2015年3月1日日曜日
表現のコントロールは難しい
私自身はかなりWeb上の表現を自覚的にコントロールしているつもりなのだけれど、それがねらい通りうまくいっているかというと、まったくもってなかなか難しい。自己評価はまだまだ低い。
たとえばこの「手植えノートMemo」ブログは、読者のたのしさ度外視で、お固い内容でも有意味なものを書こうという意図の下、一般一市民としての私自身の思索を開示する試みである。
そこそこ有意味だと思うけれど、しかし肩に力が入りすぎているので、固すぎる。
自分でさえ、読み返してたのしさに欠け、読みぐるしいのである。
これはお読みいただければ分かることだろう。
あるいは「デカルトの重箱」ブログは、デカルトについて知識人が書いたものに噛みつく、という反骨精神全開なコンセプトで書いている。
自ずと、表現にいつも刺々しさがある厳しい内容となる。
いや、それでいいのだ。いいのだが、読み続けると何だかイライラ・カリカリしている(心理学でいうAタイプの)人が書いているような文章で、読んで心地よいものではない。
じつは他にも、公表するためでなく自分の練習用にも生活表現としてのブログを持っている。
心にうつりゆくよしなし事を書き綴るだけだから、そちらも別に面白いものではない。
私の友人・知人は、私のブログをほとんど読まない。かわりに彼らは、私の妻のブログを読んで、私の昨今の動向をぼんやりと把握しているらしい。
妻のブログは写真が効果的に用いられ、文章はライトでビビッドに読者の感性に届く。面白いと、、すこぶる評判が良い。
Webでの表現というのは、一にも二にも目的的であると思う。
だから、楽しく感じさせたいなら楽しく書き、情報を的確に伝えたいなら伝わるように書き、あちらを喧伝してこちらを隠すならそうなるように、効果的に表現すべきである。
私の心には、ふだんの生き方・あり方が「面白おかしく、楽しく有意味に、無理せず、純心と誠意をもって云々」という指針があって、大体そのように生活しているのだけれど、ブログでは「面白くなくても有意味に」という指針をもっていて、それがそのまま形になってしまっている。
だから、実際のじぶんと、ブログ上の文章表現とのギャップが大きい。
これは本意ではない。
「デカルトの重箱」噛みつきブログだって、2chなどで見られるような吐き捨ての嫌味は避けている。
けれど嫌味な感じは残る。
批判のオンパレードを書いているのだから仕方がないか。
もしそれを改めるとすれば、批判を書いてもさほど嫌味でないように、あるいは文章をもっと楽しく、などとコンセプトを変える必要がある。
あたりまえのことを私は今書いているかもしれない。
やり方がそこそこ正しければ、コンセプトどおりに事は進むものなのだから。
だから逆に、コンセプトに見落としがあれば、見落とされたままそれは現実となるのである。
常日頃からフィードバックは欠かせない。
図書でも、よくよく(なぜ印象をフィードバックしないのか?)というものがある。
「人を不快にさせない礼儀作法」を教示する礼儀作法本で、嫌味な姑のごとく一般読者を注意し続けるような文体であることは、よく見かける。読者はどこか不快になるが、これはフィードバックができていないのである。
同様に、CD付の英語学習本で、CDの声がおっかない先生で楽しくなさそうに読んでいたりするものも多い。できの悪い生徒はすぐに離れていく。
爽やかな印象をつくるために、人物やタイトルの後ろに雲浮かぶ美空を合成した本も見かける。気持ちは分かるが、それをみると、未知なる新興宗教的の案内にも見えるから、作り手は注意されたい。爽やかな空の写真は、人工創作物と合成すると、直接的すぎて胡散臭いのである。
きわめつけは、「レイアウト本」だ。本をよりよく作るためのレイアウト教示本そのもののレイアウトがイマイチだったり、見目ダサかったり、字が小さすぎて読みにくかったりということがある。文字が小さいとスタイリッシュに見えるけれど、難読になるのだ。読みにくかったらレイアウトの意味がない。
コンセプトをフィードバックして推敲することは、このように超・重要かつ有用である。
コンセプトを実現できるような技量も自分につけることも、重要ポイントだろう。Web表現に限った話ではない。コンセプトの推敲や技量獲得は、表現するハードルを上げるとともに、頑張りがいを出すのに有効だし、なによりも成果が得られるというものだ。
2015年2月21日土曜日
プロフィール主張の是非について
今回のブログで問いたいのは、「自己のプロフィール」をどう世間に開示するか、という問題である。
「アイデンティティ」についてさらっと考えて、「自己紹介」についてべたっと考えてから、最後の方で、Web上ではどういう「自己プロフィール」のあり方がよいのかをばっちり探ってみたい。
〈「アイデンティティ」について:〉
先日、保育園に通う息子の面談があって、ペンとメモ帳を手にぶらぶらと歩いて登園した。
関東とちがい、すでに沖縄は春の陽気である。
子どもたちは、大きくて真っ黒なカーテンの向こうでお昼寝中で、私と先生は廊下に置かれた小さな椅子に座って対面した。
いろいろと小さな悩みを打ち明けたり相談したのだが、私自身が驚いたのは、わが息子はウチでのワガママっぷり自己主張の強さを、保育園ではまったく発揮せず、完全にイイ子で自己主張のないキャラクターに徹しているという事実だった。
先生は、「それでいいんですよ」言った。我慢と発散のバランスが大事だと言ってくれる。
私 「しかし、かなり二面性を持っているんですね」
先生「お父さん、われわれ大人だって、会社とウチとで分けているじゃないですか。社会性ですよ」
私 「まぁそうですけれど、その二面性の差を、できるだけ小さくしていくのが理想的ですよね」
先生「そうでしょうか?」
ここからは主義、ポリシーの話になるから答えは出るはずもないのだが、私としては、朱子学的な大義名分論(君は君たり、臣は臣たり)よりも、自由主義が性に合っている。そのせいで、会社でも私はまま「言いたい放題なヤツだ」「空気が読めていない」などと呆れられる。
しかし、私自身としてはまだまだ内心・家庭・職場の間のギャップは狭める余地がある。もちろん、誰に対しても同じ顔つきの仮面を被るのではなくて、どこにいても心は裸族でありたいわけである。
まぁ、息子のことは別にいい。
私も妻も学校で自己主張の強いほうではなかったし、それでいて好みはハッキリしていたから、当然、子どももそういうことになるのだろう。
ポリシーや人格は、結局のところ彼が自分で構築していくものだ。
青年期には多くの人がアイデンティティ(自己同一性)の確立に悩む。別々の場所で別々のキャラクターを演じる自身が、一個の人間であるということの整合性を模索する。
近年では、作家の平野啓一郎氏が「分人」という考え方を模索し、他人それぞれに対し別の顔を無数に持つことが人間の本性であるということで、「個人」という普通の考え方に異論を唱えていておもしろい。
これは大義名分論と平等主義との弁証法的な成果のような、あるいはもっと新しいアプローチのようにも思えるのだけれど、ちょっと進むと、まだ単発アイディアの域を出ていないとも感じる。
〈「自己紹介」について:〉
個人的には子どもの頃、自己紹介がとても嫌だった。
話が苦手ではないはずの私だったが、中学1年の時、ある会合で自己紹介ができずに完全に押し黙ってしまったことがある。大人になった今もその時の苦痛を薄っすら覚えている。
かと思えば、世の中にはもの凄く流暢に堂々と自己紹介ができる人もいる。
数年前、ある単発的な会合で見た20歳の女性は、才能に満ちていた。顔も着ている服も美しく、瞳は輝き、高学歴で社会活動も活発、夢も進路も考え方も話法も発言も完成されており、まるでドラマのヒロインがテレビから出てきてしまったのかと思うくらいだった。その人の自己紹介が、やはり凄かったのだ。完璧というのはこういうことかと、妻と私は帰りの車内で思い出しながら唸ってしまった。
しかし、完璧な人物を見ると、私のような凡人はどうも疑いの念を持ち、批判を試みたくなる。嫉妬はあるかもしれないが、それよりも、自分は何をその人から学べて、何を学べないのか、探るためなのである。
まず、全否定を含めた懐疑を試みる。
――そもそも「完璧な自己紹介」というもの自体が、いいのか、悪いのか。必要なものなのか否か。
自己紹介は、即物的なものではない。対他者的な、社会的な構造のなかでの戦略的アプローチの形式である。
自己紹介には、まず内容の事実があり、目的があり、策略があり、取捨選択や見せ方があり、そして成果がある。
(われわれの容姿や身だしなみ、礼儀作法や行動内容など、すべてがこれと同じ要素を含んでいる。髪をムースでガチガチに固めてビシッとしたスーツできめても、客や社員に毛嫌いされていたら、ほとんどムダということだ。)
ということは、もし強烈な才能を印象づけたいのなら「完璧な自己紹介」は成功である。また、人間関係を新たに築くきっかけにしたいのなら、相手を怖じけさせることもあるから、50点になるかもしれない。
いちばん上手いのは、少し“抜く”ことかもしれない。完璧に掃き清められたお寺の境内を掃除するよう命じられ、木立の幹を揺すって自然な落ち葉の散る趣をつくった小僧の話は有名だ。
では、われわれ凡人の大半が一般に述べるような、ありきたりで印象に残らない自己紹介はどうか。
対他者的に何の成果も残さない点では、失敗に近い。30点くらいだろうか。0点の場合もあろう。
しかし、人間は「不快な印象を残さない」ままその場にいるだけで成功、ということがある。無難に目立たずに存在することを目指すのなら、凡庸な自己紹介も成功だろう。
いちばん良いのは、いわゆる「上手だったね」「面白かったね」「タメになったね」という好印象を軽く残す自己紹介か。
まだ知り合うか合わないかの場面では、そういう自己紹介が求められているし、そういう自己紹介をしようと多くの人があれこれ考えている。
自己紹介が社会的構造のなかの目的的な行為である以上、自己紹介する側だけでなく、聞く側についても同じことがいえる。
つまり自己紹介とは、「何か面白い話はないか? 有用な情報はないか?」と期待している人々に、あるいは「有害じゃないことを」と望む人々に、話者それぞれがその期待に応えつつしかも目的的・戦略的に自己をアプローチして成果を期待するという、極めて計算高い行為の応酬劇なのだ!
それゆえ、「まず、自己紹介からはじめましょうか」と進行役の人が言い出すと、幾重にも意図的なものがただよう不自然な居心地の悪さを、われわれの無意識が多かれ少なかれ直感する。
(それにそもそも我々の多くは、自分自身のことなど大して分かっちゃいないのだ。それをアピールしろというのは、ある種の無理難題だろう。)
逆に、目的も活用も期待しない偶然の出会いに自己紹介はいらない。
微笑みと純心だけを胸に、あとは聞きたいことを尋ねあえばよい。
〈Web上の「自己プロフィール」のあり方について:〉
ところが世間には、他人から聞かれもしないのに自らプロフィールを掲げている場面がある。
Web上など、まさに不特定多数の相手に向かって発信している。他にも本のカバーの見返し、雑誌記事の端など。
テレビでもコメンテーターのプロフィールがテロップで流れることがあるが、これはもちろん、「これを言っている人間は、どんな人なの?」と視聴者・読者が知りたがっていることを想定してのことである。講演会などでは自己紹介ではなく、司会が講演者のことを紹介するが、それと同じだ。
けれど、自分で書いた記事や本やWeb記事には、自己紹介することになるのが普通である。
(ときどき、著者のプロフィールに著者の業績を賛美・評価するのが含まれているのをみると、たとえそれを担当しのが編集者だとしても、著者が自賛しているように見えて白々しく感じることがある。尊敬語を自身に使っているのと同じ印象になる。)
で、そうした「不特定多数の人へのプロフィール」をどう表現するか、というのが今回のブログの本題なのである。
Web上のことを考えてみる。
プロフィールに行き着くには、3パターンがある。
1) 記事から
2) 人物から
3) 場から
1)は、記事をみつけて読み、(これはどんな人が書いたのかな?)とプロフィールを見るばあい。
2)は、(この人の書いたのを読もう)と探して読み、そこにあるプロフィールを再確認するばあい。
3)は、SNSのプロフィールのように、記事も人もとばしていきなりプロフィールから見るばあい。
さいしょに取り上げたいのは、3)についてだ。
3)は、さっきのリアルな世界での「自己紹介」に似ているが、もっと唐突で、違和感がある。まったく未知で会ったこともない一般人のプロフィールをわんさか見せつけられても、ほぼジャンク情報でしかない。
ただし、たとえば時間をかけてその人の書いた記事を読み、ネット上でやりとりをしたりすれば、その長いプロフィールも徐々にジャンクではなくなり、人物をイメージするための材料となるだろう。
こういう時、理想的なのは「簡易プロフィール」と「詳細プロフィール」の二段階を踏むことである。
細かくディープなプロフィールは、「もっと知りたい!」という人にだけ開示するのがよい。さいしょから細かいと、(自意識過剰な人だな)と思われる。簡単なプロフィールだけでは、(どんな人かよく分からなかった)で終わる。
これが1)の場合だと、もっと匙加減が難しい。
短いプロフィールが「淡白で不親切」と思われるばあいと、「シンプルで清々しい」と思われる場合とある。
長いプロフィールが「クドくてアピール過剰!」と思われる場合と、「懇切丁寧で分かりやすい」と思われる場合がある。
それこそTPO・場面場面ばかりでなく、読者によりけり・感性如何だったりするのだ。
では2)の場合はどうか。
ある程度その人物を知っていて興味を持ち、さらにもっとその人のことを知りたいと思うからプロフィールを読むわけだから、長いほうがよいに決まっている。
…と、ここまで考察してきたが、ここまでは読者目線を意識しての考察であり、著者自身の都合からも考えておかなければならない。なにしろ、不特定多数の人間に向けて書くのだから。
1) 誰を読者に想定し、何を目的に書くのか?
