2016年10月1日土曜日

お山の大将について

多少とも偉い立場の人がその権力を使って、上から目線で他人を封じ込めたり、思い通りにさせようとすることは、日常のなかにも大なり小なりよくあることである。家庭の中からはじまって、地域社会や学校や会社ではかなり多くなり、市町村から県・国のすることとなると大方がそんなふうだったりもする。

私は、そういうのが、心の底から大嫌いだ。

しかし、私にもよくない点がある。
――偉い人、凄い人に対して、過剰にぺこぺこしてしまうのである。

ぺこぺこというのは謙譲である。(心にもないおべっかを言ったりはしない.)
それでも、緊張して笑顔を振りまき、文字通りお辞儀も頻繁になる。多少のお世辞も言う。

これは、お会いできたという嬉しさがつい表に出てしまうせいなのだが、その嬉しさを相手様に伝えたいというのもある。それと、その人のことを尊重したいということも胸にあるし、能力や業績を褒め称えたい気持ちもある。

そして何よりも、「その人のことを尊敬したい」という願望が、自分の中にあるのだ。
じっさいに何かしら尊敬できる人に会えると、本心から嬉しくなる。尊敬の念を抱くのは幸せなことだと思う。
(その人に取り入って認められたい、そばにいて得したい、みたいな太閤的・角栄的打算はほぼゼロだ.)


で、・・・世の中には、偉い人・凄い人・有能な人が、実は案外たくさんいる。
ちょっと考えれば、それは当然とも思う。
なぜなら、人は誰でもただ若いというだけで膨大な可能性を持っているのだし、逆にまた、歳を重ねるだけでどんどん人間の味が出てくるわけだから。完全な無能かつ魅力のない人間というのは、この世には存在しない。

そんななか、膨大な数の人がそれぞれの分野でおのおの頑張って高みを目指すのである。
凄い人が多いのはあたり前だ。
比較的凄くない人も、かなりのパーセンテージいるだろう。(まったくアバウトな考察だが、・・・今回はこれでいい。)
能力が低くて、大したことはできない、主張さえしないという凡人を、卑下する気は私にはない。
しかし、せっかくお会いするなら、日々活躍する有能で偉い凄い人のほうが、嬉しいし楽しい。刺激になる。勉強にもなる。

けれど、ペコペコされると、多くの偉い人々のなかには、・・・やはり尊大な気持ちになる人も多いのである。
上から目線なのはいい。(こちらからして下から目線なのだし)
自慢するのもいい。(内容ある自慢なら、むしろありがたい。とことんウェルカムだ)
自己顕示欲があってもいい。(それがあまりない人のことは、よく知り得ない)
その自己顕示欲が、幼少期からの承認欲求に基いていたっていい。(他人に認められたい、見て!見て!褒めて!という幼少期の欲求不満の心理は、じつは多くの人が引きずっている。私自身もそうだと思う)
功名心があったって、もちろん構わない。(モチベーションの1つである)
功名心の塊でも・・・我慢しよう。(にんげんだもの)

しかし、次のような態度は勘弁願いたい。
何かの拍子にその立場的権威を示し、その権力をちょこまかと行使して他人を強制的にどうこうしようとしたり、人の話をはねよけて強引に自分の好きに進めてしまったり。人のあれこれを阻害したり。
過去からの恨みつらみと不満を持ち続けて、問題をなるべく大きくしたがったり。(どんな小さな問題だって、しようと思えばいくらでも大きく膨らますことはできる。とくにヤクザや弁護士ならお手のものだろう.)

そういうことをされると。
――私はとたんに気持ちが冷めてしまう。まぁ、心も傷つく。
数えれば、3つの点で残念になる。

1.その人の行動による具体的な結果について。
2.人徳者として尊敬していたが、じつはその人がただの「お山の大将」であったことについて。
3.自分が、人徳者だと誤判断してしまっていたことについての反省。


この2番目に挙げた、単なる「お山の大将」だったことに気がつくショックを、私は昨日ひさしぶりに経験した。
話としては、どうでもいいくらいに小さいことなのだが、内心では大いにショックだった。

私はその人のことを、地域社会に貢献する実力派の人徳者だと思っていた。
いつも親切だったし、にこやかで人当たりもよく、非常に顔が広い。
行動も発言も常に露骨で、自分のことを「正義をはっきり言うタイプ」だとよく喧伝していた。
いや、思い出せば、今までにもその人の言動にオカシイなと感じることが色々とあった。人を選んで敵味方に分類する姿は攻撃的だった。何事も仲間内で固める性格だった。表面的な軽いウソならよくあった。妙に公的な金遣いが荒いと感じていた。変に細かくてクレームが多い人だったが、私もクレームは言う方なので、素晴らしいとすら評価していた。
私のセンサーは完全に鈍っていたのだ。彼を尊敬していたからである。
具体的な言明は控えるが、・・・ 
つまりその人は、徳を備えているわけではなく、ただの「お山の大将」の凡人だったのだ。

「人の振り見て我が振り直せよ」とじぶんの肝によくよく銘じた。
いつか自分が多少とも偉くなった時、砂場を仕切るお山の大将のようになっていたら、あまりにもみっともない。目も当てられない。
世界は広大なのである。広大だし、きわめて多様で豊穣で美しく、偉人は数限りなく存在するはずなのだ。

地域社会の長よ。
中小企業の長がたよ。
大企業のトップよ。
業界の大物よ。
博識者たちよ。
国に務める方々よ。
国々の偉い方々よ。

私はきっと、またあちこちでペコペコと頭を下げながら、しかし今度は、上げた眼差しを光らせているだろう。
――あなたがたは、まさかまさか「お山の大将」ではあるまい?

あなたがたは分かっている人だろうか。
何を大事にし、何を恥ずべきなのか。
何を切り捨て、何を追い求めるのか。
ほんとうに大切なことは何か。

偉い人のなかに「お山の大将」でないひとは、もちろん大勢いらっしゃる。
私はそういう人をこそ尊敬するし、見習いたいと思う。













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