2016年8月15日月曜日

世間ではお盆

毎日、せっせせっせと片づけの日々である。
日本本土でもお盆だし、ここ沖縄では迎え盆(ウンケイ)が今日で送り盆(ウークイ)が明後日である。世間は忙しそうだ。

私の家系では、お盆の風習はとうに消えてしまった。
それでも子供の頃は、夏休みのただ中には、お盆に合わせて遠路をゆき父母の実家を順次訪れ、それぞれの田舎で従兄弟や親戚と集まって泊まるのは、それはそれは楽しいことだった。私にとっての日本の原風景の一部が、そういった思い出から育まれたのもまったく確かなことだ。

時は経ち、親戚関係にも色々とガタが来て、両祖父母とも亡くなり、私はといえば幼少期や少年期をへて、青年どころか中年へと歳を重ねた。家を離れ結婚をして子供ができ、遠い場所に引っ越した。お盆だからといって帰省する気もない。
(いちおう長男である)私は、墓さえも廃止することをもう15年も前から宣言してある。

ところで、墓がないこと自体はまったく寂しがるべきことではない。
すべての生命は地球から生まれ地球へと帰っていくのだから、墓がないのはごくごく自然なことなのだ。さらに言えば、生きている間だって物質的には固定された瞬間がないことについては、福岡伸一博士のベストセラー『生物と無生物のあいだ』を読むと一層よくわかることだろう。生物というのは砂漠の模様のように、形状がこの世にひととき残存するような類の存在であろう。このことは何という名前の生体現象だったかな・・・ど忘れしてしまったなぁ・・・・・・ああそうだ、「動的平衡(どうてきへいこう)」といったはずだ。

まさか、生活文化のすべてがナンセンスで無意味などと私はもちろん言わないし、そうは思っていない。
墓には墓の意味があり、価値があり、お盆にはお盆の重要な意味があり、それぞれの人間の人生に多大な影響がある。
しかし私が思うのは、墓がないことにも意味や価値があり、お盆がないことにもプラス・マイナスの人生への影響があろうということなのだ。

私の場合は、先祖はすべて私自身に集結していると考えている。あるいは、わが子に。
先祖とは、じいちゃんばあちゃんや田舎の墓石に刻まれた名前の人間のことのみではない。38億年分まるごと、地球の生命史の自分に繋がる樹形図のぜんぶを、自分の身体が背負っているイメージだ。これは科学的にいって、ほとんど正しい認識でもある。

儒教では先祖が偉いことになっている。先祖崇拝が儒教思想の軸としてあり、日本でも琉球でもその影響が強い。だから年寄りほど威張っている。政治家で偉そうなのもみんな年寄りだろう。若者から年金を絞りとり、原発事故で地球を汚しても、自分たちは良かった、後のことは知らん、勝手に頑張ってやってくれ、というのが大半の日本人のお年寄りのスタンスになっている。(金も文化も先代から受け継いだ以上にプラスして子供にバトンタッチしよう、なんていう親が果たしてどれくらい存在するのだろうか?)

しかし私が自分の頭で考えると、価値観が逆なのだ。子供ほど偉いし尊いはずである。
もちろん親がいなければ子は存在しないのだけれど、子がいなければそもそも親ではない。
子孫ほど偉いことは、生物学的にいっても間違いない。生命の原理として必ずそうなっている。過去よりも未来が大事で、未来の主人公は常に若者なのである。

この当然の原理を、風習文化をもって倒置してあるのには、もちろんそれ相応の理由はある。
社会的にみれば、「先取権(さきどりけん)」が効いている。
技能面からいえば、「経験値」も年寄りが優位である。
生物的にいっても「先行優位」がある。先にその場に住んでいる者の方がテリトリーを主張しやすい。

それをひっくり返すには闘争しかないのだ。
動植物をみれば、常に競争原理が働いている。また、人間の歴史を見返せば、下克上という形もあるし、国土拡大・先住民虐殺という形もあったし、革命という形もあった。

それではたまらぬとばかりに、権力をもった年寄りたちは、年功序列をルールに据える。
家庭にもピラミッドを作る。子供を親のいいなりにしようとする。さらに最下位に嫁を置いて、こき使いながら阻害する。日本の民衆文化のれっきとした暗黒面だ。
ほんとうは、子供は穏やかに年功序列を打ち破るべきである。嫁はそんな圧政の敷かれた家ならば即刻出るべきだ。
なぜなら、必ずしも年寄りが社会の安定を保証するということはいえないからである。先の戦争で二十歳そこそこの未来ある若者らを特攻にしたてたのは、大して先のない年寄りたちだった。

ではといって、年少優位も行き過ぎれば、社会は姥捨て山OKの方向へいき、人道的価値観が破綻するであろう。
だからこそ孔子だって、老いては子に従えという指針を設定した。しかし、風習や伝統や原理を大事にする人々というのは、大概、都合の悪いところは自分の都合で削ってしまうものなのだ。

・・・こういうことを、ご先祖様がふだん離れ離れの人々を再会させてくれる「お盆」の風習をもつ方々は、とくに考えてみる機会が増えるだろう。いろいろな人の人生模様をみることは、とても勉強になるから面白いはずだ。


今年の終戦記念日は、私にとっては片づけと生活家事でほぼ終わった。
この大片づけを終えて、研究と読書にいそしもうという心積もりだ。





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