2) 何を強調して伝え、何を隠したいか?
3) プライベートをどこまで開示するか?
いちばん注意すべきは、3)のプライベートをどこまで開示するか、である。
隠しすぎると内容がツマらなくなる。が、書きすぎれば危険である。世の中、どんな人間がいるか分からない。
匙加減。一にも二にも匙加減である。
センスが問われるし、答えは結局、本人の中で作るしかない。
1)と2)は、戦略と内容が問題になる。
商売ごとならイイトコばかり書いてもいいが、それだと当然、表面的でビジネスライクで押しの強いものになる。
自身をさらけ出しすぎると、不都合も出てくるだろう。それを留意しつつ、他方では覚悟するべきである。言葉はもとより諸刃のヤイバだ。
私が個人的に感じるのは、SNS(フェイスブックやミクシィなど)では一時期、多くの人が情報を開示しすぎていた。アメリカの研究者がそこから個人情報を自動抽出し、街中でスマホのカメラをかざすと、リアルタイムで通りを歩く人間の個人情報が掲示されるというソフトを紹介しているTV番組があったのを覚えている。
そういう一般市民が自己顕示過多なのに対して、逆に著名人や研究者など、世の中に積極的にアプローチしてしかるべき人々がほとんどWeb上で情報を公開していない場合も多くみられる。
なぜ、著名人があえて自分を隠すのか? 研究者が自分の研究成果を積極的に世間に紹介しないのか?
私が理解に苦しむのはそこだ。
以下、具体的にWeb上のプロフィールの例を挙げてリンクを貼ってみたい。
いや実のところ私は特にアニメに詳しいわけではないが、アニメ映画分野で自分が多く観た作品の監督について例示してみました。
・アニメーション監督の押井守氏のプロフィール
http://www.oshiimamoru.com/profile/profile.htm
通常版と詳細版に分かれている! さすがだ。通常版が長めだが、興味のある人間だけが訪れるサイトだから良いと思われる。詳細版が自分史的なのが面白い。
・アニメーション監督の大友克洋氏のプロフィール
http://www.b-ch.com/contents/ohtomo_sp/locus.html
ご自身でつくられたプロフィールではなさそうだが、作品でたどる時系列のカッコいいプロフィールで、最後に別枠で短い一般的なプロフィールが示してある。人物よりも成果としての作品をごらん、という感じだ。
・アニメーション監督の今敏氏のプロフィール
http://konstone.s-kon.net/modules/works/index.php?content_id=1
主として作品でたどるシンプルな時系列プロフィール。プロフィールはひとつだけで、履歴書のように淡白ではあるが、最後に自己プロフィールについての短い考察があって彼のキャラクターの一端が伺える。
・アニメーション監督の宮﨑駿氏のプロフィール
・アニメーション監督の高畑勲氏のプロフィール
言わずと知れたスタジオジブリの2巨匠は、その公式ウェブサイトにさえプロフィールが見当たらない。色んな所に載っているから言わずと知れてるだろう、そもそもプロフィールなんか書きたくないよ、と言わんばかりだ。
2015年1月6日火曜日
“抜け感”試論
昨年放送されたNHKの番組に、「ニッポン戦後サブカルチャー史」という面白いシリーズがあった。
http://www.nhk.or.jp/subculture/lect_list.html
私は録画した分を昨年の11月頃に見た。戦後の大衆文化を時系列で紹介して分析的に解説する番組で、テレビやアニメや歌や劇やゲーム、漫画や服飾や本や言葉など、一言でいえば時代時代の「流行りモノ」ばかりを集め、時事問題と併せて紹介してくれる番組だった。講師は、劇作家・演出家の宮沢章夫である。
その中で、1980年代の広告・コピーがテーマにあげられた回で、私は思わずハッとさせられたことがある。
80年代というとバブル期の末にあたり、2010年代を生きる我々が振り返ると、にぎやかで絢爛で楽しげでありながら、表層的な危うさと嘘くささの漂う、幻想的な一時代に思える。日本では物的な豊かさが過飽和状態となり、大衆によるブランド志向と大量生産・大量消費がピークに達し、それにともなって広告業界が隆盛を極め、5兆円規模にまで膨れていた。
すなわち、商品を売るためのキャッチコピーやテレビCMが、大いに話題になり流行をうみ、消費社会を牽引していた。
さて、そういったコピーやCMが評価されるものほど、あるいは効果的なものほど、宣伝的でないのだという。
宣伝性の低い宣伝ほど宣伝効果がある。…不思議だが、それはひとつの真理でもあった。
どういうことかというと、たとえば。
デパートの宣伝をする広告で、デパートとまったく関係のない事柄が、刺激的な言葉と写真で表現される。
商品を宣伝するためのCMに、商品とは関係のないギャグが放送される。商品説明はない。
こうした評判のCMやポスターを作っていた人々には、カリスマ的な才人が何人もいた。
有名広告プロデューサー・川崎徹氏は、次のようなことを話していた。
「多くの広告が、必要なこと・言いたいことだけ一方的に主張して、惨敗する」
「“抜く”ということが広告ではとても大事です。つまり、本命である宣伝説明を、あえて抜いて無価値化することで、逆に広告の効率をあげる」
そうしてできた“抜け感”のある「完全にムダな」広告こそが、成功する広告なのだという。
有名コピーライター・糸井重里氏。筑紫哲也と交わした雑誌の対談が引用されていた。
この対談は結局、宣伝広告が意味や価値のあるものたりうるのかどうか、という議論であろう。
筑紫 「根源的でダサい質問だけれど、コピーは思想を語れますか?」
糸井 「いや、逆に質問しますと、世の中に思想を含んでいないものが何かありますか? この灰皿ひとつとっても――」
これらを聴いた私は衝撃を受けた。
私が商品説明を作ると、1から100まで説明したくなる。
ポスターを作れば、必要十分に伝えるべきを描きたくなる。
お客様に細かく丁寧に説明しなければ不親切だと、そう思うからおのずとそうなる。
しかし、結果的になぜかポスターはダサく、冴えない仕上がりになってしまう。
“抜け感”という一語に、私は、いつも自分が悩んでいる自分が作るものの“ダサさ”の理由の一端をつかんだ気がした。これこそが“アカ抜ける”ための工夫のひとつなのだと思う。
以上のことを、妻に勇んで話した。すると、こんな返答だった。
「ホント、世間ではよく聞く言葉だよね。“抜け感”とか“着こなし感”とか、ファッション雑誌では他に何か言えないの?っていうくらい」
そ、そんなによく使われている言葉なのか、“抜け感”が…
私は出遅れた感をあじわった。
以来、“抜け感”についていろいろ考えた。
少し似たような考え方が、レイアウトデザインの分野にもある。「ホワイトスペース」のことだ。
なにもない空間を、あえてレイアウトに取り入れる手法である。画面に情報をぎゅうぎゅうに詰め込むと、可読性も下がるし、ダサくなる。
この「ホワイトスペース」は、ヨーロッパの人々が日本の浮世絵から学んだものだと解説されることがある。
けれど、私は本当にそうなのかな、と疑問に思っている。19世紀イギリスの水彩風景画家ターナーの絵にある広い空。18世紀オランダの画家フェルメールによる肖像画にある背景の漆黒。
(宋の時代(960~1279)の水墨画、そこから学んだ室町後期の雪舟…)
そもそも、われわれが生きる現実世界の構成も、そうなっている。
風景は、空というホワイトスペースを含んでいる。机の上も、乗せてあるもの以外は広い背景だ。
話の上手な人は、ときどき「間」をとる。そうして、相手にしばし考えるための余裕を与える。
けれども、雑誌や本などのレイアウトデザインで「ホワイトスペース」を作るには、やはりあえて意識しなければ難しい。
限られた紙面で、情報を必要十分に伝えねばならない。それなのに、情報皆無の空間をあっちにもこっちにも作るのは、ひとつの矛盾であろう。デザイン性を上げるために、広すぎる空白を作ることさえあるが、内心は、載せたいのに載せない感性の板ばさみに苛まれている。
何のためのムダな空白?
きっと「ホワイトスペース」は、“抜け感”をつくるためにあるのだ。
2015年、正月。
私は今年、じぶんの生き方にも“抜け感”を応用してみることにした。
“抜け感”のある生活を目指そう。
どんなことを考えているかというと、
(1) 大切なポイント(目標)は、外さない。
(2) しかしそれ以外は、あえて外す。ムダを多くして、意味や価値を削る。
この「あえて外す」ことが、“抜け感”装置だ。
普通は、「これを頑張ります。他のことも、できるだけ全部がんばります」となるだろう。
それを、「これはがんばります。ほかは頑張りません!」とする。
この工夫で、私は2015年を面白くしたい。
ところで、そもそもなぜ“抜け感”が、“かっこよさ”の要因になりうるのか?
余計な力みをなくして、自然体で表現を発動する。力を“抜く”。
それはわかる。
(職人でも経営者でも俳優でも、実力ある人間は、変な力は入れずに柔軟な動き方をする。太極拳の達人が、気の流れをスムーズに保つように。)
しかし、宣伝広告で、宣伝すべき事柄を伝えすぎてはいけない、どころか、ぜんぜん宣伝と関係のないムダこそがよい(そして実際にその方が宣伝効果がある)のは、一体全体どういう理屈でそうなるのだろう?
