2016年10月16日日曜日

松岡正剛『千夜千冊』の誤字脱字批判


(名編集者・松岡正剛氏のことは、これまでブログに2度とりあげた。
 →・読書メモ(20160615)『国家と「私」の行方』(松岡正剛、春秋社、2015)
 →・デカルトの重箱blog 松岡正剛『国家と「私」の行方』、そして『千夜千冊』 )

私は今、松岡正剛氏の孤高かつ怒涛のブックガイドブログ『千夜千冊』の全読破を試みているが、このペースでいくと単純計算で5年以上かかりそうだ。
つまり私は、まだまだ序の口の段階にいる。

それなのに、すでにかなりの誤字脱字が散見される。
枝葉末節のことであろうか?
・・・だが氏は、なんといっても日本一の名編集者なのである。
不特定多数の読者に読まれている公式ブログの誤謬を直そうとしないというのは、一体どういう見解なのだろう? 正剛氏のような立場であれば、いくらだって生徒や弟子や従業員にチェック・訂正の仕事を回せると思うのだが・・

出版物なら、印刷後に誤記の訂正がある場合には、小さな訂正記事の紙が挟んであることもある。作り手・著者としては、満を持して世に問うたはずの本に僅かでも間違いがあれば、1秒でも早く直したいという気持ちになるのが自然だと思う。誤謬の訂正は礼節であり、プライドであり、そして良心である。

しかし、たとえば松岡正剛氏の『国家と「私」の行方』は2015年に出版された良書だが、2巻本に4箇所の誤記をみつけた。訂正記事について言及はない。ウェブサイトをみても何もない。
・『国家と「私」の行方』 春秋社ページ

さて、今年の3月に「ISIS(編集工学研究所)担当者様」宛に、「千夜千冊の誤植などについて」と題したメールを送った。
半年以上経つが、返事もなければ訂正もなされない。連絡がつかないということは、・・何なのだろう? ほとんど読者のいないブログの書き手である私だって、誤字脱字に気がつくと恥ずかしくて、すぐにでも直したくなるのに。

この『千夜千冊』ブログは、すでに分厚い豪華本としても出版されている。もしかすると出版の際に直されているかもしれないが(それについては私はチェックしていない)、今度なんと角川文庫にも入るというのだから心配になる。
それで、ここに私が個人的にメモした「『千夜千冊』訂正箇所」を以下に挙げておくことにする。

重ねて言うが・・・こういうことは、松岡正剛氏ご本人あるいは関連会社または出版社が率先してなすべきことのはずだ。
そして出版物と違って、ウェブ上のとくにブログは、その気があれば一瞬で直せる媒体なのである。

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〈『千夜千冊』ブログ訂正箇所Memo/2016.10.16 時点=68読了/全1621夜〉
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・番外録INDEX
「東日本大震災から5日後の2012年3月16日、」→2011年3月16日

・9夜
「アリストレス」→アリストテレス 2箇所

・18夜
下線足らず「インシュタイン著」→アインシュタイン著

・17夜
下線足らず「倉百人一首のような」→小倉百人一首のような

・16夜
「つなぎあわせてていく」→つなぎあわせていく

・125夜
「”ぼく”」→“ぼく”

・168夜
「解決しょうと」→解決しようと

・888夜
「します二人は」→します。二人は

・982夜
「イギリ人」→イギリス人
「左欄」→右欄

・994夜
「ととして」→として

・995夜
「recollectin」→recollection
「することころ」→するところ
「メンデレーフ」→メンデレーエフ

・1005夜
「アウストラピテクス」→アウストラロピテクス

・1095夜
「フルートを持つ」→フルートを持つ女 3箇所

・1187夜
「ケインノほうで」→ケインのほうで

・1251夜
「イノシシにはタタリ神という凶暴な神が憑いている。」→「憑いている」のではなくイノシシ自体がタタリ神に「なった」と思われる。
「アシタカは万事が納得できずにタタラ場にとどまることを決意する。」→アシタカは「納得できずに」ではなく、「状況を受け入れて」人間と森との架け橋となった、と説明するのが彼の表情からしても妥当であろう。同様に、サンは「人間を許すことはできない」と言ったけれど、人間であるアシタカを「受け入れた」という顛末だ。

・1262夜
「9割知覚」→9割近く

・1314夜
「ブラウンジング」→ブラウジング
「トマス・アクイナス」→トマス・アクィナス
「めぐっている。。」→めぐっている。
「Aからら」→Aから
「それわ体に」→それを体に
「言葉がゆきわたらせる」→言葉をゆきわたらせる

・1336夜
「スタフグレーション」→スタグフレーション

・1361夜
「正当化をもたらすのてはないかという」→もたらすのではないかという

・1362夜
「思えてくるだろうとということ」→だろうということ
「インドではヴィトリア朝に」→ヴィクトリア朝に

・1367夜
「返済すなくとも」→返済しなくとも

・1368夜
「算出」→産出 2箇所
「通過」→通貨
「国王ヒピン」→国王ピピン

・1399夜
「アリストレス」→アリストテレス

・1409夜
原発批判を含む文脈のなかに鷲田清一氏を取り上げてあるが、残念ながら、鷲田氏は反原発の立場を取っていない。

・1422夜
「歴史をつくてきた」→歴史をつくってきた

・1447夜
「食卓の上で0・38マイクロシーベルトを」「1マイクロシーベルトをいつも超えていた」→分母に時間単位がある方が断然ベター

・1456夜
「クリーン・エルギー」→クリーン・エネルギー
「大腸菌をつかってDNA組み替えて」→大腸菌をつかったDNA組み換えで

・1601夜
「多変量解析は多くの変数からなるデータを統計的な扱って」→統計的に扱って
「しかし、結局はこんなことしかかできないのである。」→しかできないのである

