2016年9月26日月曜日

西原の古書店

今日は、また暑さが戻って真夏日の日曜。南の海上にある台風17号の小風が吹くこともあったが、概ね暑かった。

子どもたちを連れて公園を3つハシゴした。子どもたちは、朝から夕刻まで(昼を挟んで)フルで遊びまくる。それでも多くの子ども達が、洗濯物をたたんだり、ドリルをやってから遊ぶから優秀である。

こういう時、どこへ子どもらを連れて行くか、私自身は考えない。
『あそぼん』という雑誌があって、それを後ろ手に後部座席に渡し、子供らが全員でああだこうだと騒ぎながら決めるのを待つ。すでに車は走り出している。彼らが「ここの公園に行きたい!」と言ったその場所へ行くのみなのだ。

今日は、一区画だけ高速にのって、家から40分ほどの公園などに足を伸ばした。
西原の公園に子どもたちを置いた折、駐車場がいっぱいだったこともあり、私は久しぶりにその近くの古本屋に行った。

大きめで硬派なその古書店に行ったのは、・・・もしかすると3年はあけたかもしれない。
食い入るように棚を見つめた。100円の本を3冊、17円(!)の本を4冊、千幾らの本と雑誌を1冊ずつ。久しぶりに本を買い込んだ。

古書店にいる時に長男のキッズ携帯から電話が入って、息せき切った弾んだ声で、3才の友人の女の子がおもらしをしたとの報告があった。
私は古書店で近くのマツキヨの場所を尋ねてオムツとおしりふきを買いに行く。ついでに向かいのサンエー(スーパー)でチョコアイスモナカとピノを買い、公園に戻る。(近所には洋服が売っている店がないらしかった。)

皆でアイスを頬張ったあと、公園の身障者用トイレを開け放ったまま、(私には娘がいないので、何となく手慣れないため)6才の女の子にヘルプを頼みつつ、3才の子の足腰をおしりふきでざっと拭いてからオムツをはかせ、長男の着替え用のズボンがあったのでそれをはかせ、濡れた物を一応石鹸で洗い、ビニールに入れて持ち帰った。
(村上春樹的に細かな文面になったが、日常の臨場的質感を出す以外の意味はない。)


で、その古書店では、なかなか良い資料や図書が手に入った。
沖縄に、再版とはいえ戦前の『西哲叢書 スピノザ』があるとは驚いた。いや、Amazonでも、日本の古本屋サイトでも、手に入らないことはない本だしさほど高価でもない。ただ、なんでこんなところにあって、どんな人が持っていて読んだかな、とは思う。

それにしても、沖縄に古書店は那覇を中心に割とあるのだが、、、本が、ほんのりと湿っている気がして気になる。
そのせいで本が重い気がする。とくに外棚の本は、しなしなしている。
海風のせいであろうか。亜熱帯の空気のせいであろうか。
カビないのかな、と心配になる。カビっぽくもないのが少し不思議だ。

雑誌のなかに、琉球ガラス関連の小さな記事を見つけた(これは重要な発見だった)。
ペスタロッチ教育論の古い本は、興味はあったが小難しそうなので買わなかった。
科学の功罪にかんする古い新書本。1977年時点での原発批判が載っている。
ベトナム革命についての研究書。
古くて小さめのペン字の「くずし字解読辞典」。

辞典、事典の類には、どうも食指が動く。
一種の癖なのだろう。さほど実際には開かないのだから。
しかし、高校時代に国語教師が話したことを、私は今も記憶していて思い出すことができる。
 
――辞書に「高い」ということは、ないよ。
  辞書に、値段が高いなんてことはね、まずありえない。
  一冊の辞書を作るのに、著者がどれだけの労力と時間を費やし、あるいは一生涯を費やし、場合によっては次の世代の人生まで費やしているか。
  しかも、その辺の凡人ではない、最高の頭脳と叡智とが集結して、彼らが想像を絶するとんでもない努力をして、やっとまとめたものだ。
  そんな本が数千円、数万円、あるいは数十万円しても、高いはずがないじゃないか。
  買え。ぜんぶ読む必要はない。なんなら読まなくってもいい、と。
  買って、持っておけ。


後部座席の4人の子どもたちは、今日は長い一日だったと言い、同じ口でまだ帰りたくないと駄々をこね、もう日曜日が終わっちゃうのかと肩を落としつつも、汗だくの表情に充実した疲れと日焼けとを刻み、西日に照らされ揺られていた。
助手席の足元に無造作に放ったビニール袋の中に、今日100円で買った古い「くずし字解読辞典」などの古書が入っているのが嬉しかった。






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