私は、ぼんやりと2ヶ月間、そのことを頭の隅で考えていた。
そして、はたと気がついたのだった。
CMやポスターで、本来の広告側の目的である「紹介」や「説明」を十分に展開したとする。
それはしかし、不特定多数の他者への、いわば「挨拶なしの押しつけ情報」なのである。毒のある言い方をすれば、発信者による「押し売り」なのだ。見せられているほうも気づいていないことが多いけれど。
受けとる側のわれわれは、広告主の意図とは別のことを考えながら生活を送っている。
そこに唐突な「挨拶なしの押しつけ情報」が来れば、当然、心には温度差が生じているはずだ。
そうではなく、「ただの面白いなにか」であったなら、どうか。
自然と目はそちらを向く。
我々の生活を楽しませてくれる情報。それはほんのちょっとだけ面白ければ十分で、無意味であっても構わない。
いや、むしろ無意味なほうがよい。
我々は、疲れているのだから。
アピールする場で、あえてポイントをはずして見せ、そうやって油断させておいて、ポイントを射抜く。
“抜く”とは、畢竟、そういう演出なのだ。表面を削って余計なものを付着させて、スゴさを見えにくくしながら、気を引く仕事なのだ。
意味も内容もある、充実しているその表面を、あえて惜しげもなく崩す。乱す。壊す。消す。汚す。
ある意味では、水戸黄門が地位を隠して旅するのと同じ、一種の韜晦(とうかい)趣味。
隠されたスゴいことがチラ見されたとき、かえって本来以上に奥深くかっこよく見える。
しかしそこまで話を広げると、“イキ(粋)”かヤボかの美意識論にまでいってしまい、
「角帯を背筋でしめる野暮な奴」
(浴衣を着るのに、結び目を背のどまんなかにもってきたらイキじゃないよ)
などといった川柳を切り口に、イキとは何か、何がカッコ悪いとか、そんな美学を繰り広げたりして、深いのか浅いのか、もはや何の話をしているのか、わけが分からなくなりそうだ。
少なくとも、野暮な性格の私が語れる領域ではない。
それでも“抜け感”だの“イキ”だのの話で、なんとなく行き着くイメージ。
それはたとえば、正装で決めてぐいぐい自己アピールしてくるギラギラ男よりも、おしゃれ着を着崩してリラックスした様子でぶらり浜辺を歩いている男のほうに、たぶん都会の女はぐっと興味を抱くはずだという、そんな空想の光景だ。
http://www.nhk.or.jp/subculture/lect_list.html
私は録画した分を昨年の11月頃に見た。戦後の大衆文化を時系列で紹介して分析的に解説する番組で、テレビやアニメや歌や劇やゲーム、漫画や服飾や本や言葉など、一言でいえば時代時代の「流行りモノ」ばかりを集め、時事問題と併せて紹介してくれる番組だった。講師は、劇作家・演出家の宮沢章夫である。
その中で、1980年代の広告・コピーがテーマにあげられた回で、私は思わずハッとさせられたことがある。
80年代というとバブル期の末にあたり、2010年代を生きる我々が振り返ると、にぎやかで絢爛で楽しげでありながら、表層的な危うさと嘘くささの漂う、幻想的な一時代に思える。日本では物的な豊かさが過飽和状態となり、大衆によるブランド志向と大量生産・大量消費がピークに達し、それにともなって広告業界が隆盛を極め、5兆円規模にまで膨れていた。
すなわち、商品を売るためのキャッチコピーやテレビCMが、大いに話題になり流行をうみ、消費社会を牽引していた。
さて、そういったコピーやCMが評価されるものほど、あるいは効果的なものほど、宣伝的でないのだという。
宣伝性の低い宣伝ほど宣伝効果がある。…不思議だが、それはひとつの真理でもあった。
どういうことかというと、たとえば。
デパートの宣伝をする広告で、デパートとまったく関係のない事柄が、刺激的な言葉と写真で表現される。
商品を宣伝するためのCMに、商品とは関係のないギャグが放送される。商品説明はない。
こうした評判のCMやポスターを作っていた人々には、カリスマ的な才人が何人もいた。
有名広告プロデューサー・川崎徹氏は、次のようなことを話していた。
「多くの広告が、必要なこと・言いたいことだけ一方的に主張して、惨敗する」
「“抜く”ということが広告ではとても大事です。つまり、本命である宣伝説明を、あえて抜いて無価値化することで、逆に広告の効率をあげる」
そうしてできた“抜け感”のある「完全にムダな」広告こそが、成功する広告なのだという。
有名コピーライター・糸井重里氏。筑紫哲也と交わした雑誌の対談が引用されていた。
この対談は結局、宣伝広告が意味や価値のあるものたりうるのかどうか、という議論であろう。
筑紫 「根源的でダサい質問だけれど、コピーは思想を語れますか?」
糸井 「いや、逆に質問しますと、世の中に思想を含んでいないものが何かありますか? この灰皿ひとつとっても――」
これらを聴いた私は衝撃を受けた。
私が商品説明を作ると、1から100まで説明したくなる。
ポスターを作れば、必要十分に伝えるべきを描きたくなる。
お客様に細かく丁寧に説明しなければ不親切だと、そう思うからおのずとそうなる。
しかし、結果的になぜかポスターはダサく、冴えない仕上がりになってしまう。
“抜け感”という一語に、私は、いつも自分が悩んでいる自分が作るものの“ダサさ”の理由の一端をつかんだ気がした。これこそが“アカ抜ける”ための工夫のひとつなのだと思う。
以上のことを、妻に勇んで話した。すると、こんな返答だった。
「ホント、世間ではよく聞く言葉だよね。“抜け感”とか“着こなし感”とか、ファッション雑誌では他に何か言えないの?っていうくらい」
そ、そんなによく使われている言葉なのか、“抜け感”が…
私は出遅れた感をあじわった。
以来、“抜け感”についていろいろ考えた。
少し似たような考え方が、レイアウトデザインの分野にもある。「ホワイトスペース」のことだ。
なにもない空間を、あえてレイアウトに取り入れる手法である。画面に情報をぎゅうぎゅうに詰め込むと、可読性も下がるし、ダサくなる。
この「ホワイトスペース」は、ヨーロッパの人々が日本の浮世絵から学んだものだと解説されることがある。
けれど、私は本当にそうなのかな、と疑問に思っている。19世紀イギリスの水彩風景画家ターナーの絵にある広い空。18世紀オランダの画家フェルメールによる肖像画にある背景の漆黒。
(宋の時代(960~1279)の水墨画、そこから学んだ室町後期の雪舟…)
そもそも、われわれが生きる現実世界の構成も、そうなっている。
風景は、空というホワイトスペースを含んでいる。机の上も、乗せてあるもの以外は広い背景だ。
話の上手な人は、ときどき「間」をとる。そうして、相手にしばし考えるための余裕を与える。
けれども、雑誌や本などのレイアウトデザインで「ホワイトスペース」を作るには、やはりあえて意識しなければ難しい。
限られた紙面で、情報を必要十分に伝えねばならない。それなのに、情報皆無の空間をあっちにもこっちにも作るのは、ひとつの矛盾であろう。デザイン性を上げるために、広すぎる空白を作ることさえあるが、内心は、載せたいのに載せない感性の板ばさみに苛まれている。
何のためのムダな空白?
きっと「ホワイトスペース」は、“抜け感”をつくるためにあるのだ。
2015年、正月。
私は今年、じぶんの生き方にも“抜け感”を応用してみることにした。
“抜け感”のある生活を目指そう。
どんなことを考えているかというと、
(1) 大切なポイント(目標)は、外さない。
(2) しかしそれ以外は、あえて外す。ムダを多くして、意味や価値を削る。
この「あえて外す」ことが、“抜け感”装置だ。
普通は、「これを頑張ります。他のことも、できるだけ全部がんばります」となるだろう。
それを、「これはがんばります。ほかは頑張りません!」とする。
この工夫で、私は2015年を面白くしたい。
ところで、そもそもなぜ“抜け感”が、“かっこよさ”の要因になりうるのか?
余計な力みをなくして、自然体で表現を発動する。力を“抜く”。
それはわかる。
(職人でも経営者でも俳優でも、実力ある人間は、変な力は入れずに柔軟な動き方をする。太極拳の達人が、気の流れをスムーズに保つように。)
しかし、宣伝広告で、宣伝すべき事柄を伝えすぎてはいけない、どころか、ぜんぜん宣伝と関係のないムダこそがよい(そして実際にその方が宣伝効果がある)のは、一体全体どういう理屈でそうなるのだろう?
私は、ぼんやりと2ヶ月間、そのことを頭の隅で考えていた。
そして、はたと気がついたのだった。
CMやポスターで、本来の広告側の目的である「紹介」や「説明」を十分に展開したとする。
それはしかし、不特定多数の他者への、いわば「挨拶なしの押しつけ情報」なのである。毒のある言い方をすれば、発信者による「押し売り」なのだ。見せられているほうも気づいていないことが多いけれど。
受けとる側のわれわれは、広告主の意図とは別のことを考えながら生活を送っている。
そこに唐突な「挨拶なしの押しつけ情報」が来れば、当然、心には温度差が生じているはずだ。
そうではなく、「ただの面白いなにか」であったなら、どうか。
自然と目はそちらを向く。
我々の生活を楽しませてくれる情報。それはほんのちょっとだけ面白ければ十分で、無意味であっても構わない。
いや、むしろ無意味なほうがよい。
我々は、疲れているのだから。
アピールする場で、あえてポイントをはずして見せ、そうやって油断させておいて、ポイントを射抜く。
“抜く”とは、畢竟、そういう演出なのだ。表面を削って余計なものを付着させて、スゴさを見えにくくしながら、気を引く仕事なのだ。
意味も内容もある、充実しているその表面を、あえて惜しげもなく崩す。乱す。壊す。消す。汚す。
ある意味では、水戸黄門が地位を隠して旅するのと同じ、一種の韜晦(とうかい)趣味。
隠されたスゴいことがチラ見されたとき、かえって本来以上に奥深くかっこよく見える。
しかしそこまで話を広げると、“イキ(粋)”かヤボかの美意識論にまでいってしまい、
「角帯を背筋でしめる野暮な奴」
(浴衣を着るのに、結び目を背のどまんなかにもってきたらイキじゃないよ)
などといった川柳を切り口に、イキとは何か、何がカッコ悪いとか、そんな美学を繰り広げたりして、深いのか浅いのか、もはや何の話をしているのか、わけが分からなくなりそうだ。
少なくとも、野暮な性格の私が語れる領域ではない。
それでも“抜け感”だの“イキ”だのの話で、なんとなく行き着くイメージ。
それはたとえば、正装で決めてぐいぐい自己アピールしてくるギラギラ男よりも、おしゃれ着を着崩してリラックスした様子でぶらり浜辺を歩いている男のほうに、たぶん都会の女はぐっと興味を抱くはずだという、そんな空想の光景だ。
2014年12月11日木曜日
アグリッパ的な、学問の虚しさについて
前回のブログは、題名だけみたならば、中世ヨーロッパで活躍した魔術師“ネッテスハイムのアグリッパ”が書いた『学問の不確実性と虚しさ』とかぶる。
『オカルト哲学について』で有名になったアグリッパは、それで追求されることを恐れて弁解のために『学問の不確実性と虚しさ』を書いたともいわれる。(16世紀やら17世紀のヨーロッパというのは恐ろしい。すぐに何やかやで火刑に処せられるんだからね!)
今のドイツ・ケルン近郊で生まれたアグリッパは放浪の魔術師であったが、医師でもあり、思想家でもあった。
ちょっと考えただけでも面白い人物である。
中公新社の『哲学の歴史』シリーズ〈別巻〉の小口に紹介されている、アグリッパの警句を見てみよう。
「無学な者は昇り、天上に運ばれるが、
われわれは、われわれの学知とともに地獄に沈むだろう」
大戦を繰り返したり、原発事故などを経験したわれわれからすれば、15~16世紀に生きた魔術師のこの言葉をきくと、ぞっとするほどそれらしい気がしてくるではないか。
学知を求めつづけるわれわれは、一体、結局、何が欲しくて、何がしたいのだろうか?
それにしても、彼の著作は部分的にしか邦訳がない。
『オカルト(隠秘)哲学について』の邦訳はないし、『学問の不確実性と虚しさ』の邦訳もない。
『女性の高貴さと卓越性について』もない。
ディレッタント(好事家)の私は、研究者諸氏に向かって叫びたい。「何をやっているんだ、日本の学者たちは!」と。
まぁ、…邦訳がない有名図書などゴマンとあるので、贅沢をいっても仕方がない。
だって、ディドロ・ダランベールの『百科全書』も全部は邦訳されていないのだから。
とはいえ、日本国の翻訳図書の規模は世界でも第一級といわれ、なんでも英語圏に勝るとも劣らないと聞いたことがある。遣隋使の昔から、海外の書物に異様な憧憬を持ち続けてきた島国だからこそ、プリニウスの『博物誌』だって、アリストテレス全集だって、日本語で読めるのだ。そうした事実の裏側には、書斎にこもり黙々と翻訳作業に人生を注ぎ込んだ静かなる情熱人たちの超人的な努力と才能が隠れている。
さて、前回のブログ「学術の根本的な虚しさ」で書いた意見に、やはりちょっとだけ追記しておきたい。
学問が文系にせよ理系にせよ、虚しいにせよそうでないにせよ、要するに学問的な業績というのは、世の中への「影響の程度」がその実体である。だが、我々の持つ価値観は1つ2つではないから、「影響の程度」というものが多様化・重層化し、ややこしいことになる。
まず学問や芸術作品にとって、いちばん大事なのはその「内容」だ。
けれど、「内容」をこしらえた具体的な媒体(作品、書物、言い伝えなど)があり、それを作った人物がいて、その人物が「内容」をこしらえるに至ったエピソードがある。すると、それぞれが「内容」と不可分に成立したがために、それぞれが「内容」と関連づけて尊重され、そして付加価値を持っていく。
今度は、それぞれが単独にバラけていても付加価値を持ったままになるのだ。
単純にいえば、相対性理論さえ分かってしまえばアインシュタインの存在は必要がないし、「ファウスト」があれば作者など分からなくてもよいはずだ。が、世の中ではそうはならない。
それは、成果を利用する側の人間もまた主体的な人格を持つからというのが理由のひとつではある。功績は功績としてフェアに認められ、素晴らしければ素晴らしいほど、人々によって賞賛されたり感謝されるべきだ、そうなるはずだ、と大多数の人が思うし、そう願っているのだ。
モノについても価値が付属する。
成果を読んだり見たりするのに媒体はパソコンでもコピーでも何でもいいのだが、世の中ではやはりそうはならない。
現物としての初版本にはとんでもないプレミアがつき、成果を生んだ本人の性格や生活や静動は特別視され、エピソードがありがたく語り継がれる。
…まず、そんなことが起こる。
さてつぎに、素晴らしい成果を作ってたとしても、表現が下手だったり、周囲の人間のレベルがまだ低すぎて成果が認められないこともある。
ゴッホの絵は、生前に1枚しか売れなかった(やがて1枚約60億円の値が付けられた)し、シェイクスピアがイギリス以外で認められるようになるのは死後150年が過ぎてからだ。
メンデル牧師のエンドウ豆の遺伝研究は、再発見されるまで数十年もほったらかしにされたし、アボガドロの気体分子の法則も、生前は無視された。
この時、ゴッホやシェイクスピアなど文化系分野は作品自体が残り、それが後々影響力を発揮するのだからまだいい。
しかし、科学の分野ではいかがであろうか。
再発見によって、過去の研究成果が遡って評価を得るというルールは、実質的にはまったく世の中への影響力を持たなかった成果を崇める風習である。実質的な影響は、再発見による成果こそが発揮するはずだ。
しかし世間では、発明・発見・創作というのは、先取権が誰にあるのかが重要とみなされる。世間による評価がフェアであることを重視するがためだ。けれど、とっくに亡くなっている人を辻褄合わせに評価し直しても、本人はもういない。再発見によって実際の手柄をたてたはずの人の評価は、ぐんと下がってしまう。いいことはない。
つまり、世の中への影響力を考えた場合には、虚しいかな、いくら素晴らしい成果を上げても、状況によってはどうにもならないのである。
大体、不理解を示す人間が大多数であるはずの世間に対して、成果を示そうとしているのが研究者なのだから、何のために研究者は孤高を決め込んで誰のために頑張るのか。自己満足のためか、世間で認められたいがためか。きっとどちらも当たりであり、どちらも違うのだ。その点では、孤高の研究者も我々凡人愚人と同じである。またそうだからこそ、第一級の研究者が何万人も集まって原爆を作ったり、戦闘機を作ったりする。
そして、そうなってしまうのは、つまるところ“根本的な哲学がアマイ”からなのだ。
アグリッパの警句を、いまだに克服していないからなのである。
学問批判・文明批判はもちろんアグリッパの独占物ではない。
東洋でも、老子や神仙思想による道教ではあるがままに生きることが説かれ、余計な学問や文明は捨てよということだった。
文明を捨てて「自然に帰れ」とルソーも言っていた。
現代においても(ちょっと違うかもしれないが)、科学技術偏重の社会は、少なくとも表層的には、われわれ一般の批判の対象になっている。いや、反省反省といいながら全然反省の色が見えない気もするわけだけれども。
ああそれにしても、アグリッパをちゃんと読んで何かを述べるには、やはり自分でフランス語かラテン語をやらなくちゃいけないのか?
