝から夕刻まで(昼を挟んで)フルで遊びまくる。それでも多くの子ども達が、洗濯物をたたんだり、ドリルをやってから遊ぶから優秀である。

こういう時、どこへ子どもらを連れて行くか、私自身は考えない。
『あそぼん』という雑誌があって、それを後ろ手に後部座席に渡し、子供らが全員でああだこうだと騒ぎながら決めるのを待つ。すでに車は走り出している。彼らが「ここの公園に行きたい!」と言ったその場所へ行くのみなのだ。

今日は、一区画だけ高速にのって、家から40分ほどの公園などに足を伸ばした。
西原の公園に子どもたちを置いた折、駐車場がいっぱいだったこともあり、私は久しぶりにその近くの古本屋に行った。

大きめで硬派なその古書店に行ったのは、・・・もしかすると3年はあけたかもしれない。
食い入るように棚を見つめた。100円の本を3冊、17円(!)の本を4冊、千幾らの本と雑誌を1冊ずつ。久しぶりに本を買い込んだ。

古書店にいる時に長男のキッズ携帯から電話が入って、息せき切った弾んだ声で、3才の友人の女の子がおもらしをしたとの報告があった。
私は古書店で近くのマツキヨの場所を尋ねてオムツとおしりふきを買いに行く。ついでに向かいのサンエー(スーパー)でチョコアイスモナカとピノを買い、公園に戻る。(近所には洋服が売っている店がないらしかった。)

皆でアイスを頬張ったあと、公園の身障者用トイレを開け放ったまま、(私には娘がいないので、何となく手慣れないため)6才の女の子にヘルプを頼みつつ、3才の子の足腰をおしりふきでざっと拭いてからオムツをはかせ、長男の着替え用のズボンがあったのでそれをはかせ、濡れた物を一応石鹸で洗い、ビニールに入れて持ち帰った。
(村上春樹的に細かな文面になったが、日常の臨場的質感を出す以外の意味はない。)


で、その古書店では、なかなか良い資料や図書が手に入った。
沖縄に、再版とはいえ戦前の『西哲叢書 スピノザ』があるとは驚いた。いや、Amazonでも、日本の古本屋サイトでも、手に入らないことはない本だしさほど高価でもない。ただ、なんでこんなところにあって、どんな人が持っていて読んだかな、とは思う。

それにしても、沖縄に古書店は那覇を中心に割とあるのだが、、、本が、ほんのりと湿っている気がして気になる。
そのせいで本が重い気がする。とくに外棚の本は、しなしなしている。
海風のせいであろうか。亜熱帯の空気のせいであろうか。
カビないのかな、と心配になる。カビっぽくもないのが少し不思議だ。

雑誌のなかに、琉球ガラス関連の小さな記事を見つけた(これは重要な発見だった)。
ペスタロッチ教育論の古い本は、興味はあったが小難しそうなので買わなかった。
科学の功罪にかんする古い新書本。1977年時点での原発批判が載っている。
ベトナム革命についての研究書。
古くて小さめのペン字の「くずし字解読辞典」。

辞典、事典の類には、どうも食指が動く。
一種の癖なのだろう。さほど実際には開かないのだから。
しかし、高校時代に国語教師が話したことを、私は今も記憶していて思い出すことができる。
 
――辞書に「高い」ということは、ないよ。
  辞書に、値段が高いなんてことはね、まずありえない。
  一冊の辞書を作るのに、著者がどれだけの労力と時間を費やし、あるいは一生涯を費やし、場合によっては次の世代の人生まで費やしているか。
  しかも、その辺の凡人ではない、最高の頭脳と叡智とが集結して、彼らが想像を絶するとんでもない努力をして、やっとまとめたものだ。
  そんな本が数千円、数万円、あるいは数十万円しても、高いはずがないじゃないか。
  買え。ぜんぶ読む必要はない。なんなら読まなくってもいい、と。
  買って、持っておけ。


後部座席の4人の子どもたちは、今日は長い一日だったと言い、同じ口でまだ帰りたくないと駄々をこね、もう日曜日が終わっちゃうのかと肩を落としつつも、汗だくの表情に充実した疲れと日焼けとを刻み、西日に照らされ揺られていた。
助手席の足元に無造作に放ったビニール袋の中に、今日100円で買った古い「くずし字解読辞典」などの古書が入っているのが嬉しかった。






2016年9月17日土曜日

アニメ映画『君の名は。』

アニメ映画『君の名は。』が、8月26日封切り以降、異例の大ヒットを飛ばしている。(『君の名は。』公式サイト
20日間で500万人動員とか、このままだと100億円の興行収入があるとか、つまりジブリ宮崎アニメなき後の、次世代的な実力派アニメーション映画という位置づけなのだ。