・1604夜
「ポビュリズム」→ポピュリズム
「ますまず」→ますます

・1605夜
「植物ガ」→植物が
「編集工学編集工学研究所が」→編集工学研究所が

・1606夜
「デヴィッド・マー『ヴィジョン』」→『ビジョン』

・1619夜
「細胞膜(cell membrsne)」→cell membrane
「転写(trnascription)」→transcription
「RNAスプライシシング」→RNAスプライシング


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※〈2016.10.17 追記〉

 なお、「千夜千冊」567夜に、『誤植読本』(高橋輝次、東京書籍、2000)が取り上げられてある。
 この稿に正剛氏は、こんなふうに書いている。
 
 ・「中国では「魯魚、焉馬、虚虎の誤り」という。魯と魚、焉と馬、虚と虎は書きまちがいやすいということだ。また中国で「善本」といえば、良書のことではなく誤植のないエディション(版)のことをいう。それほど誤植は恐れられてきた。」
 ・「ぼくも編集者のはしくれとして、つねに校正と誤植には悩まされてきた。実は校正はあまり得意ではない。」
 ・「その後ワープロやパソコンで文章を打つようになると、今度は自分で最初から打ちまちがえたままになっている。」
 ・「この「千夜千冊」もワープロ打っ放しでスタッフにまわしてしまうときは、つねに3~4字がまちがっている(ところが10字まちがうとか、1字しかまちがわないということは、めったにない)。」
 ・「それにしても、誤植の入った自分の文章に出会うと必ずサアーッと冷や汗が出る。これはまことに奇妙な感覚で、なんとも居たたまれない。羞かしいやら、無知を晒しているようやら、もう弁解も手遅れで情けないやら、奇妙な後悔に立たされる。」
 ・「しかし、あらためて冷静に考えてみると、なぜ誤植が居たたまれない感覚に満ちたものなのか、その理由ははっきりしない。むろん歴然たるミスであるのだからどこから咎められても当然ではあるけれど、その責任はいわば著者・編集者・校正者・版元に分散しているのだし、(中略)この事実に気がついたとたんに“みっともない気分”になるというのは、この犯行感覚にはなかなか見逃せない異常なものがあるということなのである。」

 ・・・このように、正剛氏もやはり誤字脱字は頗るイヤなのだと分かって、多少ほっとした。
 しかし、ではなぜ速やかに直さないのだろうかという疑問はいっそう膨らむ。

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※〈2016.12.22~ 追記〉
とにもかくにも私は『千夜千冊』全読破に向け、サイトをほぼ毎日みている。
11月18日のコメントに、「肺癌でした」とあって衝撃だった。また最近の『千夜千冊』に、肺癌で2010年に死去した作家・井上ひさしとの思い出を綴った箇所があって、次のように書いている。

「ぼくと同様のヘビースモーカーで、あちらは1日40本、ぼくは60本を維持し、誇りにしていた。(中略)互いに喫煙は肺癌とはカンケーないとえらそうに豪語していたが、そうはいかなかった。」

喫煙経験のない私は、タバコを吸う人に対し一抹の軽蔑視を禁じ得ないのだが、正剛氏のような「超」知識人がタバコ→肺癌などという愚鈍な経路をとると、(なんのための知識だ!)と憤りをも感じてくる。
『千夜千冊』は読めば読むほど物凄いブックガイドである。それを書き続ける正剛氏はやはり物凄い人間であろう。そういう人は日本のため、というか人類のために、絶対に長生きするべきなのである。

コメントには12月14日に手術を受け20日に退院した報告があり、痛みと鬱々なる心境を告白なさっていた。21日には事務所に十日ぶりに戻って郵便物をみるなどのルーチンをこなし、はや「千夜千冊に着手した」と書いてあった。私は少し感動した。
心から退院おめでとうございます、と申し述べたいが、私はただの一般人かつあかの他人なので胸に留めておくのみにする。

それにしても、読んでも読んでも果てしなく感じる『千夜千冊』に、相変わらず誤字は次々と発見される。数限りないので私もすでにメモするのはやめているが、(これは酷いな)というのを3つだけ挙げておく。
正剛氏は術後なのだ。お弟子さんたちが気を利かせて直してあげるべきだと思うのだが・・


・1600夜
『設文解字』→『説文解字』

・1603夜
「フランスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは」
→スイスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは。(フランス人移住者の家系だがスイス人。なお「シニフィアン」「シニフィエ」はフランス語。)

・0550夜
「・・・(臨済は)大愚和尚の師事を受けた。」
→に師事した。(「師事する」で「教示・教えを受けること」であり、「師事を受ける」とは言わない。)

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