そんなことってあるだろうか? これだけ有名なアグリッパなのに。
何をやっているんだ、日本の学者たちは?
いやいや、日本の翻訳図書状況というのは世界でも立派なものだし…
『オカルト哲学について』で有名になったアグリッパは、それで追求されることを恐れて弁解のために『学問の不確実性と虚しさ』を書いたともいわれる。(16世紀やら17世紀のヨーロッパというのは恐ろしい。すぐに何やかやで火刑に処せられるんだからね!)
今のドイツ・ケルン近郊で生まれたアグリッパは放浪の魔術師であったが、医師でもあり、思想家でもあった。
ちょっと考えただけでも面白い人物である。
中公新社の『哲学の歴史』シリーズ〈別巻〉の小口に紹介されている、アグリッパの警句を見てみよう。
「無学な者は昇り、天上に運ばれるが、
われわれは、われわれの学知とともに地獄に沈むだろう」
大戦を繰り返したり、原発事故などを経験したわれわれからすれば、15~16世紀に生きた魔術師のこの言葉をきくと、ぞっとするほどそれらしい気がしてくるではないか。
学知を求めつづけるわれわれは、一体、結局、何が欲しくて、何がしたいのだろうか?
それにしても、彼の著作は部分的にしか邦訳がない。
『オカルト(隠秘)哲学について』の邦訳はないし、『学問の不確実性と虚しさ』の邦訳もない。
『女性の高貴さと卓越性について』もない。
ディレッタント(好事家)の私は、研究者諸氏に向かって叫びたい。「何をやっているんだ、日本の学者たちは!」と。
まぁ、…邦訳がない有名図書などゴマンとあるので、贅沢をいっても仕方がない。
だって、ディドロ・ダランベールの『百科全書』も全部は邦訳されていないのだから。
とはいえ、日本国の翻訳図書の規模は世界でも第一級といわれ、なんでも英語圏に勝るとも劣らないと聞いたことがある。遣隋使の昔から、海外の書物に異様な憧憬を持ち続けてきた島国だからこそ、プリニウスの『博物誌』だって、アリストテレス全集だって、日本語で読めるのだ。そうした事実の裏側には、書斎にこもり黙々と翻訳作業に人生を注ぎ込んだ静かなる情熱人たちの超人的な努力と才能が隠れている。
さて、前回のブログ「学術の根本的な虚しさ」で書いた意見に、やはりちょっとだけ追記しておきたい。
学問が文系にせよ理系にせよ、虚しいにせよそうでないにせよ、要するに学問的な業績というのは、世の中への「影響の程度」がその実体である。だが、我々の持つ価値観は1つ2つではないから、「影響の程度」というものが多様化・重層化し、ややこしいことになる。
まず学問や芸術作品にとって、いちばん大事なのはその「内容」だ。
けれど、「内容」をこしらえた具体的な媒体(作品、書物、言い伝えなど)があり、それを作った人物がいて、その人物が「内容」をこしらえるに至ったエピソードがある。すると、それぞれが「内容」と不可分に成立したがために、それぞれが「内容」と関連づけて尊重され、そして付加価値を持っていく。
今度は、それぞれが単独にバラけていても付加価値を持ったままになるのだ。
単純にいえば、相対性理論さえ分かってしまえばアインシュタインの存在は必要がないし、「ファウスト」があれば作者など分からなくてもよいはずだ。が、世の中ではそうはならない。
それは、成果を利用する側の人間もまた主体的な人格を持つからというのが理由のひとつではある。功績は功績としてフェアに認められ、素晴らしければ素晴らしいほど、人々によって賞賛されたり感謝されるべきだ、そうなるはずだ、と大多数の人が思うし、そう願っているのだ。
モノについても価値が付属する。
成果を読んだり見たりするのに媒体はパソコンでもコピーでも何でもいいのだが、世の中ではやはりそうはならない。
現物としての初版本にはとんでもないプレミアがつき、成果を生んだ本人の性格や生活や静動は特別視され、エピソードがありがたく語り継がれる。
…まず、そんなことが起こる。
さてつぎに、素晴らしい成果を作ってたとしても、表現が下手だったり、周囲の人間のレベルがまだ低すぎて成果が認められないこともある。
ゴッホの絵は、生前に1枚しか売れなかった(やがて1枚約60億円の値が付けられた)し、シェイクスピアがイギリス以外で認められるようになるのは死後150年が過ぎてからだ。
メンデル牧師のエンドウ豆の遺伝研究は、再発見されるまで数十年もほったらかしにされたし、アボガドロの気体分子の法則も、生前は無視された。
この時、ゴッホやシェイクスピアなど文化系分野は作品自体が残り、それが後々影響力を発揮するのだからまだいい。
しかし、科学の分野ではいかがであろうか。
再発見によって、過去の研究成果が遡って評価を得るというルールは、実質的にはまったく世の中への影響力を持たなかった成果を崇める風習である。実質的な影響は、再発見による成果こそが発揮するはずだ。
しかし世間では、発明・発見・創作というのは、先取権が誰にあるのかが重要とみなされる。世間による評価がフェアであることを重視するがためだ。けれど、とっくに亡くなっている人を辻褄合わせに評価し直しても、本人はもういない。再発見によって実際の手柄をたてたはずの人の評価は、ぐんと下がってしまう。いいことはない。
つまり、世の中への影響力を考えた場合には、虚しいかな、いくら素晴らしい成果を上げても、状況によってはどうにもならないのである。
大体、不理解を示す人間が大多数であるはずの世間に対して、成果を示そうとしているのが研究者なのだから、何のために研究者は孤高を決め込んで誰のために頑張るのか。自己満足のためか、世間で認められたいがためか。きっとどちらも当たりであり、どちらも違うのだ。その点では、孤高の研究者も我々凡人愚人と同じである。またそうだからこそ、第一級の研究者が何万人も集まって原爆を作ったり、戦闘機を作ったりする。
そして、そうなってしまうのは、つまるところ“根本的な哲学がアマイ”からなのだ。
アグリッパの警句を、いまだに克服していないからなのである。
学問批判・文明批判はもちろんアグリッパの独占物ではない。
東洋でも、老子や神仙思想による道教ではあるがままに生きることが説かれ、余計な学問や文明は捨てよということだった。
文明を捨てて「自然に帰れ」とルソーも言っていた。
現代においても(ちょっと違うかもしれないが)、科学技術偏重の社会は、少なくとも表層的には、われわれ一般の批判の対象になっている。いや、反省反省といいながら全然反省の色が見えない気もするわけだけれども。
ああそれにしても、アグリッパをちゃんと読んで何かを述べるには、やはり自分でフランス語かラテン語をやらなくちゃいけないのか?
そんなことってあるだろうか? これだけ有名なアグリッパなのに。
何をやっているんだ、日本の学者たちは?