40代半ばの新海誠監督のアニメ映画作品は、今回を含めて6作ある。
私は、9年前に韓国人のアニメオタク青年に薦められ、のちに『秒速5センチメートル』をDVDで観て以来、ちょうど半分観たことになるのだけれど、フォトショップなどのグラフィックソフトで描いた絵が非常にきれいでそれは印象的だった。

しかし映像が印象的であるいっぽうで、これまでの作品は映画としての要素が弱かった。エピソードの多くがどこか別のアニメや映画で知っているような感じが多いのである。と同時に、(この人の作品は、いつか凄いものになるのだろうな)とは思った。なにしろ、ほとんど一人で話も絵も編集もこなしてしまう驚くべき若き才人ということだった。そして、ストーリー展開はいつも一種奇妙でどこか完成度の低さが目についたものの、その奥には高い志が垣間見られたからだ。
今回の作品は、そのストーリーの完成度が克服され、世間をあっといわせたのだろうな、と想像した。

妻も、「〇〇さんが『君の名は。』観て感動しまくってもう1回観たいって、フェイスブックに書いてた」と話していた。
また、私がちょくちょくスター・ウォーズの裏情報記事を拝読しているブログ「作家集団Addictoe」というところでも、多くの映画が辛口で酷評されがちなのに、『君の名は。』は98点という高得点をつけていた。そこには、こうも書かれてあった。
「内容に触れずに、一言でその素晴らしさをまとめれば、“新しい”。」
これは観に行くしかないと思った。


映画館の時間割とじぶんの都合とが合わなかったので、子供に幼稚園を休ませ、より遠方にあるライカムイオンの映画館へ出向いた。
まず、私が1人で11:00~上映の『君の名は。』を観る。(妻は5才と0才の息子とランチ。)
13:05~は『ペット』という、おふざけ冒険CGアニメ(アメリカ映画)を5歳の息子に1人で観てもらう。
そして、13:45~の『君の名は。』を今度は妻が1人で観る。(私が0才を連れてランチ。のち、5才と合流)

5歳の子供が1人で映画を観られるのか! とよく驚かれるが、息子は映画館デビューは3歳の『プレーンズ』から、そして前回『ファインディング・ドリー』からは1人鑑賞をしている。(私の迎えが遅れたためにインフォメーション・センターに届けられ、あわや店内放送というところであった・・・)親の観たい映画と子供のみたい映画が違うわけだから・・・仕方がない。

ちなみに、何歳から1人で映画館に入れるのか?
映画館の人に訊けば、「3歳から可能です」という返答だった。
妻は、「なにそれ? 3歳に映画が一人観できるわけがないじゃないの!・・・3歳から映画館に入れる、ってことでしょう?」と私に苦笑した。
ちなみに、『ペット』というこの映画にはクマちゃんマークが付いていて、つまり3歳以下でも鑑賞可とのことだ。
ということは。私は妻に提案した。0才の息子を5才の息子に預けて2人で『ペット』を観させ、その間に、夫婦で『君の名は。』を観ましょうか、と。だが5才の息子は即「やだ」と言った(むろん冗談で言ったのですぞよ)。
とにかく息子は映画が好きだ。『スター・ウォーズ』はDVDで6作品を2度ずつ観ている。エピ7は映画館で観た。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作も、『ハリー・ポッター』シリーズも大方みた。5才なので5才なりの理解しかできていないだろうが、いろいろ観てはいる。もちろんジブリアニメは好きで、なかでも『紅の豚』はたぶん20回は観ており、さすがの私も怒ったことがある。


『君の名は。』
午前11時からの劇場は空いていた。(パンフレットは2日前に完売したとのことだった。)
午後に妻が観たときは、劇場は混雑していたという。

よかった。とてもよかった。いろいろよかった。
たしかに、いろいろ新しかった。テンポの取り方も、まとまりにくいはずのストーリーのニュアンスも。
前半はわりと軽めでポップな展開で、高校生の男女入れ替わりモノだった。エンターテインメントとして楽しめた。
特に気を引いたのは、カメラアングル。かなり凝っていた。
テンポも斬新だった。本編の出だしにこの映画の映画予告がくっつけてあるようなはじまり方は面白い。
後半は後半で、1200年に一度到来するという彗星を巡って、それが大災害をもたらす云々の展開はまた唸らされた。逃げのない描写と、表現しすぎない描写のバランス感覚が長けている。素晴らしい。

ただ、・・・絶賛とまではいかなかった。
ピュア・ラブストーリーである。私は38歳のオヤジだが、この作品は10代20代の青年向けだということもあるだろう。
終わった時、私も涙をぬぐったけれど、いつまでもいつまでも印象に残るインパクトとまでは至らない。
比較しても仕方がないが、数年前の『思い出のマーニー』は強烈に胸に残った(世間評価としては意見が割れたため、平均値は高くない。ちなみに安藤雅司氏が『思い出のマーニー』も『君の名は。』も、そして私の好きな『パプリカ』でも、作画監督を務めている。それぞれ全然違うテイストなのに・・・)