いやいや、日本の翻訳図書状況というのは世界でも立派なものだし…
2014年9月26日金曜日
学術の根本的な虚しさについて
15年ほど前のほんのごくちょっとした記憶が、コーヒーカップについた渋のように胸に残っている。
私は元来モテないタイプの男ではあるが、大学時代、付き合ってくれていた女の子とはよく商店街のミスタードーナツで待ち合わせをしたものだ。
ある日店に入ると、まだ彼女はいなかった。かわりに高校時代の同級生2人がいるのを見た。目が合って、「おお!」などと声を掛け合い、しばらく同席した。友人の友人程度の間柄だった。
「大学は何学部?」
専攻を聞かれたので「農学部ですよ」と答えると、その2人はなぜか大いに反応した。
「農学部! 理系じゃん。農学部ってさ、どんなこと勉強するの? 全然想像がつかない」
「ぼくの専攻は、一応、田んぼなんだけど」
「田んぼ!?」
2人は目を大きくして笑った。
「田んぼって…田んぼの何を?」
もうひとりが笑って言う。「アメンボとか? カエルとか?」
「ドジョウとか?」
「まぁ、そういうことも含めてね」と私は応じた。
「そういうことも含めて?!」
実際、まんざら外れてもいなかった。私は水田のタイプごとの生態系の違いを調べるために、さまざまな田んぼを駆けて虫網を振り回しながら動植物を追ったりもしていた。
2人は声をあげて笑いながら、こう訊いた。
「ホント? それって遊びじゃないの?」
「それ研究してさ、何か意味ってあるの?」
彼らは農学部を侮辱していたわけではないと思うが、私はその時、決定的な価値観の違いを見せつけられて驚いた。
その2人は、経済学部と商学部だった。
私はその時、内心では(経済学こそ、ほとんど無意味なんじゃないのか?)と思っていたからだ。
私は当時、こういう考えを持っていた。――経済は人間社会に自然発生するシステムで、何度壊れても人間社会があるかぎり再生するものだし、長い生物史を鑑みれば、ほとんどどうでもいいことである。それを学問として追求したところで大した意味はなく、役立てようと思っても当たるも八卦当たらぬも八卦程度だろう。ましてや誰が大富豪になって誰が大損をしたとかいうそんな話ならば、ゴシップ記事と同じである。
それに対して、生物や環境を研究することは自然を知ることのひとつで、すなわち絶対不変の世界の真理に近づくことであるから、人類にとって非常に大切で有益なことなのだ、と。
これは、単純にいえば理系重視か文系重視かという価値観の問題である。
個人個人は、その人にとって、より重要だと思う分野へと進むことだろう。
だが今では私はこう思っている。人はそれぞれ、文系-理系を縦横無尽に行き交うべきである。マルチに生きたほうが豊かである。単純でない世界を曲がりなりにも捉えて生きようとするならば、様々な視座が必要になるからだ。
さて、そもそも「意味がある」とはどういうことか。
意味論、認識論の分野であろうが、私は私なりに考えてみる。
まず「意味」ということの意味は、「ほんとうの真理」とか「そうなる理由」ではなく、「脈絡による裏付け」としておく。言葉の内容を分析的に認識することは、また別の言葉の意味につながり、それは脈々と続けられうるからである。(「ほんとうの真理」や「理由」を人はふつうそこに求めている。)
アインシュタインが2つの相対性理論を確立して、なぜ褒め称えられるのか。
ゲーテの言葉は時を経ても無数に引用され、なぜ褒め称えられるのか。
世間では、アインシュタインの仕事にもゲーテの仕事にも、つまりは大いに「意味があった」として讃えられている。
「彼らの仕事の価値が、社会に広く長く続いている」とも、大体言い換えられる。
アインシュタインの仕事と、ゲーテの仕事を、どちらが価値があるか考えてみる。
理系の仕事、文系の仕事、どちらが素晴らしいのか。
おそらく大体、理系の仕事をしている人々はアインシュタインを、文系の仕事をしている人々はゲーテをより評価するだろう。
しかし私はマルチに捉えて評価を下したい。
理系は自然真理を追求する。
文系は人間真理を追求する。
人間真理は物理的存在としては自然真理に内包されるが、主体的存在としては逆に、人間真理が自然真理を内包する。
これは世界-主体の関係の問題だ。(世界が私を作り、私が世界を作る)
相対性理論はアインシュタインが発見しなくても真理であるかぎり、誰かが発見したであろう。
それだと、別にアインシュタインはいてもいなくてもよかったということになる。(奇妙な思考実験だが、人類に先んじた科学文明をもつ宇宙人が渡来して交流があれば、これまで人類が蓄えた科学的知識の発見者名はやがて無価値になるだろう。)
自然真理の発見については、万事これと同じことがいえる。つまり、自然真理の発見事項に、発見者本人の存在は人々が称賛するほどの意味はない。
アインシュタインの仕事の価値はそんな程度のものだ。
文学はどうか。
文学は、人間の心理に働きかける。人間の心理はその人それぞれの時代背景に基づく生活環境に根ざす。そこから外れれば外れるほど、伝わり方が歪んでくる。
時代を経れば、生活環境はどんどん変わるだろう。古典を読むと、取り出せるものが少なくなってくる。真理に近いことが書かれていれば評価は倍増するが、現代人が変だと思うことも目につくようになる。
人間は、どんどんこれからも変わるのである。社会も変わるし、人の体も心も変わってしまう。
ちなみに700万年前くらいに人類はチンパンジーと別れたそうだから、700万年も経てば我々は別の生物種になっていることだろう。
ということは、文学にしても絵画にしても、文系の仕事というものは後世になればいつか価値は失われるであろう。そして、新しい傑作の方に、価値は次々置き換わっていくはずだ。
ゲーテの仕事の価値というのは、そんな程度のものなのだ。
明確な答えを出そう。
どの学術分野でもその価値は虚しいものであるというのが、私の考察結果だ。
この考察結果に、パスカル『パンセ』に似た清純かつ虚しい感覚を自分では覚える。
私は元来モテないタイプの男ではあるが、大学時代、付き合ってくれていた女の子とはよく商店街のミスタードーナツで待ち合わせをしたものだ。
ある日店に入ると、まだ彼女はいなかった。かわりに高校時代の同級生2人がいるのを見た。目が合って、「おお!」などと声を掛け合い、しばらく同席した。友人の友人程度の間柄だった。
「大学は何学部?」
専攻を聞かれたので「農学部ですよ」と答えると、その2人はなぜか大いに反応した。
「農学部! 理系じゃん。農学部ってさ、どんなこと勉強するの? 全然想像がつかない」
「ぼくの専攻は、一応、田んぼなんだけど」
「田んぼ!?」
2人は目を大きくして笑った。
「田んぼって…田んぼの何を?」
もうひとりが笑って言う。「アメンボとか? カエルとか?」
「ドジョウとか?」
「まぁ、そういうことも含めてね」と私は応じた。
「そういうことも含めて?!」
実際、まんざら外れてもいなかった。私は水田のタイプごとの生態系の違いを調べるために、さまざまな田んぼを駆けて虫網を振り回しながら動植物を追ったりもしていた。
2人は声をあげて笑いながら、こう訊いた。
「ホント? それって遊びじゃないの?」
「それ研究してさ、何か意味ってあるの?」
彼らは農学部を侮辱していたわけではないと思うが、私はその時、決定的な価値観の違いを見せつけられて驚いた。
その2人は、経済学部と商学部だった。
私はその時、内心では(経済学こそ、ほとんど無意味なんじゃないのか?)と思っていたからだ。
私は当時、こういう考えを持っていた。――経済は人間社会に自然発生するシステムで、何度壊れても人間社会があるかぎり再生するものだし、長い生物史を鑑みれば、ほとんどどうでもいいことである。それを学問として追求したところで大した意味はなく、役立てようと思っても当たるも八卦当たらぬも八卦程度だろう。ましてや誰が大富豪になって誰が大損をしたとかいうそんな話ならば、ゴシップ記事と同じである。
それに対して、生物や環境を研究することは自然を知ることのひとつで、すなわち絶対不変の世界の真理に近づくことであるから、人類にとって非常に大切で有益なことなのだ、と。
これは、単純にいえば理系重視か文系重視かという価値観の問題である。
個人個人は、その人にとって、より重要だと思う分野へと進むことだろう。
だが今では私はこう思っている。人はそれぞれ、文系-理系を縦横無尽に行き交うべきである。マルチに生きたほうが豊かである。単純でない世界を曲がりなりにも捉えて生きようとするならば、様々な視座が必要になるからだ。
さて、そもそも「意味がある」とはどういうことか。
意味論、認識論の分野であろうが、私は私なりに考えてみる。
まず「意味」ということの意味は、「ほんとうの真理」とか「そうなる理由」ではなく、「脈絡による裏付け」としておく。言葉の内容を分析的に認識することは、また別の言葉の意味につながり、それは脈々と続けられうるからである。(「ほんとうの真理」や「理由」を人はふつうそこに求めている。)
アインシュタインが2つの相対性理論を確立して、なぜ褒め称えられるのか。
ゲーテの言葉は時を経ても無数に引用され、なぜ褒め称えられるのか。
世間では、アインシュタインの仕事にもゲーテの仕事にも、つまりは大いに「意味があった」として讃えられている。
「彼らの仕事の価値が、社会に広く長く続いている」とも、大体言い換えられる。
アインシュタインの仕事と、ゲーテの仕事を、どちらが価値があるか考えてみる。
理系の仕事、文系の仕事、どちらが素晴らしいのか。
おそらく大体、理系の仕事をしている人々はアインシュタインを、文系の仕事をしている人々はゲーテをより評価するだろう。
しかし私はマルチに捉えて評価を下したい。
理系は自然真理を追求する。
文系は人間真理を追求する。
人間真理は物理的存在としては自然真理に内包されるが、主体的存在としては逆に、人間真理が自然真理を内包する。
これは世界-主体の関係の問題だ。(世界が私を作り、私が世界を作る)
相対性理論はアインシュタインが発見しなくても真理であるかぎり、誰かが発見したであろう。
それだと、別にアインシュタインはいてもいなくてもよかったということになる。(奇妙な思考実験だが、人類に先んじた科学文明をもつ宇宙人が渡来して交流があれば、これまで人類が蓄えた科学的知識の発見者名はやがて無価値になるだろう。)
自然真理の発見については、万事これと同じことがいえる。つまり、自然真理の発見事項に、発見者本人の存在は人々が称賛するほどの意味はない。
アインシュタインの仕事の価値はそんな程度のものだ。
文学はどうか。
文学は、人間の心理に働きかける。人間の心理はその人それぞれの時代背景に基づく生活環境に根ざす。そこから外れれば外れるほど、伝わり方が歪んでくる。
時代を経れば、生活環境はどんどん変わるだろう。古典を読むと、取り出せるものが少なくなってくる。真理に近いことが書かれていれば評価は倍増するが、現代人が変だと思うことも目につくようになる。
人間は、どんどんこれからも変わるのである。社会も変わるし、人の体も心も変わってしまう。
ちなみに700万年前くらいに人類はチンパンジーと別れたそうだから、700万年も経てば我々は別の生物種になっていることだろう。
ということは、文学にしても絵画にしても、文系の仕事というものは後世になればいつか価値は失われるであろう。そして、新しい傑作の方に、価値は次々置き換わっていくはずだ。
ゲーテの仕事の価値というのは、そんな程度のものなのだ。
明確な答えを出そう。
どの学術分野でもその価値は虚しいものであるというのが、私の考察結果だ。
この考察結果に、パスカル『パンセ』に似た清純かつ虚しい感覚を自分では覚える。
2014年7月30日水曜日
表現の禁則処理
ワープロソフトで「禁則処理をかける」といえば、たとえば改行した際に頭に「。」や「、」が来てしまったりしないように、入力結果が「そうならないようにルールとして」処理させることである。
それと似たことで、自分の考えを表現する場合に「そう表現しないように」していることが、私にはいくつかある。
ここにあえて示しておきたい理由は、それが人それぞれのセンスや好みの問題でもあるからだ。私がそう思っていても世の中ではそう思われていないことは多い。やもすると、私だけが歪んだ思想を持っているのかもしれない。
もちろん自分では「自分のがイイ考え方だ」と思っているから、そうしているし、ここに示して各人それぞれの反応を期待したいのである。
1.思想の「危険」視
保守思想は革新派の思想を、革新は保守を、つまりお互いの意見を批判する際に、よく「それは非常に危険な考え方で」と書いたり、影響力のある本のことを「危険な書物」と評したり、社会の方向性をみて「危険な傾向」と言ったりする。
その「気持ち」は分かる。私のばあいは、安倍首相が憲法の解釈を変えたり憲法改正を急いだりして、戦争により向かいやすくなりつつある社会傾向を、「大丈夫だろうか?」と感じることがある。
しかし、あえて私は「危険」という言葉は使わない。
なぜなら「危険」という言葉は簡単で便利だけれど、脅迫的な強調表現だからである。理屈でなく独断で説得にかかろうとする一言だからだ。
「危険」という言い回しのニュアンスを考えるとわかるだろう。
“好まない方向に他者が進むことを予防したいがための、全否定を込めた独断的な注意喚起”
の表現なのである。いわば「通せんぼ」するための一言であろう。
だから崖崩れの注意喚起とか電気製品の使用上の注意などではなく、思想分野に「危険」を使うとなると、奇妙なことになる。
それでも、なかには実際に危険な思想がある、という人もいる。
たとえばオウム真理教やナチズム、イスラム原理主義など。
しかしこれらのものだって、危険だからと遠ざけたまま思考・言論の俎上に載せないのは私はよくないと思う。
欧州ではナチズムが禁止されている。それでいて、否定されさえすればコメディ映画にでもアクション映画にでも使用できる。他方、欧州のあくなき戦争参加は終わらない。ただナチズム的思考停止が法的に行われているのみだから、ナチズム禁止と、民族差別の禁止あるいは戦争の禁止とは接続しないわけだ。
ヴォルテールに有名な言葉がある。
「私はあなたの意見には反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利を私は命をかけて守る」
ちょっと演技じみていてこそばゆいが、さすがは18世紀の代表的な啓蒙思想家、誠実な態度を示している。
彼は、「危険」と言って相手の思考停止を狙ったり、相手の情報摂取を阻止するようなことはしないのだ。
さて、ひとつ具体的な例をあげておけば、佐藤優・立花隆共著『ぼくらの頭脳の鍛え方』という本では、佐藤氏がプラトン著『国家』を「危険な書物」として論難している。佐藤氏は「危険」という表現がお好きで常用する。
ただし、「危険」表現好きの評論家は佐藤氏のみではない。右向き傾向・左向き傾向の強い雑誌を開けば、必ずと言っていいほど思想の「危険視」表現は何度も登場する。ぜひ、留意してあれこれ読んでみていただきたい。
2.批判行為の否定
批判とは否定的内容を含む評論のことだから、むろん批判を受けた側はふつう快く思わない。
それで、反論に出る。――ここまではよい。
だがその反論の中でよく耳にするのが、
「そんなこと言われたら、何もできなくなっちゃうじゃないですか」
という表現である。
「こっちは頑張ってるのに、何で批判なんかするんだよ」という気持ちの表れなのだが、まるで批判を被ったことで実際に全てを潰されるかのように想定して、批判の存在自体を非難してしまうのである。
そこに論理の飛躍がある。
「批判」とは否定的な「意見」である。「意見」を受けただけで、すべてを阻止されたかのように書くのは正当な反応ではない。
まず、不特定の者から批評を受ける立場にあるもの(=公になっているものすべて!)は、その当事者としては、もちろん肯定的な意見を望んでいるだろう。
肯定的意見なら嬉しいし発展にも繋がりやすい一方で、否定的意見なら不満だし後退にも繋がりやすいということはある。
だが、肯定的意見だけウェルカムで否定的意見はいけません、と批評内容をコントロールすることなど出来はしない。
発信している以上、受信側に何らかの影響を与えている。ということは、受信側の意見が反応として返ってくるばあい、こんどは発信者がその受信者となる。常に、発信する側に内容の決定権はある。
反応を受理するかどうかについては、受け取る側にその自由はあろう。ただ誠意があるならば、自身の発信したものに対しては、どんな反応をも一旦は受理しようとするに違いない。
批判される側の心の痛みはわかる。まるで実害を受けたかのような不快感だろう。
人は元来、批判に弱いものだ。
しかし、批判の段階ではまだ強制性はほとんどない。批判を受け取る側の反応にそれはかかっている。
さて同じく、「批判」したものへの返答的「批判」も、可である。
「批判しているのはこちらなのだから、批判されたほうはそれを呑め!」というのはただの横暴だ。
批判されたら批判的に返答し、さらにそれに批判を返し、そういったことが論が尽きるまで続くのが、私は望ましいと思う。
次第に互いの思想の中に、答えは練り出されてくる。
3.「未成熟」の年齢表現
思想、考察のなかには、あまりにも「稚拙」だったり「幼稚」なものが時としてみられる。
その延長線上で、「ケツの青い」「おしゃぶりでもしてろ」「よだれ掛けして」などの表現は、「お前はまだ赤ん坊の域を出ていない」つまり大人のじぶんとは成熟さにおいて雲泥の差があってキミとは話にならないよ、という侮辱を込めた批判表現だろう。
それは、大人なら誰しも経験値がある程度は上がっているので、初期的で荒削りすぎて、一般的な批判で吹き飛ぶような意見は残らず、ある程度の反対意見には対抗できるくらいには常識的かつ堅牢になっていると、そう見込んでいるからこそそうでない場合を指していう批判表現である。
とくに専門家や政治的立場にある人間が、言ってはダメなことと子供でも判別できることをうっかり発言する様子をみると、その立場にいるべき人間では困る、専門家のくせに、と民衆が思うのも自然なことだ。
さて、そこに年齢を持ち込む表現をする人がよくいる。
「3才の子どもかよ」
「小学生レベル」「中学生レベル」
「15~6歳の子供のように」
私は、その年齢ごと特有の一般的な精神状態を認めつつも、こうした批判表現を感じ良く思わない。
なぜなら、その年齢にはその年齢での精神的真理があるからだ。その頃の本当の悩みがあり、思考があり、大人になって失われてしまう大切なものもある。また同時に、同年齢層にも様々な生き方があるわけで、多様性の存在を無視して一括してイメージ化するのもいただけない。
マッカーサーは戦後日本のことをこう言った。
「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年だ」
これは民主主義の成熟度の低さについて言ったとか、変化の可能性について言ったとか、文化の違いについていったとか、つまり賛否の両方を込めた多義的な一言である。
クレイジーケンバンドの「ガールフレンド」という歌に、
「食事も食事も ろくに喉通らぬ 中学生でもあるまいに」
と恋愛感覚を学年的に表現した面白い一節がある。
…こういうことは、一般表現として有効性が見込める。
ところが、それを侮蔑的批判表現に使うと、表現が品格を落とすこととなる。
私の手元にあるあからさまな具体例を以下に示そう。
雑誌『映画芸術』の2013年秋号に載っている、ドラマと映画に関する連続討論の記事の中に、宮﨑駿監督『風立ちぬ』に対する批判的評論があって、こう語られている文章がある。
・西部邁 「この映画を作った人の理性や感性は、人間で言うと15、16歳で止まった精神世界の人なんだろうなと思った」
・西部邁 「そのセンチメンタリズムなどに、15、16歳の精神だなと感じてはいました」
・西部邁 「15、16歳の子供がこの映画を見て喜ぶのは分からなくもないけれど、二十歳過ぎた大人だと、もう少し考えようぜ、と」
・西部邁 「日本の左翼連中というのは、15、16歳で精神年齢が止まっている人が多いね」
・寺脇研「(宮崎アニメは『コクリコ坂から』以降)それこそ15、16歳の精神年齢に戻ってしまった」
・寺脇研「(『軽井沢の描き方も)それこそ15、16歳の少年の妄想世界としてでしかありませんよね」
なぜか執拗に「15、16歳の精神年齢」を批判表現に用いるくだりであるが、彼らは「年齢相応の精神であれよ、みっともないから」といいたいのである。西部・寺脇両氏の精神年齢がおいくつなのかは知らないが。
しかし、年齢相応がよいことなのかどうかは、人それぞれの価値観でまるで違ってくる。
詩人のまどみちお氏は100歳を超えても心は子供のままだとご自身で言っていた。
ロックバンドTHE BOOM の「いつもと違う場所で」という歌に、「人はみな大人になろうと懸命に努力してる子供だろ?」という一節があった。
結局、大人の精神年齢というものは極めて疑わしく曖昧な表現なのである。だから、そのような表現を用いたところで、正確で論理的な批評ができるはずもない。
年齢だけでなく、「思春期」「中年」「更年期」「オバさん」「ジジイ」「老人」なども、表現そのものからすればただ年齢的状態あるいは状態的年齢期を指している言葉が、使い方によって侮蔑的な批判表現として用いられうる。
表現したいイメージは、何となく伝わってくる。
だがそれでも、限定的で総括的な象徴表現だからこそ、不配慮な点をいくつも含んでいることにも自覚的でなければならない。
断っておくが、私は言葉狩りをしたいのではない。
だから、こうした表現を誰に「禁止」するつもりも毛頭ない。
けれど自分には「禁則処理」をかけて極力使わないし、こうした言葉を使っている文章については厳しい眼差しで読むことになる。
必要ならば批判もする。だから表現者は、批判を覚悟して表現するべきであると、私は言いたい。
それと似たことで、自分の考えを表現する場合に「そう表現しないように」していることが、私にはいくつかある。
ここにあえて示しておきたい理由は、それが人それぞれのセンスや好みの問題でもあるからだ。私がそう思っていても世の中ではそう思われていないことは多い。やもすると、私だけが歪んだ思想を持っているのかもしれない。
もちろん自分では「自分のがイイ考え方だ」と思っているから、そうしているし、ここに示して各人それぞれの反応を期待したいのである。
1.思想の「危険」視
保守思想は革新派の思想を、革新は保守を、つまりお互いの意見を批判する際に、よく「それは非常に危険な考え方で」と書いたり、影響力のある本のことを「危険な書物」と評したり、社会の方向性をみて「危険な傾向」と言ったりする。
その「気持ち」は分かる。私のばあいは、安倍首相が憲法の解釈を変えたり憲法改正を急いだりして、戦争により向かいやすくなりつつある社会傾向を、「大丈夫だろうか?」と感じることがある。
しかし、あえて私は「危険」という言葉は使わない。
なぜなら「危険」という言葉は簡単で便利だけれど、脅迫的な強調表現だからである。理屈でなく独断で説得にかかろうとする一言だからだ。
「危険」という言い回しのニュアンスを考えるとわかるだろう。
“好まない方向に他者が進むことを予防したいがための、全否定を込めた独断的な注意喚起”
の表現なのである。いわば「通せんぼ」するための一言であろう。
だから崖崩れの注意喚起とか電気製品の使用上の注意などではなく、思想分野に「危険」を使うとなると、奇妙なことになる。
それでも、なかには実際に危険な思想がある、という人もいる。
たとえばオウム真理教やナチズム、イスラム原理主義など。
しかしこれらのものだって、危険だからと遠ざけたまま思考・言論の俎上に載せないのは私はよくないと思う。
欧州ではナチズムが禁止されている。それでいて、否定されさえすればコメディ映画にでもアクション映画にでも使用できる。他方、欧州のあくなき戦争参加は終わらない。ただナチズム的思考停止が法的に行われているのみだから、ナチズム禁止と、民族差別の禁止あるいは戦争の禁止とは接続しないわけだ。
ヴォルテールに有名な言葉がある。
「私はあなたの意見には反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利を私は命をかけて守る」
ちょっと演技じみていてこそばゆいが、さすがは18世紀の代表的な啓蒙思想家、誠実な態度を示している。
彼は、「危険」と言って相手の思考停止を狙ったり、相手の情報摂取を阻止するようなことはしないのだ。
さて、ひとつ具体的な例をあげておけば、佐藤優・立花隆共著『ぼくらの頭脳の鍛え方』という本では、佐藤氏がプラトン著『国家』を「危険な書物」として論難している。佐藤氏は「危険」という表現がお好きで常用する。
ただし、「危険」表現好きの評論家は佐藤氏のみではない。右向き傾向・左向き傾向の強い雑誌を開けば、必ずと言っていいほど思想の「危険視」表現は何度も登場する。ぜひ、留意してあれこれ読んでみていただきたい。
2.批判行為の否定
批判とは否定的内容を含む評論のことだから、むろん批判を受けた側はふつう快く思わない。
それで、反論に出る。――ここまではよい。
だがその反論の中でよく耳にするのが、
「そんなこと言われたら、何もできなくなっちゃうじゃないですか」
という表現である。
「こっちは頑張ってるのに、何で批判なんかするんだよ」という気持ちの表れなのだが、まるで批判を被ったことで実際に全てを潰されるかのように想定して、批判の存在自体を非難してしまうのである。
そこに論理の飛躍がある。
「批判」とは否定的な「意見」である。「意見」を受けただけで、すべてを阻止されたかのように書くのは正当な反応ではない。
まず、不特定の者から批評を受ける立場にあるもの(=公になっているものすべて!)は、その当事者としては、もちろん肯定的な意見を望んでいるだろう。
肯定的意見なら嬉しいし発展にも繋がりやすい一方で、否定的意見なら不満だし後退にも繋がりやすいということはある。
だが、肯定的意見だけウェルカムで否定的意見はいけません、と批評内容をコントロールすることなど出来はしない。
発信している以上、受信側に何らかの影響を与えている。ということは、受信側の意見が反応として返ってくるばあい、こんどは発信者がその受信者となる。常に、発信する側に内容の決定権はある。
反応を受理するかどうかについては、受け取る側にその自由はあろう。ただ誠意があるならば、自身の発信したものに対しては、どんな反応をも一旦は受理しようとするに違いない。
批判される側の心の痛みはわかる。まるで実害を受けたかのような不快感だろう。
人は元来、批判に弱いものだ。
しかし、批判の段階ではまだ強制性はほとんどない。批判を受け取る側の反応にそれはかかっている。
さて同じく、「批判」したものへの返答的「批判」も、可である。
「批判しているのはこちらなのだから、批判されたほうはそれを呑め!」というのはただの横暴だ。
批判されたら批判的に返答し、さらにそれに批判を返し、そういったことが論が尽きるまで続くのが、私は望ましいと思う。
次第に互いの思想の中に、答えは練り出されてくる。
3.「未成熟」の年齢表現
思想、考察のなかには、あまりにも「稚拙」だったり「幼稚」なものが時としてみられる。
その延長線上で、「ケツの青い」「おしゃぶりでもしてろ」「よだれ掛けして」などの表現は、「お前はまだ赤ん坊の域を出ていない」つまり大人のじぶんとは成熟さにおいて雲泥の差があってキミとは話にならないよ、という侮辱を込めた批判表現だろう。
それは、大人なら誰しも経験値がある程度は上がっているので、初期的で荒削りすぎて、一般的な批判で吹き飛ぶような意見は残らず、ある程度の反対意見には対抗できるくらいには常識的かつ堅牢になっていると、そう見込んでいるからこそそうでない場合を指していう批判表現である。
とくに専門家や政治的立場にある人間が、言ってはダメなことと子供でも判別できることをうっかり発言する様子をみると、その立場にいるべき人間では困る、専門家のくせに、と民衆が思うのも自然なことだ。
さて、そこに年齢を持ち込む表現をする人がよくいる。