絵は美しかったが、これまでの新海作品と比べると、これみよがしな風景美・美彩色にせず、わざと抑えてあるので、びっくりするほど美しくは感じなかったのが、多少惜しい。

筋書きに関していえば、ふつうにスマホやLINEなどが多出するのは現代的で、これもある種の面白みがあった。
ただこうした急発達中の現代機器が駆使される割には、重要なところで使われなかったりする。
(これほど地図アプリを駆使できるのに、なぜ、足で現場に向かう前にグーグルアースで見てみないのだ?)
とか、
(Yahoo!知恵袋で世間に尋ねたりは、・・・やっぱり、しないのか)
とか。
登場人物にわざわざ余計な労力を使わせる。物語を成立させるためには、登場人物は苦難のプロセスを踏まねばならないのは分かるが、ふと気がつけば、そこが監督による御都合主義だったりする。

そして、新海作品にはまだ、他者の作品の影響が消化されずにそのまま表出されている部分が多い。ストーリーや描写が、どこかで観た記憶を呼び起こす。そこがひとつ、不満といえば不満だ。
朝、目が覚めると泣いている云々というセリフを聞けば、『世界の中心で、愛をさけぶ』をどうしたって想う。高校生の男女の体で心が入れ替わるとなれば、1982年の角川映画『転校生』の石段ごろごろシーンを想い出す(新海監督によれば平安期の古典『とりかへばや物語』を参考にしたとのことだ)。
天体物体墜落後の奇妙な再会となると『黄泉がえり』が。若者たちが専門機械で通信系を乗っ取る計画となると『サマー・ウォーズ』が。田舎の神社の夏祭りは『思い出のマーニー』、駅での再会シーンは『海がきこえる』。
美しい雲の見事な空は宮崎アニメ、高原を延々と行くのも宮崎アニメ、女の子が不自然なほど激しく地面を転がるシーンも宮崎アニメ。
――似ているだけならいいのだが、似ていすぎていてかぶるから余計な感情が湧くのである。

しかしそれでも、森の葉のざわめきは『となりのトトロ』よりも細かい描写だった。(まったくざわめきのない1カットが気になったが、細かい事!)
登場人物の人生模様をかなり深く掘り下げ、あるいは逆に説明省略があり、一筋縄にはいかない人生が上手く表されていた。
境内での特別な行事のシーンもよかった。都会と田舎それぞれの情景と人々、すばらしかった。とくに新宿に出たあたりはうっとりした。自然風景とはまた違う、社会文化や人間の美。
私のニガテな(若者のアニメの)急に簡略顔でツッコミ表情をする表現も、ギリギリ許容範囲だった。


『君の名は。』も、このように色々と非常に素晴らしいのだ。ほとんど文句なしに。
声優陣も、文句なし。違和感なし。
音楽、主題歌、とくに文句なし。

良い所を挙げればキリがない。
人物配置など、これまでになく素晴らしい。友人がいい。みな、とても素適な人物なのである。かと思えば、悪いヤツや嫌なヤツも何人か出てくるが、その時々しか出てこない、つまり悪い人間が何らかの制裁を受けるというのが普通一般の映画の展開だろうけれど、この映画ではそうではない。悪いヤツ・嫌なヤツは、逆方面からの本音を伝える役としてあるだけなのだ。こういうところにもセンスやリアリズムが煌めいている。

彗星が走る星空、衝突の衝撃。逃げのない表現がある。と同時に、宇宙の外からみた彗星のシーンはない。抑制が効いている。
抑制と、過剰な表現。上手い。
彗星の、美と酷の対比。静と激の対比。女と男、田舎と都会、昔と今。対比、対比、対比。対比の宝庫だ。

衝突のシーンの描写は、他のあまたあるアニメーションにも負けない迫力と効果的な時間枠での表現だった。どうしたって誰がみたって、これは3.11を描いている。東日本大震災への願いであり、多くの人の妄想であり、また反省でもある(昔の災害を伝えようとする人々と、受け取ろうとする現代の人々との難しさ。・・もどかしい)


とにかく、こんな風にたくさん微妙なニュアンスが込められた独特のアニメ映画が、世間に圧倒的に受け入れられているということ自体が、私には不思議だし嬉しい。
昔のつげ義春マンガが広く評価されていることを思って、嬉しくなったのと似ていた。

帰路では妻と、長々と感想を言い合った。私も妻も夜更かし型生活なので寝不足で調子が悪かったけれども、映画の感想を言い合えるのは、気付きが多くなって幸せなことだと感じた。
息子は『ペット』の話題をいくつか話していたが、両親は観ていないのでそれほど応対できない。息子は「こんどは『君の名は。』みたい・・・」と妻に言っていた。
キスシーンもないくらい清潔なストーリーだったのに、バストや股間については執拗な表現がつづいていた。性と生とのリアリティを追求しているのだ。笑いを取るためでもあろう。
・・・やはり5才には早いかもしれない。