「3才の子どもかよ」
「小学生レベル」「中学生レベル」
「15~6歳の子供のように」
私は、その年齢ごと特有の一般的な精神状態を認めつつも、こうした批判表現を感じ良く思わない。
なぜなら、その年齢にはその年齢での精神的真理があるからだ。その頃の本当の悩みがあり、思考があり、大人になって失われてしまう大切なものもある。また同時に、同年齢層にも様々な生き方があるわけで、多様性の存在を無視して一括してイメージ化するのもいただけない。
マッカーサーは戦後日本のことをこう言った。
「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年だ」
これは民主主義の成熟度の低さについて言ったとか、変化の可能性について言ったとか、文化の違いについていったとか、つまり賛否の両方を込めた多義的な一言である。
クレイジーケンバンドの「ガールフレンド」という歌に、
「食事も食事も ろくに喉通らぬ 中学生でもあるまいに」
と恋愛感覚を学年的に表現した面白い一節がある。
…こういうことは、一般表現として有効性が見込める。
ところが、それを侮蔑的批判表現に使うと、表現が品格を落とすこととなる。
私の手元にあるあからさまな具体例を以下に示そう。
雑誌『映画芸術』の2013年秋号に載っている、ドラマと映画に関する連続討論の記事の中に、宮﨑駿監督『風立ちぬ』に対する批判的評論があって、こう語られている文章がある。
・西部邁 「この映画を作った人の理性や感性は、人間で言うと15、16歳で止まった精神世界の人なんだろうなと思った」
・西部邁 「そのセンチメンタリズムなどに、15、16歳の精神だなと感じてはいました」
・西部邁 「15、16歳の子供がこの映画を見て喜ぶのは分からなくもないけれど、二十歳過ぎた大人だと、もう少し考えようぜ、と」
・西部邁 「日本の左翼連中というのは、15、16歳で精神年齢が止まっている人が多いね」
・寺脇研「(宮崎アニメは『コクリコ坂から』以降)それこそ15、16歳の精神年齢に戻ってしまった」
・寺脇研「(『軽井沢の描き方も)それこそ15、16歳の少年の妄想世界としてでしかありませんよね」
なぜか執拗に「15、16歳の精神年齢」を批判表現に用いるくだりであるが、彼らは「年齢相応の精神であれよ、みっともないから」といいたいのである。西部・寺脇両氏の精神年齢がおいくつなのかは知らないが。
しかし、年齢相応がよいことなのかどうかは、人それぞれの価値観でまるで違ってくる。
詩人のまどみちお氏は100歳を超えても心は子供のままだとご自身で言っていた。
ロックバンドTHE BOOM の「いつもと違う場所で」という歌に、「人はみな大人になろうと懸命に努力してる子供だろ?」という一節があった。
結局、大人の精神年齢というものは極めて疑わしく曖昧な表現なのである。だから、そのような表現を用いたところで、正確で論理的な批評ができるはずもない。
年齢だけでなく、「思春期」「中年」「更年期」「オバさん」「ジジイ」「老人」なども、表現そのものからすればただ年齢的状態あるいは状態的年齢期を指している言葉が、使い方によって侮蔑的な批判表現として用いられうる。
表現したいイメージは、何となく伝わってくる。
だがそれでも、限定的で総括的な象徴表現だからこそ、不配慮な点をいくつも含んでいることにも自覚的でなければならない。
断っておくが、私は言葉狩りをしたいのではない。
だから、こうした表現を誰に「禁止」するつもりも毛頭ない。
けれど自分には「禁則処理」をかけて極力使わないし、こうした言葉を使っている文章については厳しい眼差しで読むことになる。
必要ならば批判もする。だから表現者は、批判を覚悟して表現するべきであると、私は言いたい。
2014年7月25日金曜日
多読と知識人について/科学について
私はいま、個人的にまた多読期に入っている。
・・・といっても、もし本当の読書家が聞いたら驚いてしまうような少食ではある。
ざっくり読み終わる雑誌が1日1冊。新書本の類を、3日で1冊。
多読かどうかは、自分に甘い私は個人差ととらえたい。
ところで、そもそも多読と知識人との関係性はどうなのか。
私は、よく穿った気持ちで知識人を見てしまう。あるいは、知識人の書いた書物を厳しい眼差しで読む。
まず、読書をしない知識人というものがあるかどうか。
これは、いないと思う。
読書をするかどうかは根本問題ではない。得るべき知識がどこにあるかを探り、それを得るという作業を繰り返すことで、知識は積まれていく。その際、本に書かれている知識は多い。おのずと、それを求めるから知識が増える。
では、読書ばかりする知識人というのがいるかどうか。
これは、ゴマンといるだろう。
だからこそ、私の尊敬する人々は洋の東西を問わず、そのことに警告を発している。
デカルトは、もっともレベルの高い学校で学べることは全部学び、読める本はみんな読んで、そこに本当の知識がないから世間という書物を読もうと考えて長い旅に出た。
二宮尊徳は、農家としては考えられないほど多量の書物とくに漢籍を少年時代から読みふけり、そして大人になり、何と言ったか。「私の教えは、書籍を尊ばず、天地を経文としている」
現実世界をみて真実を捉えよ、という17世紀のフランス人、19世紀初頭(江戸時代後期)の日本人。もちろん、同じことはごく昔から大勢の人に言われたはずだ。
驚異的なまでに多読の人は、著名人を中心として意外と多い。
それができるから、著名になるほどの仕事もできるのかもしれない。
しかし一方で、その人々の仕事の程がいかばかりのものであるか。
我々の手元に届いて見聞きできる彼ら知識人の仕事というのは、彼らの実力の程そのものでもある。
そう思って読んで、内容にガックリくることは、ずいぶん多いのである。
(もちろん、はっとさせられて、なかなか眠りにつけなくなるくらい素晴らしい物もなかにはあるのだが。)
たとえばここに、赤い表紙の最近の岩波新書が2冊ある。
『科学者が人間であること』中村桂子、2013・8月
『人類哲学序説』梅原猛、2013・4月
科学エッセイストと哲学者がそれぞれ書いたもので、どちらも東日本大震災の福島原発事故を踏まえて、現代の科学やその思想を再検討したりもしている。
この2冊については、やがて私はブログ「デカルトの重箱」に取り上げて書かなければならないが、まだ私も調べが不十分なので、いまは先送りする。
どちらの本でもデカルトの合理主義、つまり科学思想の西欧的な非人間性の元凶としてのデカルト哲学が取り上げられ、そこから脱しなければならない、東洋的な柔らかな人間的な思想を頑張って作っていかねばならない、的な論旨で書かれていると思う。
だが、一言でいって、・・・この論旨はあまりにも「古すぎる」。
デカルトは、その書物の発表当時から現代に至るまで、これでもかという批判にさらされてきた。
パスカルの「無益で不確実なる」という痛烈なる批判もさることながら、デカルトへの批判には「たしかにそのとおりだな」と思われることも数多くある。現代からみると、デカルト本人が「確証した」と言っていることの多くが、おかしかったりもする。
批判のなかでも、我々の現代においては、「科学思想批判→デカルト哲学批判」という脈絡がひとつの定石となっている。
だが、この批判が定石となったのは、いつの頃なのだろうか?
少なくとも環境問題が悪化した1960年代にはそのように言われたはずだ。産業革命(18世紀後半~19世紀前半)にも、大同小異のことをきっと言われたはずだ。もっと前、「自然に帰れ」と言ったルソーの頃(18世紀中頃)にもそれらしきことは言われただろう。
さらに日本では、第二次大戦に入る頃から戦時中にかけて、西欧批判のひとつとしてもデカルト合理主義の批判があったに違いない。西欧近代合理主義の非人間性に対して、東洋の温かな人間性がピックアップされた(私の手元には、そんな古書もある)。
・・・これは、もっときちんと私も調べてから書きたい。
だがそもそも私がデカルト好きなのは、この「個人主義」で「人間中心主義」で「冷たい合理主義」であると捉えられるデカルトが、その根底に、とても温かで、人間を思いやろう、社会を良くしよう、自分は良い生き方をしよう、という考えがあふれている点である。
それは、読めば分かるのに、まぁ、ほとんど語られることがない。私自身、この点についてデカルトを語った本を読んだことがないかもしれない。
だから、さっきの「科学思想批判→デカルト哲学批判」の脈絡は、世間での定石でありながら、私は(変な話だな)とつねづね思っているのだ。
科学思想の元凶がデカルトです、と悪者を1人つくるのはいいが、ホントに我々が全世界で350年間も発達させてきた科学および科学技術の抱える諸問題が、デカルト1人に行き着くとでも思うのだろうか? そして、その点が批判され続けたならば、350年もの間それを改善する人間がでなかったとでも言うのだろうか? もしデカルトが何も書かなかったら、現代の科学思想の問題は発生しなかったのだろうか? 書物ひとつに我々現代社会の問題の原因を求めることができるだろうか? デカルトは個人的な本を書いただけである。
それに、デカルトは権力者ではなかった。むしろ無職の放浪人だった。あとは隠れて生きていた。宗教の経典や法律のように誰かに対して強制力を持った思想ではなかったのである。
ひとりの男が自分の意見を本に書いて、それが罪になったり、何百年間も危険視・問題視されるのであれば、誰が何を言っても罪になりうるし、どんな人間の発言も危険ということになりうる。
だからちょっと考えれば、この手のデカルト批判があまりにも短絡的で滑稽なことに気がつくだろう。
日本文化を専門とする哲学者の梅原猛氏に対して私は尊敬の念をもっているので、このような安易な文章を読むと残念な気持ちになる。
今年3月の雑誌「芸術新潮」には、梅原氏の“親鸞の謎”が特集として長々と載っていて、面白かった(氏が思いついた新説をすぐに感覚的に「確証」してしまう点が気になるが)。
さてこのように、中村・梅原両氏は福島原発事故の遠因のさらに遠因を、コピーにコピーを重ねたような古びた論説でデカルトに求める。しかも昨年出版の新書で、「これは新しい論です」といわんばかりの文面で、焼き直しデカルト批判を書いてしまわれている。
我が国で上位にある知識人らが、このような文章を書いてしまうあたりが、私にはどうも不思議でならない。どうして自分で考えを突き詰めずに、他人の話止まりにしてしまうのだろう。
デカルトとは話題が外れるが、知識人の犯すもっと酷い例を挙げれば、立花隆氏やら竹内薫氏やら養老孟司氏・茂木健一郎氏など、科学を誰よりも知っていますという顔をしている科学者・科学エッセイストの知識人たちが、まるで科学的でない発言をする光景をみる。
彼らは原発事故を「科学的にみて」大したことがないとか、予測できなかったとか、逆に安全性が証明されたとか、そんなことをしゃあしゃあと言ってのけている。どこが「科学的」なのかとクラクラしてくる。
悩ましいことだが、彼らの意見よりも私のような知的素人の意見の方が、よっぽど「科学的」だったりすると思う。
科学とはなにか。科学的であるとはどういうことか。私は専門家より的確に明言できる(と常々自負している)。
“科学とは、即物的・即実際的な真理を、即物的な論理で追求する態度をとる学問のことである。”
これで科学とはなにかは必要十分に説明・定義できている。
そして「科学的」とは、“即物的・即実際的な真理を即物的な論理で追求する姿勢での”ということだ。
もし「原発は事故を起こさない」と明言していて、事故が実際に起こったら、「原発は事故を起こすかもしれない」と言っていた人のほうがより科学的に正解だったといえる。細かな理屈はまたそれで吟味できるが、大まかなこの命題においても、即実際的にマルかバツかははっきりする。
同じく「原発は安全かどうか」(←あまりにもざっくりした問題だが)も、安全の対象や定義(度合い)などを明確にして、それで対象となる人間などが受ける被害の度合いで論じ合うことができる。
ただしこのとき、いかに「科学的」であっても、議論が対立することはもちろん往々にしてある。
というのは、互いに自身こそがより科学的なのだという自信はもっているはずだからである。
その際はしかし、それぞれの論説が即物的・即実際的な真理を追っているか、それを即物的な要素を使って破断なく説明できているかどうか、注意しておくことだ。
よく「感情に流されずに」という表現が「科学的」の反対語として使われるけれど、「感情的」かどうかはこのとき「科学性」とは関係がない。感情的に叫んでいおうと無表情でささやこうと、科学的なものは科学的だし、そうでないものはそうでない。
もうひとつのポイントは、科学イコール真理、ではないことだ。
そもそも人間には、真理そのものを取り出すことはできない。真理というものには様々なジャンルがあるが、なかでも即物的あるいは即実際的な真理を即物的要素を使って取り出そうとする態度が、科学なのだ。
学問分野を「態度だ」ととらえることに抵抗がある人は、次のばあいを考えてはどうか。
道路のノイズを音楽といえるかどうか。音楽とは、人が味わうための芸術を、音を使って作り味わう分野である。交通ノイズを使って芸術を作ろうという姿勢が、それを音楽にする。あるいは、それは音の芸術だと捉える人は、それを音楽に分類する。そうでない人は、分類から外すだろう。パンクロックさえ「音楽ではない」という人がいるように。
ある意見が「科学的か」どうかは、それと同様に意見が分かれるし、細かい点についてはほとんど議論の意義がないと私は考える。
現実世界にはありえないタイプの数式を考えるのは即物的ではないじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、論理構造自体をモノと捉えればそれはまさに即物的といえる。
歪のない三角形などのような科学的なモデルは現実世界には存在しない、という人がいるかもしれないけれど、そうしたモデルは即物的な研究から導き出されたはずだし、再表現する際にも近似的にそれを示すはずだ(科学の成果は、目に見えない形であることも多い。即物的に正確な表現ができなくても。科学実在論、でしょうか)。
統計的な検証こそが科学であるとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学を成立させるかを考えれば、まずモノのあり様を即物的にデータに落とし込んで即物的に処理するという方針に基づいているからであるはずである。
科学であるかどうかは再現性にかかっているとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学的かどうかを決める判断基準になるかを考えれば、再現性の可否が即物的・即実際的な真理を証明する1手法であると(他にも基準はあると)分かることだろう。
またもっと言うと、本人が即物的な思考だと思えば、宗教的な話題やファンタジーの中にさえ科学性は生まれる。
時代ごとにも違ってくる。昔の疑似科学が現代から見て科学的ではなかったとしても、当時は科学の第一線だった可能性もある。そのばあいは、「その時代としては充分に科学的だった」といえる。
そして結局のところ科学には、対象世界を即物的に捉えそれを即物的に説明する手法をもちいるのだから、トートロジーで閉じた体系を作る志向があろう。
いずれ同時代ならば、即物的かどうか、即実際的かどうかは、他人同士でコンセンサス(共通認識)がある程度は期待できる。マルかバツか。即物的でない思い込みはできるだけ削れているか。
科学かどうか。科学的かどうか。当然ながら、そこに善悪はない。
それはひとえに、モノを即物的に捉え説明しようとする態度にのみかかっているのだ。
そして世の中を引っ張る知識人たちに期待するのは、孫引き論説の組み合わせで新しいことを作ることのみならず、それをもう一度壊すくらいに疑って、調べて、考えて、土台をしっかりさせてもらいたいということである。
・・・といっても、もし本当の読書家が聞いたら驚いてしまうような少食ではある。
ざっくり読み終わる雑誌が1日1冊。新書本の類を、3日で1冊。
多読かどうかは、自分に甘い私は個人差ととらえたい。
ところで、そもそも多読と知識人との関係性はどうなのか。
私は、よく穿った気持ちで知識人を見てしまう。あるいは、知識人の書いた書物を厳しい眼差しで読む。
まず、読書をしない知識人というものがあるかどうか。
これは、いないと思う。
読書をするかどうかは根本問題ではない。得るべき知識がどこにあるかを探り、それを得るという作業を繰り返すことで、知識は積まれていく。その際、本に書かれている知識は多い。おのずと、それを求めるから知識が増える。
では、読書ばかりする知識人というのがいるかどうか。
これは、ゴマンといるだろう。
だからこそ、私の尊敬する人々は洋の東西を問わず、そのことに警告を発している。
デカルトは、もっともレベルの高い学校で学べることは全部学び、読める本はみんな読んで、そこに本当の知識がないから世間という書物を読もうと考えて長い旅に出た。
二宮尊徳は、農家としては考えられないほど多量の書物とくに漢籍を少年時代から読みふけり、そして大人になり、何と言ったか。「私の教えは、書籍を尊ばず、天地を経文としている」
現実世界をみて真実を捉えよ、という17世紀のフランス人、19世紀初頭(江戸時代後期)の日本人。もちろん、同じことはごく昔から大勢の人に言われたはずだ。
驚異的なまでに多読の人は、著名人を中心として意外と多い。
それができるから、著名になるほどの仕事もできるのかもしれない。
しかし一方で、その人々の仕事の程がいかばかりのものであるか。
我々の手元に届いて見聞きできる彼ら知識人の仕事というのは、彼らの実力の程そのものでもある。
そう思って読んで、内容にガックリくることは、ずいぶん多いのである。
(もちろん、はっとさせられて、なかなか眠りにつけなくなるくらい素晴らしい物もなかにはあるのだが。)
たとえばここに、赤い表紙の最近の岩波新書が2冊ある。
『科学者が人間であること』中村桂子、2013・8月
『人類哲学序説』梅原猛、2013・4月
科学エッセイストと哲学者がそれぞれ書いたもので、どちらも東日本大震災の福島原発事故を踏まえて、現代の科学やその思想を再検討したりもしている。
この2冊については、やがて私はブログ「デカルトの重箱」に取り上げて書かなければならないが、まだ私も調べが不十分なので、いまは先送りする。
どちらの本でもデカルトの合理主義、つまり科学思想の西欧的な非人間性の元凶としてのデカルト哲学が取り上げられ、そこから脱しなければならない、東洋的な柔らかな人間的な思想を頑張って作っていかねばならない、的な論旨で書かれていると思う。
だが、一言でいって、・・・この論旨はあまりにも「古すぎる」。
デカルトは、その書物の発表当時から現代に至るまで、これでもかという批判にさらされてきた。
パスカルの「無益で不確実なる」という痛烈なる批判もさることながら、デカルトへの批判には「たしかにそのとおりだな」と思われることも数多くある。現代からみると、デカルト本人が「確証した」と言っていることの多くが、おかしかったりもする。
批判のなかでも、我々の現代においては、「科学思想批判→デカルト哲学批判」という脈絡がひとつの定石となっている。
だが、この批判が定石となったのは、いつの頃なのだろうか?
少なくとも環境問題が悪化した1960年代にはそのように言われたはずだ。産業革命(18世紀後半~19世紀前半)にも、大同小異のことをきっと言われたはずだ。もっと前、「自然に帰れ」と言ったルソーの頃(18世紀中頃)にもそれらしきことは言われただろう。
さらに日本では、第二次大戦に入る頃から戦時中にかけて、西欧批判のひとつとしてもデカルト合理主義の批判があったに違いない。西欧近代合理主義の非人間性に対して、東洋の温かな人間性がピックアップされた(私の手元には、そんな古書もある)。
・・・これは、もっときちんと私も調べてから書きたい。
だがそもそも私がデカルト好きなのは、この「個人主義」で「人間中心主義」で「冷たい合理主義」であると捉えられるデカルトが、その根底に、とても温かで、人間を思いやろう、社会を良くしよう、自分は良い生き方をしよう、という考えがあふれている点である。
それは、読めば分かるのに、まぁ、ほとんど語られることがない。私自身、この点についてデカルトを語った本を読んだことがないかもしれない。
だから、さっきの「科学思想批判→デカルト哲学批判」の脈絡は、世間での定石でありながら、私は(変な話だな)とつねづね思っているのだ。
科学思想の元凶がデカルトです、と悪者を1人つくるのはいいが、ホントに我々が全世界で350年間も発達させてきた科学および科学技術の抱える諸問題が、デカルト1人に行き着くとでも思うのだろうか? そして、その点が批判され続けたならば、350年もの間それを改善する人間がでなかったとでも言うのだろうか? もしデカルトが何も書かなかったら、現代の科学思想の問題は発生しなかったのだろうか? 書物ひとつに我々現代社会の問題の原因を求めることができるだろうか? デカルトは個人的な本を書いただけである。
それに、デカルトは権力者ではなかった。むしろ無職の放浪人だった。あとは隠れて生きていた。宗教の経典や法律のように誰かに対して強制力を持った思想ではなかったのである。
ひとりの男が自分の意見を本に書いて、それが罪になったり、何百年間も危険視・問題視されるのであれば、誰が何を言っても罪になりうるし、どんな人間の発言も危険ということになりうる。
だからちょっと考えれば、この手のデカルト批判があまりにも短絡的で滑稽なことに気がつくだろう。
日本文化を専門とする哲学者の梅原猛氏に対して私は尊敬の念をもっているので、このような安易な文章を読むと残念な気持ちになる。
今年3月の雑誌「芸術新潮」には、梅原氏の“親鸞の謎”が特集として長々と載っていて、面白かった(氏が思いついた新説をすぐに感覚的に「確証」してしまう点が気になるが)。
さてこのように、中村・梅原両氏は福島原発事故の遠因のさらに遠因を、コピーにコピーを重ねたような古びた論説でデカルトに求める。しかも昨年出版の新書で、「これは新しい論です」といわんばかりの文面で、焼き直しデカルト批判を書いてしまわれている。
我が国で上位にある知識人らが、このような文章を書いてしまうあたりが、私にはどうも不思議でならない。どうして自分で考えを突き詰めずに、他人の話止まりにしてしまうのだろう。
デカルトとは話題が外れるが、知識人の犯すもっと酷い例を挙げれば、立花隆氏やら竹内薫氏やら養老孟司氏・茂木健一郎氏など、科学を誰よりも知っていますという顔をしている科学者・科学エッセイストの知識人たちが、まるで科学的でない発言をする光景をみる。
彼らは原発事故を「科学的にみて」大したことがないとか、予測できなかったとか、逆に安全性が証明されたとか、そんなことをしゃあしゃあと言ってのけている。どこが「科学的」なのかとクラクラしてくる。
悩ましいことだが、彼らの意見よりも私のような知的素人の意見の方が、よっぽど「科学的」だったりすると思う。
科学とはなにか。科学的であるとはどういうことか。私は専門家より的確に明言できる(と常々自負している)。
“科学とは、即物的・即実際的な真理を、即物的な論理で追求する態度をとる学問のことである。”
これで科学とはなにかは必要十分に説明・定義できている。
そして「科学的」とは、“即物的・即実際的な真理を即物的な論理で追求する姿勢での”ということだ。
もし「原発は事故を起こさない」と明言していて、事故が実際に起こったら、「原発は事故を起こすかもしれない」と言っていた人のほうがより科学的に正解だったといえる。細かな理屈はまたそれで吟味できるが、大まかなこの命題においても、即実際的にマルかバツかははっきりする。
同じく「原発は安全かどうか」(←あまりにもざっくりした問題だが)も、安全の対象や定義(度合い)などを明確にして、それで対象となる人間などが受ける被害の度合いで論じ合うことができる。
ただしこのとき、いかに「科学的」であっても、議論が対立することはもちろん往々にしてある。
というのは、互いに自身こそがより科学的なのだという自信はもっているはずだからである。
その際はしかし、それぞれの論説が即物的・即実際的な真理を追っているか、それを即物的な要素を使って破断なく説明できているかどうか、注意しておくことだ。
よく「感情に流されずに」という表現が「科学的」の反対語として使われるけれど、「感情的」かどうかはこのとき「科学性」とは関係がない。感情的に叫んでいおうと無表情でささやこうと、科学的なものは科学的だし、そうでないものはそうでない。
もうひとつのポイントは、科学イコール真理、ではないことだ。
そもそも人間には、真理そのものを取り出すことはできない。真理というものには様々なジャンルがあるが、なかでも即物的あるいは即実際的な真理を即物的要素を使って取り出そうとする態度が、科学なのだ。
学問分野を「態度だ」ととらえることに抵抗がある人は、次のばあいを考えてはどうか。
道路のノイズを音楽といえるかどうか。音楽とは、人が味わうための芸術を、音を使って作り味わう分野である。交通ノイズを使って芸術を作ろうという姿勢が、それを音楽にする。あるいは、それは音の芸術だと捉える人は、それを音楽に分類する。そうでない人は、分類から外すだろう。パンクロックさえ「音楽ではない」という人がいるように。
ある意見が「科学的か」どうかは、それと同様に意見が分かれるし、細かい点についてはほとんど議論の意義がないと私は考える。
現実世界にはありえないタイプの数式を考えるのは即物的ではないじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、論理構造自体をモノと捉えればそれはまさに即物的といえる。
歪のない三角形などのような科学的なモデルは現実世界には存在しない、という人がいるかもしれないけれど、そうしたモデルは即物的な研究から導き出されたはずだし、再表現する際にも近似的にそれを示すはずだ(科学の成果は、目に見えない形であることも多い。即物的に正確な表現ができなくても。科学実在論、でしょうか)。
統計的な検証こそが科学であるとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学を成立させるかを考えれば、まずモノのあり様を即物的にデータに落とし込んで即物的に処理するという方針に基づいているからであるはずである。
科学であるかどうかは再現性にかかっているとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学的かどうかを決める判断基準になるかを考えれば、再現性の可否が即物的・即実際的な真理を証明する1手法であると(他にも基準はあると)分かることだろう。
またもっと言うと、本人が即物的な思考だと思えば、宗教的な話題やファンタジーの中にさえ科学性は生まれる。
時代ごとにも違ってくる。昔の疑似科学が現代から見て科学的ではなかったとしても、当時は科学の第一線だった可能性もある。そのばあいは、「その時代としては充分に科学的だった」といえる。
そして結局のところ科学には、対象世界を即物的に捉えそれを即物的に説明する手法をもちいるのだから、トートロジーで閉じた体系を作る志向があろう。
いずれ同時代ならば、即物的かどうか、即実際的かどうかは、他人同士でコンセンサス(共通認識)がある程度は期待できる。マルかバツか。即物的でない思い込みはできるだけ削れているか。
科学かどうか。科学的かどうか。当然ながら、そこに善悪はない。
それはひとえに、モノを即物的に捉え説明しようとする態度にのみかかっているのだ。
そして世の中を引っ張る知識人たちに期待するのは、孫引き論説の組み合わせで新しいことを作ることのみならず、それをもう一度壊すくらいに疑って、調べて、考えて、土台をしっかりさせてもらいたいということである。
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